「オレ、女性問題でお金が必要なんだ」認知症の母が200万円の“オレオレ詐欺被害”に…犯人の巧妙すぎる犯行手口とは

ドラマ『ドクターX ~外科医・大門未知子~』 (テレビ朝日系)の医療監修や、各種メディア出演、講演などで幅広く活躍している現役医師で医療ジャーナリストの森田豊氏。彼の母親は23年前にアルツハイマー型認知症を発症し、現在は施設で暮らしているという。
【写真】この記事の写真を見る(2枚) ここでは、森田氏の母親がどのように認知症を発症し、家族がどう向き合ってきたのかを綴った『医者の僕が認知症の母と過ごす23年間のこと』(自由国民社)より一部を抜粋。母親の認知症を突き付けられた“オレオレ詐欺事件”の顛末を紹介する。(全2回の1回目/2回目に続く)

iStock.com ◆◆◆認知症を突きつけた振り込め詐欺事件 忘れもしない。2006年11月のことだ。 母が、振り込め詐欺に遭った。 勤務先の病院で、妻の千賀子から電話で知らされた。 当時僕は、都内総合病院の部長職を勤めていた。知らせを受けたのはちょうど手術を終えた直後だったが、あとのことは他の医師に託し、取る物も取りあえず、僕は自宅へとタクシーを走らせた。(振り込め詐欺だなんて、母さん、一体どうしちゃったんだよ) 突然の知らせに、僕は激しく動揺していた。と同時に、「とうとうこの日が来てしまったか」と、どん底につき落とされたような気持ちも味わっていた。(やっぱり、母さんは認知症なのか……) 予兆がなかったわけじゃない。振り返れば思い当たるフシはいくらもあった。 だけど、あの母さんが、しっかり者の母さんが、認知症なんかであるはずがない。 年を取れば誰だって物忘れするし、判断も行動も怪しくなる。 振り込め詐欺なんて、きっと何かの間違いだ。間違いであってほしい……。 心の拠り所だった母の一大事に、僕は完全に冷静さを失っていた。 今思えば、医師としてあるまじき態度と言わざるを得ない。だが、その時の僕は厳然と突きつけられた事実を、まだ受け止めきれずにいた。「今から言う口座に、200万円振り込んでほしいんだ」「豊、お帰り~」 僕の心配をよそに、母は帰宅した僕を満面の笑顔で迎えた。いつも以上にごきげんで、無邪気にさえ見えた。しかし、そんな母とは裏腹に、そばにいた父と姉は困惑し、いら立っていた。 一体何が起きたのか、僕が尋ねるより先に、父が口火を切った。「豊、落ち着いて聞けよ。母さんが振り込め詐欺にやられた。大金を盗られた」「大金って、いくら?」「……200万」「に、200万!?」 仰天する僕に、姉が事件の一部始終を語った。 電話がかかってきたのは、その日の昼過ぎだった。「もしもし」と電話に出た母の耳元に、親しげな男の声が流れてくる。 犯人「母さん? オレオレ」 母「ああ、豊。どうしたの?」 犯人「あのさ、母さん、誰にも言わないでくれる?」 母「大丈夫だよ、誰にも言わない。千賀子さんにも言わないから」 犯人「オレ、今、女性問題で大変なんだ。お金が必要なんだよ」 母「どうすればいいの?」 犯人「今から言う口座に、200万円振り込んでほしいんだ」 母は急いで銀行に行き、男の指示に従ってお金を振り込んでしまう。しかし、自分がだまされているとはまったく気づかない。帰宅するとすぐ、再び男から電話がかかってくる。「実はまだ足りないんだ。あと400万円」 犯人「200万円、確認できたよ。母さん、ありがとう。でも、実はまだ足りないんだ。あと400万円、振り込んでくれないかな?」 母「わかった。ちょっと待っててね」 母はもう一度同じ銀行に足を運び、お金を振り込もうとする。だが、窓口で「定期預金を解約しないと振り込めない」と言われ、定期を解約しようとするも、不審に思った銀行員に止められ、店の奥に連れて行かれる。振り込め詐欺を疑った窓口の人が、機転を利かせてくれたのだ。 