苦渋の「失踪宣告」、今も待ち続ける 豪雨で行方不明のおばへの祈り

熊本県南部を中心に記録的な大雨で関連死2人を含む69人が亡くなった2020年7月の九州豪雨。氾濫した河川の濁流にのまれ、行方不明となった女性は昨年、法的に死亡したとみなされる「失踪宣告」が確定した。家族は受け入れたくない現実と向き合いながら、「あなたの帰りを待っています」と祈り続ける。
【写真】球磨川で白い菊を手に手を合わせるおい 豪雨から丸3年の4日、熊本県芦北町の球磨川沿いにある城幸恵さん(当時89歳)の自宅には、おいの文博さん(76)と妻裕子さん(74)の姿があった。文博さんは川に向かって10秒間、目を閉じて手を合わせた後、そっと白い菊を流した。「おばさん、どこね。どこにおるんか、教えてよ」

幸恵さんは先祖代々暮らしてきた町外れの天月(あまつき)地区で1人暮らしをしていた。この地で一緒に暮らしていた文博さんは幸恵さんを母のように慕っていた。 しかし、3年前の7月4日は未明から電話がつながらず、道路が冠水して助けにも行けなかった。文博さんが同日昼過ぎにたどり着いた時には幸恵さんの姿はなかった。自宅は天井まで泥で汚れ、家具が散乱していた。 被災後、吉報を待ち続けたが、手がかりは何一つ見つからなかった。「魂だけでも落ち着かせてやらんば」との思いで豪雨から1年過ぎた後に失踪宣告を裁判所に申し立て、22年6月に確定した。 22年9月には文博さんと裕子さんの2人で幸恵さんの「葬式」をし、法名も授けられた。命日は「20年7月4日」。納骨堂には見つかっていない遺骨の代わりに、幸恵さんに関する新聞記事を木箱に詰めて供養した。 しかし、文博さんの心の区切りはつかなかった。幸恵さんは生前、「私の葬式には、何人こらすかな」と心配していた。文博さんたちは、新型コロナウイルスの感染拡大が落ち着いた今年5月、町内の寺で親戚約30人を集めた「お別れ会」を開いた。 キク、ユリ、コチョウラン――。「まっさらな気持ちで、おばさんを送り出したい」との思いから、幸恵さんの遺影の周りは真っ白の花で埋め尽くした。会の最後には、顔見知りだった近所の男性が幸恵さんのために作詞・作曲したという歌を裕子さんが歌った。 <雨降るたびに 思いは絶えず 知らせを待って 閉ざさればかり あなたの笑顔 浮かんできます 私の真実(こころ) 伝えて欲しい あなたの帰り 待ってます> 芦北町では23日、県と町主催の犠牲者追悼式が営まれる。幸恵さんの自宅もかさ上げが予定され、跡地は川幅を広げる工事のために削られる見込みだ。文博さんは「7月4日をおばさんの家で過ごすのも、今年が最後になるかもしれない」とつぶやく。 あの日から3年。「長く、重い3年間だった。『おばさんば見つかってほしい』。この思いは一生、残り続けると思います」。文博さんはそう言うと、幸恵さんが大好きだった球磨川を見つめた。【中村園子】
豪雨から丸3年の4日、熊本県芦北町の球磨川沿いにある城幸恵さん(当時89歳)の自宅には、おいの文博さん(76)と妻裕子さん(74)の姿があった。文博さんは川に向かって10秒間、目を閉じて手を合わせた後、そっと白い菊を流した。「おばさん、どこね。どこにおるんか、教えてよ」
幸恵さんは先祖代々暮らしてきた町外れの天月(あまつき)地区で1人暮らしをしていた。この地で一緒に暮らしていた文博さんは幸恵さんを母のように慕っていた。
しかし、3年前の7月4日は未明から電話がつながらず、道路が冠水して助けにも行けなかった。文博さんが同日昼過ぎにたどり着いた時には幸恵さんの姿はなかった。自宅は天井まで泥で汚れ、家具が散乱していた。
被災後、吉報を待ち続けたが、手がかりは何一つ見つからなかった。「魂だけでも落ち着かせてやらんば」との思いで豪雨から1年過ぎた後に失踪宣告を裁判所に申し立て、22年6月に確定した。
22年9月には文博さんと裕子さんの2人で幸恵さんの「葬式」をし、法名も授けられた。命日は「20年7月4日」。納骨堂には見つかっていない遺骨の代わりに、幸恵さんに関する新聞記事を木箱に詰めて供養した。
しかし、文博さんの心の区切りはつかなかった。幸恵さんは生前、「私の葬式には、何人こらすかな」と心配していた。文博さんたちは、新型コロナウイルスの感染拡大が落ち着いた今年5月、町内の寺で親戚約30人を集めた「お別れ会」を開いた。
キク、ユリ、コチョウラン――。「まっさらな気持ちで、おばさんを送り出したい」との思いから、幸恵さんの遺影の周りは真っ白の花で埋め尽くした。会の最後には、顔見知りだった近所の男性が幸恵さんのために作詞・作曲したという歌を裕子さんが歌った。
<雨降るたびに 思いは絶えず
知らせを待って 閉ざさればかり
あなたの笑顔 浮かんできます
私の真実(こころ) 伝えて欲しい
あなたの帰り 待ってます>
芦北町では23日、県と町主催の犠牲者追悼式が営まれる。幸恵さんの自宅もかさ上げが予定され、跡地は川幅を広げる工事のために削られる見込みだ。文博さんは「7月4日をおばさんの家で過ごすのも、今年が最後になるかもしれない」とつぶやく。
あの日から3年。「長く、重い3年間だった。『おばさんば見つかってほしい』。この思いは一生、残り続けると思います」。文博さんはそう言うと、幸恵さんが大好きだった球磨川を見つめた。【中村園子】