関西人以外には謎のドリンク?『ひやしあめ』 「なぜ関東にはない?」「なぜ飲み物なのに飴?」

ジリジリと暑い日々が続く夏。キリッと冷えた『ひやしあめ』で、いっときの涼しさを楽しんだ経験はありませんか? 優しい甘さの中に、ぴりっと辛い生姜の風味がおいしい、関西の夏を代表する飲み物です。 関西圏のスーパーでは「ひやしあめの素」が販売されていたり、自動販売機で缶入りのもの並んでいたり、そこかしこでその姿を見かけますよね? しかしこの『ひやしあめ』、なぜか他の地域ではほとんど知られていないのです。また、飲み物なのに「飴」と呼ばれる理由も気になります。

関西人ならピンとくる『ひやしあめ』。生姜の香りがふわっとひろがる昔ながらのドリンク さまざまな謎について、『ひやしあめ』をはじめ、千歳飴、京飴などを手がける「岩井製菓」(京都府宇治市)に詳しく聞いてみました。 まずは『ひやしあめ』という名のルーツについて。呼称だけに着目すると、固形飴を溶かして冷やしただけ……という単純な想像をしてしまうのですが、実際のところはどうなのでしょうか?百貨店や駄菓子屋で、コップにとろりとそそがれた『ひやしあめ』を飲んだ思い出がある人も多いのでは?「飴、といえばコンビニやスーパーで売っているキャンディなどの“飴ちゃん”をイメージする方がほとんどだと思います。しかし、固形の飴が庶民のあいだに根付いたのは明治以降なのです。そもそも砂糖は、江戸時代から以前は現在のように広く流通しておらず、庶民のあいだで主流の甘味料はでんぷんやトウモロコシ・麦などからできる『水飴』でした。つまり、彼らにとって飴とは水飴のことだったのです」(岩井製菓) 奈良時代、中国から持ち込まれたとされる砂糖。江戸時代には南蛮貿易が盛んになり取引量も増えたようですが、庶民には手が出せない高級品でした。明治時代に入り、海外から近代的な製糖技術が流入したことで、砂糖はようやく庶民に行きわたるようになり、気軽に食されるようになったそうです。今でこそ気軽に手に入る砂糖も、江戸時代やそれ以前の庶民たちにとっては高価なアイテムだった「『ひやしあめ』がどのように生まれたのかは諸説ありますが、原型は“水飴を溶かし冷ました飲み物”のことでした。もともと水飴を溶かした『あめゆ』という温かい飲み物があって、そこから派生したと考えられています。そして明治以降、製氷技術が発展したことにより現在のものに近い『ひやしあめ』が誕生した……という説が主流です」(岩井製菓)『ひやしあめ』が登場する前は、温かい『あめゆ』が飲まれていた さらに、フレーバーとして定着している「生姜」ですが、銭湯文化と深く関わっている可能性もあるのだとか。昭和初期の銭湯では、人々のあいだで風呂上がりに「ニッキ水(シナモンが入った飲み物)」や「みかん水」をグイッと飲むのがおなじみだったそう。その中に『ひやしあめ』もラインナップしていたのです。「昭和の初め、冷蔵技術は今ほど発達していませんでした。そのため、生姜のぴりっとした清涼感と爽やかな喉越しが好まれ、定番の味となったのではないでしょうか」(岩井製菓)岩井製菓では、海外で『ひやしあめ』を説明する際、“ジンジャーエールのようなもの”と表現することもあるそう『ひやしあめ』と『あめゆ』が誕生した場所について、はっきりとした答えはないそうです。ですが、江戸時代末期の大阪の様子が知れる「花の下影」という本の中に『飴湯』と書かれた絵が登場していることもあり、おそらく大阪で生まれたのではないか……という説が有力です。「大昔は関西以外の地域でも『ひやしあめ』や『あめゆ』の文化があったそうですが、空襲や大震災で各地の販売店・製造工場は潰れてしまったと聞いています。そんな中、大阪や京都では被災をまぬがれ残った所が多かったため、関西では『ひやしあめ文化』が定着したのでしょう。また、食文化が盛んな地域性も手伝って、過酷な戦後を経てなお、『ひやしあめ』は消えることなく今に残っているのかもしれません」(岩井製菓)厳しい時代を乗り越えて、関西で息づく『ひやしあめ文化』 首都圏や九州などでも『ひやしあめ』を出張販売している岩井製菓。「これが飴?」と首をかしげる人も少なくないのだとか。しかし、ひとくち飲めば「なんだか懐かしい!」と笑顔になるそうです。 時代のうねりに翻弄されながらも生き残り、関西に根づいた『ひやしあめ』。再び全国に浸透する未来が訪れるかもしれません。(取材・文=つちだ四郎)どこかホッとする懐かしい味わいは、関西以外の人にも好評。今後『ひやしあめ』が全国区になる可能性も