ところが、母は銀行員に食ってかかった。「私のお金なのよ! どうして止めるの!? 急いで豊にお金を振り込まなくちゃいけないのに!!」 困り果てた銀行員は、母から家族の電話番号を聞き出し、家族と連絡を取ろうと試みる。だが、僕の携帯電話にはつながらず、姉は用事があってすぐに銀行へ向かえず、やむなく母は銀行員に付き添われ、調書を書くために警察署に連れて行かれた。被害に遭ったことを理解できない母 母は警察に連れて行かれてもなお、「なぜ振り込ませてくれないのか。銀行が悪い」と文句を言い続けた。おまけに、振込額を200万ではなく2000万だと言い出すなど、調書もまともに取れない状態だった。 結局、父が母を迎えに行ったが、母はやって来る父を見るなり、うれしそうな顔で「パパ~」と甘えてすがった。困っている自分を正義の味方の父が助けに来てくれたと、そんな雰囲気だったらしい。 姉は事件のあらましを銀行の人から電話で聞かされ、用事を済ませて急いで我が家に駆けつけた。だが、姉の心配をよそに、母は拍子抜けするほどあっけらかんとしていた。「私、何か悪いことをした?」「豊のためにいいことをしたのよ」と言わんばかりの様子だったという。「それにしても、どうして銀行は俺のところに電話をよこさなかったのかな?その時間なら電話に出られたし、出られなかったとしても、留守電に残してくれれば折り返し電話したのに」「豊の番号にかけたらしいんだけど、つながらなかったっていうの。そういえばお母さん、『豊の携帯番号が変わった』って、別の番号が書かれたメモを持ってたわよ。番号、変えたの?」 姉はそう言いながら、電話番号が書かれた紙を僕に見せた。でも、それは僕の番号ではない。まったく知らない番号だった。「いや、変えてないよ。そんなこと、母さんにも言ってないし……」 妙だなと思いを巡らせながら、僕は「そういうことか!」と気づいた。 恐らく、前日すでに振り込め詐欺からの電話が来ていたのだ。息子を装い、電話番号を変えたと言って自分たちの番号を教え、家族にバレないようやりとりして、金を振り込ませようとしたのだ。 こんな巧妙なことをされたら、認知症でなくてもだまされてしまう。なんて卑劣なことをするんだと憤りつつ、息子のピンチを何とか救おうとしてくれた母に対して、僕は申し訳ない思いでいっぱいになった。母は子どものようにそっぽを向いてしまう(母さん、ごめん、本当にごめん。早く手を打たなかった僕が悪いんだ) 僕は自分を責めながらも、この程度で済んでよかった、母の命が危険にさらされるようなことがなくて本当によかった、と安堵していた。 大金を盗られたのは痛手だが、家が焼けてなくなったわけでも、人様に迷惑をかけたわけでもない。実際、2回目の400万円はすんでのところで盗られずに済んだじゃないか。 僕は気を取り直し、振り込め詐欺に遭った経緯を母に説明した。順を追って、落ち着いて丁寧に説明すれば、何が起きたかくらいはわかるはず。そう思ったのだ。 ところが、何度説明しても母は理解できなかった。「ああ、そう」「もういい、わかったわよ」という感じで、面倒くさそうな反応を示すだけだった。 昔の母なら、こんなことはなかった。物事をうやむやに済ますことなど絶対になかった。母はとにかく几帳面で、問題を中途半端に放り投げるような人ではないのだ。 ところが、この時の母はまるで違った。煩わしいことは考えたくないという調子で、子どものようにそっぽを向いてしまった。今にして思うと、これも認知症の症状の1つだったに違いない。 要するに、何が起きたのか1つひとつの出来事は認識できても、それを結びつけて統合的に考えることができないのだ。普通なら「詐欺に遭った→ 警察に連れて行かれた→まずいことになった」とスムーズにつながるが、認知機能が衰えると、これが簡単にはできなくなる。