《初婚→死別→再婚→死別》ふたりの夫の死を30代で経験した女性「行ってくるわ」が最期の会話に

自分の死は怖いいっぽう、パートナーに先立たれるのは、残された側からするとこたえるものでしょう。しかも、初婚や再婚相手が立て続けに亡くなったら…。15年間で2度の配偶者との死別を経験した、岡田和美さんに話を聞きました。(全2回中の1回)
【写真】気丈な笑顔が心を打つ「伴侶の相次ぐ死」経験した岡田さんの30代(2枚目/全7枚)
── 大阪で社会保険労務士(以下、社労士)をしながら、大切な人を失ったときに生じる「グリーフ(悲嘆)」に寄り添い、回復を支援するグリーフケアの活動にも力を入れている岡田和美さん。ご自身も、配偶者との死別を経験しているそうですが、経緯を教えていただけますか。
岡田さん:夫と出会ったのは、短大を卒業して流通会社で働いていたときです。当時、彼は28歳で私は20歳でした。夫から声をかけられ、つき合い始めました。入社後3年目を迎え、2階フロアのレジ管理責任者を任され、新人研修の講師役を務めるなど手ごたえを感じていた時期でした。しかし、当時は女性の結婚退社が当たり前で、私も24歳で結婚して家庭に入ることに。すぐに子どもを授かりましたが、妊娠5か月目のころ、夫に異変がおきました。胃に痛みを感じたり、背中に小さな発疹が出たりして、病院に行くと即入院と言われて。毎日、病院にお見舞いする日々になりました。
── 妊娠中の時期に大変でしたね。病名は?
岡田さん:血液のがんである急性白血病でした。がん化した白血球系細胞が増殖し、正常な血液細胞が減少することで貧血、出血症状、肺炎など、重症感染症の症状などが起きやすくなる病気です。いまから思えば、背中の発疹は急性白血病の症状である出血斑だったんです。でも病院では「本人もショックだろうし、妊娠中の身にも障るから」と、医師が私たちに病名を告知しないように親族が配慮しました。そのため、夫と夫の母、私には本当の病名は告げられず、「骨髄機能不全」だと医師から言われました。じつは、その時点で余命2年だったんです。
ちょうど俳優の渡辺謙さんも急性白血病を患って闘病中で、テレビでその症状を見た夫が「俺、渡辺謙と同じ病気じゃないですか?」と、医師に相当詰め寄っていたそうです。夫の症状がひどいので重大な病気だと、私も感じていました。でも、一度は退院して家に帰れるまで病状がおさまり、出産には間に合ったんです。半年ほど家族3人で暮らしたのですが、夫が風邪をこじらせて入院。私は娘を保育園や親族に預けて看病に通いました。しかし、娘の1歳の誕生日を病室でお祝いした直後、大量の出血があり、1か月後に肺炎で亡くなりました。
── 旦那さんは、岡田さんと1歳のお子さんを残して亡くなったのですね。直後はどのような心境でしたか?
岡田さん:当時、私は27歳でお葬式のことは何もわからず、葬儀や納骨を周囲に従って終えました。その後も娘とふたり、目の前の生活に精一杯で、自分の気持ちにふたをして過ごさざるをえませんでした。「つらい」と感じるすき間もなく、悲しい気持ちを感じても、どうしても言葉に出せなかったんです。もちろん、街で家族連れを見るたびに悲しくなりました。でも「悲しい」とは言えなかったんです、だって、言ってもしかたがないじゃないですか。
── その娘さんが成長し、岡田さんの心境に変化はありましたか?
岡田さん:娘が4歳のころ「うちはどうしていつもお母さんとふたりなの?」と、聞かれたことがあり、そのとき、夫が亡くなった経緯を伝えました。娘は「ふーん」と理解はしていたようですが、そのころから、娘のためにも「父親がいれば」と再婚への気持ちがわきはじめました。けれど、いくつか再婚の話はあってもなかなか思うように進まないので、もう娘とふたりだけで生きていこうと決めた矢先に、大阪で阪神大震災にあいました。
地鳴りのような轟音とともに、タンスの上の重い金属製の衣装ケースが娘の布団の足元に落ちてきたんです。もしあれが、娘の頭に当たっていたらと想像すると…。本当に怖かったし、このままひとりで重要な判断をしながら、娘を育てる責任のすべてを負って生きていくのはムリだと感じ、頼れる人が欲しいと、結婚相談所を通じて再婚しました。
── 再婚相手はどんな方ですか?
