東大阪集団リンチ殺人事件 小林竜司死刑囚は「面会室ではにこやかで、話し方も丁寧だった」【声を放つ 当事者の証言】

【声を放つ 当事者の証言】
元稲沢市議・中国「麻薬密輸」事件 30年来の友人が語る不可解「極刑となる中国で加担するメリットはない」 小林竜司死刑囚 (2006年東大阪集団リンチ殺人事件) ◇ ◇ ◇ 2006年6月に、「生き埋め」という残酷な殺害方法が社会を震撼させた東大阪集団リンチ殺人事件。死刑確定した実行犯の男と面会や文通を重ね、「慈悲と天秤 死刑囚・小林竜司との対話」(ポプラ社)を上梓した会社員の岡崎正尚さん(37)に聞いた。 裁判の認定によると、岡山市で暮らしていた実行犯の小林竜司死刑囚(犯行時21)は、東大阪大学の学生だった友人Aが女性をめぐるトラブルから同じ大学の男子学生らに暴行されたうえ、暴力団の名前を出されて50万円の慰謝料を求められたと聞き、報復を企てた。そして友人ら8人と共謀のうえ、友人Aに暴行した男性ら3人をリンチし、うち2人を岡山市の資材置き場で生き埋めにして殺害した。

報道では、そんな小林死刑囚は凶暴極まりない人物のように伝えられたが、当時法科大学院生だった岡崎さんが裁判の控訴審を傍聴したところ、実際の印象は異なった。「小林さんは、報道で見たよりやせていて、坊主頭でした。法廷に入る際は『よろしくお願いします』と礼をしていて、礼儀正しい感じでした」 裁判では、小林死刑囚の友人が2人、情状証人として出廷し、「普段は暴力をふるう人間ではない」と証言していた。「死刑事件でこういうことは珍しい」と思った岡崎さんは、小林死刑囚や事件のことをもっと知りたいと思い、控訴審終了後、大阪拘置所に収容された本人と交流するようになった。「会う前はとげとげしい感じかと思っていましたが、面会室での小林さんはにこやかで、『遠くから来てくださり、ありがとうございます』という丁寧な話し方でした。それでいて堅苦しさはなく、人当たりが良かったです」 小林死刑囚が最高裁で死刑確定し、外部交通(接見・信書の発受など)が制限されるまで、交流は3年近く続いた。この間、事件の背景もいろいろ聞き取った。「小林さんは子供の頃、いじめられていたそうです。その当時、病気で入院した際に見舞いに来てくれたのが、被害者の方たちに暴力をふるわれた友人でした。小林さんとしては、事件は報復としてではなく、暴力団の後ろ盾があるように言っていた被害者の方たちから友人を守りたくて起こしたようです」「自分の家族に対し、共犯者の家族の面倒をみてくれるように頼んでいた」 報道では、小林死刑囚はリンチを終始主導したような印象だった。しかし裁判では、友人から被害者らに暴行されたと聞いた当初は警察に被害届を出すように勧めていたことや、報復の発案者は共犯者の一人だったことも判明している。どんな事情があれ、犯した罪は許されないが、凶暴で残酷なだけの人間ではなかったのかもしれない。 岡崎さんは、小林死刑囚が最高裁に上告を棄却され、死刑確定が間近に迫った時期の言動もよく覚えている。「小林さんは当時、自分が死刑になることより、死刑確定後に請願作業ができるかどうかを心配していました。少しでもお金を稼ぎ、遺族に送りたいと思っていたようです。それと印象に残っているのが、自分の家族に対し、共犯者の家族の面倒をみてくれるように頼んでいたことです。『自分は縁に恵まれた人間です』とも言っていて、追いつめられた状況でも他の人のことを考えられる人なのだと思いました」 岡崎さんが上梓した「慈悲と天秤」は、2人がやりとりした手紙も多数引用されつつ、小林死刑囚の実像を詳細につづり、真の贖罪(しょくざい)とは何かを問いかける内容になっている。新しい法務大臣が就任するたび、岡崎さんは小林死刑囚との外部交通ができるようにして欲しいと思いつつ、この本を新大臣に送っているという。(片岡健/ノンフィクションライター)