認知症というと記憶障害をイメージしがちだが、こうした論理的思考の低下も大きな特徴の1つと言える。倹約家の母、金の無心をしたことのない僕 ちなみに、普段の母は倹約家だ。健全な経済観念の持ち主で、何百万ものお金を簡単に使ってしまうようなことは決してない。 たまに高価な服を買うこともあったが、買うならバーゲン、正規の値段では絶対に買わないと豪語していた。「高い物を安く買う。安い物を高く見えるように着こなす。それが本当のおしゃれなのよ」と、よく僕の妻にも話していた。 ついでにもう1つお断りしておくが、僕は母にお金を無心したことは一度もない。 女性問題で心配をかけたことも、もちろんない。 そりゃ、結婚前はそれなりにいろいろあった。小学生の頃は近所や同級生の女の子たちから、手紙や誕生日プレゼントをよくもらっていた。研修医時代には、複数の女性から電話が来ることもあった。 ひょっとすると、母はこういうエピソードを覚えていて、「女性問題で困っている」という詐欺師の言葉を鵜呑みにしてしまったのかもしれない。多少なりともモテていたのはあくまで昔の話なのだが、母の頭の中では、僕はいまだに「モテる息子」として記憶されているのかもしれない。 僕としては悪い気はしないが、そのことが振り込め詐欺の被害につながったのだとしたら、手放しで喜んではいられないのだ……。メンツを潰された父の苦悩 振り込め詐欺事件は家族全員に大きな衝撃を与えたが、最もショックを受けたのは、実は父だった。 父は僕と同じ医者だが、地元警察の懇話会の会長も務め、この日も警察の重要な集まりに参加していた。だが、母が振り込め詐欺被害に遭って聴取を受けていると聞き、急遽、会を抜けて母を迎えに行った。 突然の知らせに父が驚いたことは、言うまでもない。しかし父曰く、この時は驚きや心配を通り越して、顔から火が出るほど恥ずかしかったという。 何しろ父は、懇話会の会長として振り込め詐欺防止のための講演も行っている。いわば、市民に向けて啓発活動をしている立場だ。にもかかわらず、身内が振り込め詐欺に引っかかるなんて、こんな恥ずかしいことはない、とんでもないことをしてくれたと、父は初めのうち、母にブツブツ文句を言っていた。 しかし、いくら言っても母の反応は変わらない。「あたし、何か悪いことした?」という無邪気な表情を崩さない。そんな母の様子を見るうち、父も次第に脱力し、もう何を言っても仕方ないとギブアップしてしまった。「もっとお母さんのことについて話し合うべきだったのかな」 でも、そもそも悪いのは詐欺師であって母じゃない。母はお金をだまし取られた被害者であり、責められる道理はどこにもない。責められるべきは母ではなく、認知症かもしれない母にお金の管理をさせておいた僕なのだ。 ただ、母はお金の管理を自分以外の人間にされることを嫌がっていた。姉が印鑑と通帳を管理すると言っても、「私がやる」の一点張りで、少しも聞き入れようとはしない。ここで僕がしゃしゃり出るのは気がひけるし、お金のことでもめるのも嫌だったから、僕はそれ以上介入しようとしなかったのだ。 ところが、ここでまた1つ、僕は姉から衝撃の事実を知らされた。「あら、お母さんは豊のことは信頼してたわよ。私は信用ならないけど、豊ならお金のことも安心して任せられるんですって」「えっ!? 母さん、そんなこと言ってたの?」「言ってたわよ。豊は私のお金を盗ったりしない、でも私とお父さんは盗る、だから信用できないんですって」 母と姉は典型的な仲良し母娘だ。一緒に買い物にも行くし、旅行もする。過ごす時間も僕以上に長い。2人の絆は盤石だったはず(父はともかく)。にもかかわらず、姉がお金を盗ると言い出すなんて、普通の状態とはとても思えない。 愕然とする僕の横で、黙って聞いていた妻が遠慮がちにつぶやいた。「一緒に暮らしていたのに私たち、お母さんのこと放っておきすぎたかもしれないね。お母さんの様子がちょっとヘンだって気づいていながら、それぞれが忙しさにかまけて、お母さんの変化に向き合ってなかったかもしれない。もっとお母さんのことについて、顔をそろえて話し合うべきだったのかな」「何これ! どうしてこんなにあるの!?」冷蔵庫を開けたら40本のバナナが…認知症の母が起こした“バナナ事件”の全貌 へ続く(森田 豊)