岡田さん:再婚相手は4歳年上で、お酒やタバコの好きな人でした。息子が生まれて幸せでしたが、夫婦ケンカも多かったです。夫が安定した仕事になかなかつけなくて、経済的なことで言い争いになることもありました。1度、夫が「もう出ていく」と言うので、「あなたにとって、私は他人だけど、子どもたちにとってあなたは親なのよ、責任を果たして」と止めました。それから夫は親としての自覚を強く持ったらしく、定職につき、人が変わったように熱心に働きました。私も「冷たいことばかり言わないで、夫にもっと優しく接しよう」と反省した矢先、夫が「頭が痛いから頭痛薬が欲しい」と言い出したんです。
── よくある頭痛や風邪の症状のような感じでしょうか。
岡田さん:はい。夫も一時的なことだと思ったらしく、病院に行かず、通常通り生活を続けました。でも、その週末の午前中、小1の息子をスイミングに連れていくために、私が「行ってくるわ」と告げ、夫が「気をつけて行ってきて」と、答えたのが最期の会話になったんです。
お昼過ぎに高1の娘から「お父さんが息をしてない」と電話がありました。夫は自宅の2階で倒れ、ズシンという音を聞いた娘が発見したそうです。私が病院にかけつけたとき、医師たちは心臓マッサージをして蘇生の努力を続けてくれていましたが、すでに自宅で死亡していたようです。くも膜下出血により、夫は46歳で帰らぬ人となりました。
── まさかの2度目の配偶者の死ですね。しかも、直前までふつうに生活をしていたのに突然の別れとは…。
岡田さん:2度目の夫の死はあまりに突然すぎて、本当につらかったです。最初の夫の看取りは闘病生活を経ていたので、ある程度の覚悟や準備はできました。最後、死期を悟った夫が、私に「(いままで)ありがとう」と言うので、縁起でもないと「何言ってるのよ」と、気持ちを伝えあうことも叶いましたが…。
かかりつけ医による死亡確認ができない自宅死は、警察の検視が必要です。再婚相手の夫はかかりつけ医のいない突然死のため、死亡診断書の手配や行政の届け出まで、すべてを私が行いました。葬儀屋さんも私の友人の住職も「10数年の間に、2度、配偶者と死別した人は聞いたことがない」と驚いていました。まわりも、私にどう声をかけてよいのか、わからないという感じでしたね。
── 周囲の方もとまどったでしょうね。第1発見者の娘さんの様子はいかがですか。9歳下の弟さんは父親の死をどのように感じていたのでしょうか。
岡田さん:娘は発見後、救急車をすぐに呼びました。救急隊が到着するまでの間も通報した電話をつないだままにし、救命士さんから指示を受けて心臓マッサージを続けたそうです。病院で待っている間に「お母さん、私、心臓マッサージできたよ」と、教えてくれました。お葬式でもしっかりしていて、娘の様子が心配で来てくれた高校の先生が、娘ではなく、泣きじゃくる私を励ましてくれたくらいです。
じつは娘は中1のときに「私、看護師になる」と宣言していて、言葉通り看護師になりました。最初の夫が亡くなったとき、娘はまだ1歳で記憶は残っていませんが、心のどこかで父の死に影響を受けていたのかもしれません。再婚相手の夫にひとりで心臓マッサージを続けた姿に、娘の強い思いを感じました。
当時、小1だった息子はあまり状況を理解していませんでした。でも、小6のとき、学校の授業で「父は酒で死期を早めたので、自分は大人になっても酒を飲まないつもりだ」と発言して、まわりを驚かせたそうです。彼なりに成長してから考えることがあったのでしょう。
── 岡田さんご自身は、直後はどのような状態だったのでしょうか?
岡田さん:「ごめんね、許してね」と子どもたちに告げて、目の前で思いきり泣きました。そうしないと自分が壊れそうでやっていられなかったし、感情を抑えることができなかったからです。
ふたりの配偶者の死のうち、どちらがきつかったかと聞かれたら、突然だったぶん、2度目の死別がきつかったです。でも、1度目の死別後は感情が表現できず、長い間ひきずったつらさは大きいものでした。2度目は突然だったため、バタバタして、死を受け入れる覚悟をする時間のないまま大変でしたが、感情を表に出せたので、最初の配偶者の死よりは心が解放された気がします。ただ、入院を経た病死も突然死も、大切な人を失った悲しみは長く癒えることはありませんでした。

結婚相手が続けて死別してしまう経験をした岡田和美さん。その喪失感に周囲はとまどいながらも、気づかった声をかけてくれたそうですが、もっとも救いとなったのは、黙って2時間、背中をさすってくれた友人の寄り添い方だったそうです。
取材・文/岡本聡子 写真提供/岡田和美、野田涼・soar