小林竜司死刑囚 (2006年東大阪集団リンチ殺人事件)
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2006年6月に、「生き埋め」という残酷な殺害方法が社会を震撼させた東大阪集団リンチ殺人事件。死刑確定した実行犯の男と面会や文通を重ね、「慈悲と天秤 死刑囚・小林竜司との対話」(ポプラ社)を上梓した会社員の岡崎正尚さん(37)に聞いた。
裁判の認定によると、岡山市で暮らしていた実行犯の小林竜司死刑囚(犯行時21)は、東大阪大学の学生だった友人Aが女性をめぐるトラブルから同じ大学の男子学生らに暴行されたうえ、暴力団の名前を出されて50万円の慰謝料を求められたと聞き、報復を企てた。そして友人ら8人と共謀のうえ、友人Aに暴行した男性ら3人をリンチし、うち2人を岡山市の資材置き場で生き埋めにして殺害した。
報道では、そんな小林死刑囚は凶暴極まりない人物のように伝えられたが、当時法科大学院生だった岡崎さんが裁判の控訴審を傍聴したところ、実際の印象は異なった。
「小林さんは、報道で見たよりやせていて、坊主頭でした。法廷に入る際は『よろしくお願いします』と礼をしていて、礼儀正しい感じでした」
裁判では、小林死刑囚の友人が2人、情状証人として出廷し、「普段は暴力をふるう人間ではない」と証言していた。
「死刑事件でこういうことは珍しい」と思った岡崎さんは、小林死刑囚や事件のことをもっと知りたいと思い、控訴審終了後、大阪拘置所に収容された本人と交流するようになった。
「会う前はとげとげしい感じかと思っていましたが、面会室での小林さんはにこやかで、『遠くから来てくださり、ありがとうございます』という丁寧な話し方でした。それでいて堅苦しさはなく、人当たりが良かったです」
小林死刑囚が最高裁で死刑確定し、外部交通(接見・信書の発受など)が制限されるまで、交流は3年近く続いた。この間、事件の背景もいろいろ聞き取った。
「小林さんは子供の頃、いじめられていたそうです。その当時、病気で入院した際に見舞いに来てくれたのが、被害者の方たちに暴力をふるわれた友人でした。小林さんとしては、事件は報復としてではなく、暴力団の後ろ盾があるように言っていた被害者の方たちから友人を守りたくて起こしたようです」
報道では、小林死刑囚はリンチを終始主導したような印象だった。しかし裁判では、友人から被害者らに暴行されたと聞いた当初は警察に被害届を出すように勧めていたことや、報復の発案者は共犯者の一人だったことも判明している。どんな事情があれ、犯した罪は許されないが、凶暴で残酷なだけの人間ではなかったのかもしれない。
岡崎さんは、小林死刑囚が最高裁に上告を棄却され、死刑確定が間近に迫った時期の言動もよく覚えている。
「小林さんは当時、自分が死刑になることより、死刑確定後に請願作業ができるかどうかを心配していました。少しでもお金を稼ぎ、遺族に送りたいと思っていたようです。それと印象に残っているのが、自分の家族に対し、共犯者の家族の面倒をみてくれるように頼んでいたことです。『自分は縁に恵まれた人間です』とも言っていて、追いつめられた状況でも他の人のことを考えられる人なのだと思いました」
岡崎さんが上梓した「慈悲と天秤」は、2人がやりとりした手紙も多数引用されつつ、小林死刑囚の実像を詳細につづり、真の贖罪(しょくざい)とは何かを問いかける内容になっている。新しい法務大臣が就任するたび、岡崎さんは小林死刑囚との外部交通ができるようにして欲しいと思いつつ、この本を新大臣に送っているという。
(片岡健/ノンフィクションライター)