ここでは、森田氏の母親がどのように認知症を発症し、家族がどう向き合ってきたのかを綴った『医者の僕が認知症の母と過ごす23年間のこと』(自由国民社)より一部を抜粋。母親の認知症を突き付けられた“オレオレ詐欺事件”の顛末を紹介する。(全2回の1回目/2回目に続く)
iStock.com
◆◆◆
忘れもしない。2006年11月のことだ。
母が、振り込め詐欺に遭った。
勤務先の病院で、妻の千賀子から電話で知らされた。
当時僕は、都内総合病院の部長職を勤めていた。知らせを受けたのはちょうど手術を終えた直後だったが、あとのことは他の医師に託し、取る物も取りあえず、僕は自宅へとタクシーを走らせた。
(振り込め詐欺だなんて、母さん、一体どうしちゃったんだよ)
突然の知らせに、僕は激しく動揺していた。と同時に、「とうとうこの日が来てしまったか」と、どん底につき落とされたような気持ちも味わっていた。
(やっぱり、母さんは認知症なのか……)
予兆がなかったわけじゃない。振り返れば思い当たるフシはいくらもあった。
だけど、あの母さんが、しっかり者の母さんが、認知症なんかであるはずがない。
年を取れば誰だって物忘れするし、判断も行動も怪しくなる。
振り込め詐欺なんて、きっと何かの間違いだ。間違いであってほしい……。
心の拠り所だった母の一大事に、僕は完全に冷静さを失っていた。
今思えば、医師としてあるまじき態度と言わざるを得ない。だが、その時の僕は厳然と突きつけられた事実を、まだ受け止めきれずにいた。
「豊、お帰り~」
僕の心配をよそに、母は帰宅した僕を満面の笑顔で迎えた。いつも以上にごきげんで、無邪気にさえ見えた。しかし、そんな母とは裏腹に、そばにいた父と姉は困惑し、いら立っていた。
一体何が起きたのか、僕が尋ねるより先に、父が口火を切った。
「豊、落ち着いて聞けよ。母さんが振り込め詐欺にやられた。大金を盗られた」
「大金って、いくら?」
「……200万」
「に、200万!?」
仰天する僕に、姉が事件の一部始終を語った。
電話がかかってきたのは、その日の昼過ぎだった。「もしもし」と電話に出た母の耳元に、親しげな男の声が流れてくる。
犯人「母さん? オレオレ」
母「ああ、豊。どうしたの?」
犯人「あのさ、母さん、誰にも言わないでくれる?」
母「大丈夫だよ、誰にも言わない。千賀子さんにも言わないから」
犯人「オレ、今、女性問題で大変なんだ。お金が必要なんだよ」
母「どうすればいいの?」
犯人「今から言う口座に、200万円振り込んでほしいんだ」
母は急いで銀行に行き、男の指示に従ってお金を振り込んでしまう。しかし、自分がだまされているとはまったく気づかない。帰宅するとすぐ、再び男から電話がかかってくる。
犯人「200万円、確認できたよ。母さん、ありがとう。でも、実はまだ足りないんだ。あと400万円、振り込んでくれないかな?」
母「わかった。ちょっと待っててね」
母はもう一度同じ銀行に足を運び、お金を振り込もうとする。だが、窓口で「定期預金を解約しないと振り込めない」と言われ、定期を解約しようとするも、不審に思った銀行員に止められ、店の奥に連れて行かれる。振り込め詐欺を疑った窓口の人が、機転を利かせてくれたのだ。
ところが、母は銀行員に食ってかかった。
「私のお金なのよ! どうして止めるの!? 急いで豊にお金を振り込まなくちゃいけないのに!!」