ジリジリと暑い日々が続く夏。キリッと冷えた『ひやしあめ』で、いっときの涼しさを楽しんだ経験はありませんか? 優しい甘さの中に、ぴりっと辛い生姜の風味がおいしい、関西の夏を代表する飲み物です。
関西圏のスーパーでは「ひやしあめの素」が販売されていたり、自動販売機で缶入りのもの並んでいたり、そこかしこでその姿を見かけますよね? しかしこの『ひやしあめ』、なぜか他の地域ではほとんど知られていないのです。また、飲み物なのに「飴」と呼ばれる理由も気になります。
さまざまな謎について、『ひやしあめ』をはじめ、千歳飴、京飴などを手がける「岩井製菓」(京都府宇治市)に詳しく聞いてみました。
まずは『ひやしあめ』という名のルーツについて。呼称だけに着目すると、固形飴を溶かして冷やしただけ……という単純な想像をしてしまうのですが、実際のところはどうなのでしょうか?
「飴、といえばコンビニやスーパーで売っているキャンディなどの“飴ちゃん”をイメージする方がほとんどだと思います。しかし、固形の飴が庶民のあいだに根付いたのは明治以降なのです。そもそも砂糖は、江戸時代から以前は現在のように広く流通しておらず、庶民のあいだで主流の甘味料はでんぷんやトウモロコシ・麦などからできる『水飴』でした。つまり、彼らにとって飴とは水飴のことだったのです」(岩井製菓)
奈良時代、中国から持ち込まれたとされる砂糖。江戸時代には南蛮貿易が盛んになり取引量も増えたようですが、庶民には手が出せない高級品でした。明治時代に入り、海外から近代的な製糖技術が流入したことで、砂糖はようやく庶民に行きわたるようになり、気軽に食されるようになったそうです。
「『ひやしあめ』がどのように生まれたのかは諸説ありますが、原型は“水飴を溶かし冷ました飲み物”のことでした。もともと水飴を溶かした『あめゆ』という温かい飲み物があって、そこから派生したと考えられています。そして明治以降、製氷技術が発展したことにより現在のものに近い『ひやしあめ』が誕生した……という説が主流です」(岩井製菓)
さらに、フレーバーとして定着している「生姜」ですが、銭湯文化と深く関わっている可能性もあるのだとか。昭和初期の銭湯では、人々のあいだで風呂上がりに「ニッキ水(シナモンが入った飲み物)」や「みかん水」をグイッと飲むのがおなじみだったそう。その中に『ひやしあめ』もラインナップしていたのです。
「昭和の初め、冷蔵技術は今ほど発達していませんでした。そのため、生姜のぴりっとした清涼感と爽やかな喉越しが好まれ、定番の味となったのではないでしょうか」(岩井製菓)
『ひやしあめ』と『あめゆ』が誕生した場所について、はっきりとした答えはないそうです。ですが、江戸時代末期の大阪の様子が知れる「花の下影」という本の中に『飴湯』と書かれた絵が登場していることもあり、おそらく大阪で生まれたのではないか……という説が有力です。
「大昔は関西以外の地域でも『ひやしあめ』や『あめゆ』の文化があったそうですが、空襲や大震災で各地の販売店・製造工場は潰れてしまったと聞いています。そんな中、大阪や京都では被災をまぬがれ残った所が多かったため、関西では『ひやしあめ文化』が定着したのでしょう。また、食文化が盛んな地域性も手伝って、過酷な戦後を経てなお、『ひやしあめ』は消えることなく今に残っているのかもしれません」(岩井製菓)
首都圏や九州などでも『ひやしあめ』を出張販売している岩井製菓。「これが飴?」と首をかしげる人も少なくないのだとか。しかし、ひとくち飲めば「なんだか懐かしい!」と笑顔になるそうです。
(取材・文=つちだ四郎)