困り果てた銀行員は、母から家族の電話番号を聞き出し、家族と連絡を取ろうと試みる。だが、僕の携帯電話にはつながらず、姉は用事があってすぐに銀行へ向かえず、やむなく母は銀行員に付き添われ、調書を書くために警察署に連れて行かれた。
被害に遭ったことを理解できない母 母は警察に連れて行かれてもなお、「なぜ振り込ませてくれないのか。銀行が悪い」と文句を言い続けた。おまけに、振込額を200万ではなく2000万だと言い出すなど、調書もまともに取れない状態だった。 結局、父が母を迎えに行ったが、母はやって来る父を見るなり、うれしそうな顔で「パパ~」と甘えてすがった。困っている自分を正義の味方の父が助けに来てくれたと、そんな雰囲気だったらしい。 姉は事件のあらましを銀行の人から電話で聞かされ、用事を済ませて急いで我が家に駆けつけた。だが、姉の心配をよそに、母は拍子抜けするほどあっけらかんとしていた。「私、何か悪いことをした?」「豊のためにいいことをしたのよ」と言わんばかりの様子だったという。「それにしても、どうして銀行は俺のところに電話をよこさなかったのかな?その時間なら電話に出られたし、出られなかったとしても、留守電に残してくれれば折り返し電話したのに」「豊の番号にかけたらしいんだけど、つながらなかったっていうの。そういえばお母さん、『豊の携帯番号が変わった』って、別の番号が書かれたメモを持ってたわよ。番号、変えたの?」 姉はそう言いながら、電話番号が書かれた紙を僕に見せた。でも、それは僕の番号ではない。まったく知らない番号だった。「いや、変えてないよ。そんなこと、母さんにも言ってないし……」 妙だなと思いを巡らせながら、僕は「そういうことか!」と気づいた。 恐らく、前日すでに振り込め詐欺からの電話が来ていたのだ。息子を装い、電話番号を変えたと言って自分たちの番号を教え、家族にバレないようやりとりして、金を振り込ませようとしたのだ。 こんな巧妙なことをされたら、認知症でなくてもだまされてしまう。なんて卑劣なことをするんだと憤りつつ、息子のピンチを何とか救おうとしてくれた母に対して、僕は申し訳ない思いでいっぱいになった。母は子どものようにそっぽを向いてしまう(母さん、ごめん、本当にごめん。早く手を打たなかった僕が悪いんだ) 僕は自分を責めながらも、この程度で済んでよかった、母の命が危険にさらされるようなことがなくて本当によかった、と安堵していた。 大金を盗られたのは痛手だが、家が焼けてなくなったわけでも、人様に迷惑をかけたわけでもない。実際、2回目の400万円はすんでのところで盗られずに済んだじゃないか。 僕は気を取り直し、振り込め詐欺に遭った経緯を母に説明した。順を追って、落ち着いて丁寧に説明すれば、何が起きたかくらいはわかるはず。そう思ったのだ。 ところが、何度説明しても母は理解できなかった。「ああ、そう」「もういい、わかったわよ」という感じで、面倒くさそうな反応を示すだけだった。 昔の母なら、こんなことはなかった。物事をうやむやに済ますことなど絶対になかった。母はとにかく几帳面で、問題を中途半端に放り投げるような人ではないのだ。 ところが、この時の母はまるで違った。煩わしいことは考えたくないという調子で、子どものようにそっぽを向いてしまった。今にして思うと、これも認知症の症状の1つだったに違いない。 要するに、何が起きたのか1つひとつの出来事は認識できても、それを結びつけて統合的に考えることができないのだ。普通なら「詐欺に遭った→ 警察に連れて行かれた→まずいことになった」とスムーズにつながるが、認知機能が衰えると、これが簡単にはできなくなる。認知症というと記憶障害をイメージしがちだが、こうした論理的思考の低下も大きな特徴の1つと言える。倹約家の母、金の無心をしたことのない僕 ちなみに、普段の母は倹約家だ。健全な経済観念の持ち主で、何百万ものお金を簡単に使ってしまうようなことは決してない。 たまに高価な服を買うこともあったが、買うならバーゲン、正規の値段では絶対に買わないと豪語していた。「高い物を安く買う。安い物を高く見えるように着こなす。それが本当のおしゃれなのよ」と、よく僕の妻にも話していた。 ついでにもう1つお断りしておくが、僕は母にお金を無心したことは一度もない。 女性問題で心配をかけたことも、もちろんない。 そりゃ、結婚前はそれなりにいろいろあった。小学生の頃は近所や同級生の女の子たちから、手紙や誕生日プレゼントをよくもらっていた。研修医時代には、複数の女性から電話が来ることもあった。 ひょっとすると、母はこういうエピソードを覚えていて、「女性問題で困っている」という詐欺師の言葉を鵜呑みにしてしまったのかもしれない。多少なりともモテていたのはあくまで昔の話なのだが、母の頭の中では、僕はいまだに「モテる息子」として記憶されているのかもしれない。 僕としては悪い気はしないが、そのことが振り込め詐欺の被害につながったのだとしたら、手放しで喜んではいられないのだ……。メンツを潰された父の苦悩 振り込め詐欺事件は家族全員に大きな衝撃を与えたが、最もショックを受けたのは、実は父だった。 父は僕と同じ医者だが、地元警察の懇話会の会長も務め、この日も警察の重要な集まりに参加していた。だが、母が振り込め詐欺被害に遭って聴取を受けていると聞き、急遽、会を抜けて母を迎えに行った。 突然の知らせに父が驚いたことは、言うまでもない。しかし父曰く、この時は驚きや心配を通り越して、顔から火が出るほど恥ずかしかったという。 何しろ父は、懇話会の会長として振り込め詐欺防止のための講演も行っている。いわば、市民に向けて啓発活動をしている立場だ。にもかかわらず、身内が振り込め詐欺に引っかかるなんて、こんな恥ずかしいことはない、とんでもないことをしてくれたと、父は初めのうち、母にブツブツ文句を言っていた。 しかし、いくら言っても母の反応は変わらない。「あたし、何か悪いことした?」という無邪気な表情を崩さない。そんな母の様子を見るうち、父も次第に脱力し、もう何を言っても仕方ないとギブアップしてしまった。「もっとお母さんのことについて話し合うべきだったのかな」 でも、そもそも悪いのは詐欺師であって母じゃない。母はお金をだまし取られた被害者であり、責められる道理はどこにもない。責められるべきは母ではなく、認知症かもしれない母にお金の管理をさせておいた僕なのだ。 ただ、母はお金の管理を自分以外の人間にされることを嫌がっていた。姉が印鑑と通帳を管理すると言っても、「私がやる」の一点張りで、少しも聞き入れようとはしない。ここで僕がしゃしゃり出るのは気がひけるし、お金のことでもめるのも嫌だったから、僕はそれ以上介入しようとしなかったのだ。 ところが、ここでまた1つ、僕は姉から衝撃の事実を知らされた。「あら、お母さんは豊のことは信頼してたわよ。私は信用ならないけど、豊ならお金のことも安心して任せられるんですって」「えっ!? 母さん、そんなこと言ってたの?」「言ってたわよ。豊は私のお金を盗ったりしない、でも私とお父さんは盗る、だから信用できないんですって」 母と姉は典型的な仲良し母娘だ。一緒に買い物にも行くし、旅行もする。過ごす時間も僕以上に長い。2人の絆は盤石だったはず(父はともかく)。にもかかわらず、姉がお金を盗ると言い出すなんて、普通の状態とはとても思えない。 愕然とする僕の横で、黙って聞いていた妻が遠慮がちにつぶやいた。「一緒に暮らしていたのに私たち、お母さんのこと放っておきすぎたかもしれないね。お母さんの様子がちょっとヘンだって気づいていながら、それぞれが忙しさにかまけて、お母さんの変化に向き合ってなかったかもしれない。もっとお母さんのことについて、顔をそろえて話し合うべきだったのかな」「何これ! どうしてこんなにあるの!?」冷蔵庫を開けたら40本のバナナが…認知症の母が起こした“バナナ事件”の全貌 へ続く(森田 豊)
母は警察に連れて行かれてもなお、「なぜ振り込ませてくれないのか。銀行が悪い」と文句を言い続けた。おまけに、振込額を200万ではなく2000万だと言い出すなど、調書もまともに取れない状態だった。
結局、父が母を迎えに行ったが、母はやって来る父を見るなり、うれしそうな顔で「パパ~」と甘えてすがった。困っている自分を正義の味方の父が助けに来てくれたと、そんな雰囲気だったらしい。
姉は事件のあらましを銀行の人から電話で聞かされ、用事を済ませて急いで我が家に駆けつけた。だが、姉の心配をよそに、母は拍子抜けするほどあっけらかんとしていた。「私、何か悪いことをした?」「豊のためにいいことをしたのよ」と言わんばかりの様子だったという。
「それにしても、どうして銀行は俺のところに電話をよこさなかったのかな?その時間なら電話に出られたし、出られなかったとしても、留守電に残してくれれば折り返し電話したのに」
「豊の番号にかけたらしいんだけど、つながらなかったっていうの。そういえばお母さん、『豊の携帯番号が変わった』って、別の番号が書かれたメモを持ってたわよ。番号、変えたの?」
姉はそう言いながら、電話番号が書かれた紙を僕に見せた。でも、それは僕の番号ではない。まったく知らない番号だった。
「いや、変えてないよ。そんなこと、母さんにも言ってないし……」
妙だなと思いを巡らせながら、僕は「そういうことか!」と気づいた。
恐らく、前日すでに振り込め詐欺からの電話が来ていたのだ。息子を装い、電話番号を変えたと言って自分たちの番号を教え、家族にバレないようやりとりして、金を振り込ませようとしたのだ。
こんな巧妙なことをされたら、認知症でなくてもだまされてしまう。なんて卑劣なことをするんだと憤りつつ、息子のピンチを何とか救おうとしてくれた母に対して、僕は申し訳ない思いでいっぱいになった。
(母さん、ごめん、本当にごめん。早く手を打たなかった僕が悪いんだ)
僕は自分を責めながらも、この程度で済んでよかった、母の命が危険にさらされるようなことがなくて本当によかった、と安堵していた。
大金を盗られたのは痛手だが、家が焼けてなくなったわけでも、人様に迷惑をかけたわけでもない。実際、2回目の400万円はすんでのところで盗られずに済んだじゃないか。
僕は気を取り直し、振り込め詐欺に遭った経緯を母に説明した。順を追って、落ち着いて丁寧に説明すれば、何が起きたかくらいはわかるはず。そう思ったのだ。
ところが、何度説明しても母は理解できなかった。「ああ、そう」「もういい、わかったわよ」という感じで、面倒くさそうな反応を示すだけだった。
昔の母なら、こんなことはなかった。物事をうやむやに済ますことなど絶対になかった。母はとにかく几帳面で、問題を中途半端に放り投げるような人ではないのだ。
ところが、この時の母はまるで違った。煩わしいことは考えたくないという調子で、子どものようにそっぽを向いてしまった。今にして思うと、これも認知症の症状の1つだったに違いない。
要するに、何が起きたのか1つひとつの出来事は認識できても、それを結びつけて統合的に考えることができないのだ。普通なら「詐欺に遭った→ 警察に連れて行かれた→まずいことになった」とスムーズにつながるが、認知機能が衰えると、これが簡単にはできなくなる。認知症というと記憶障害をイメージしがちだが、こうした論理的思考の低下も大きな特徴の1つと言える。
ちなみに、普段の母は倹約家だ。健全な経済観念の持ち主で、何百万ものお金を簡単に使ってしまうようなことは決してない。
たまに高価な服を買うこともあったが、買うならバーゲン、正規の値段では絶対に買わないと豪語していた。「高い物を安く買う。安い物を高く見えるように着こなす。それが本当のおしゃれなのよ」と、よく僕の妻にも話していた。
ついでにもう1つお断りしておくが、僕は母にお金を無心したことは一度もない。
女性問題で心配をかけたことも、もちろんない。
そりゃ、結婚前はそれなりにいろいろあった。小学生の頃は近所や同級生の女の子たちから、手紙や誕生日プレゼントをよくもらっていた。研修医時代には、複数の女性から電話が来ることもあった。
ひょっとすると、母はこういうエピソードを覚えていて、「女性問題で困っている」という詐欺師の言葉を鵜呑みにしてしまったのかもしれない。多少なりともモテていたのはあくまで昔の話なのだが、母の頭の中では、僕はいまだに「モテる息子」として記憶されているのかもしれない。
僕としては悪い気はしないが、そのことが振り込め詐欺の被害につながったのだとしたら、手放しで喜んではいられないのだ……。
振り込め詐欺事件は家族全員に大きな衝撃を与えたが、最もショックを受けたのは、実は父だった。
父は僕と同じ医者だが、地元警察の懇話会の会長も務め、この日も警察の重要な集まりに参加していた。だが、母が振り込め詐欺被害に遭って聴取を受けていると聞き、急遽、会を抜けて母を迎えに行った。
突然の知らせに父が驚いたことは、言うまでもない。しかし父曰く、この時は驚きや心配を通り越して、顔から火が出るほど恥ずかしかったという。
何しろ父は、懇話会の会長として振り込め詐欺防止のための講演も行っている。いわば、市民に向けて啓発活動をしている立場だ。にもかかわらず、身内が振り込め詐欺に引っかかるなんて、こんな恥ずかしいことはない、とんでもないことをしてくれたと、父は初めのうち、母にブツブツ文句を言っていた。
しかし、いくら言っても母の反応は変わらない。「あたし、何か悪いことした?」という無邪気な表情を崩さない。そんな母の様子を見るうち、父も次第に脱力し、もう何を言っても仕方ないとギブアップしてしまった。
でも、そもそも悪いのは詐欺師であって母じゃない。母はお金をだまし取られた被害者であり、責められる道理はどこにもない。責められるべきは母ではなく、認知症かもしれない母にお金の管理をさせておいた僕なのだ。
ただ、母はお金の管理を自分以外の人間にされることを嫌がっていた。姉が印鑑と通帳を管理すると言っても、「私がやる」の一点張りで、少しも聞き入れようとはしない。ここで僕がしゃしゃり出るのは気がひけるし、お金のことでもめるのも嫌だったから、僕はそれ以上介入しようとしなかったのだ。
ところが、ここでまた1つ、僕は姉から衝撃の事実を知らされた。
「あら、お母さんは豊のことは信頼してたわよ。私は信用ならないけど、豊ならお金のことも安心して任せられるんですって」
「えっ!? 母さん、そんなこと言ってたの?」
「言ってたわよ。豊は私のお金を盗ったりしない、でも私とお父さんは盗る、だから信用できないんですって」
母と姉は典型的な仲良し母娘だ。一緒に買い物にも行くし、旅行もする。過ごす時間も僕以上に長い。2人の絆は盤石だったはず(父はともかく)。にもかかわらず、姉がお金を盗ると言い出すなんて、普通の状態とはとても思えない。
愕然とする僕の横で、黙って聞いていた妻が遠慮がちにつぶやいた。
「一緒に暮らしていたのに私たち、お母さんのこと放っておきすぎたかもしれないね。お母さんの様子がちょっとヘンだって気づいていながら、それぞれが忙しさにかまけて、お母さんの変化に向き合ってなかったかもしれない。もっとお母さんのことについて、顔をそろえて話し合うべきだったのかな」
「何これ! どうしてこんなにあるの!?」冷蔵庫を開けたら40本のバナナが…認知症の母が起こした“バナナ事件”の全貌 へ続く
(森田 豊)