賃貸物件の原状回復めぐるトラブル増 異業種からの参入業者などが退去時に法外な請求も

SNSをきっかけにしたマルチ取引や副業などのもうけ話、エステや脱毛、美容整形など、近年、若者に起きている消費者トラブルが社会的問題となりつつある。それらとはまた別に一人暮らしをきっかけにした事柄、とくに不動産賃借の契約終了時に原状回復における敷金などで、貸主とトラブルになる事例も多い。俳人で著作家の日野百草氏が、社会的問題となりいったんは減ったかに思われた賃貸物件の「原状回復」をめぐるトラブルの増加についてレポートする。
* * *「敷金きっちりの請求書とか、いまだにあるんですね。そんなわけないでしょうと」
大学進学で上京以来、都内で何度か引っ越し経験のある出版社社員の男性(30代)は昨年、ワンルームマンション退去時の敷金精算で揉めたと話す。いまどきは「敷金・礼金なし」とか「クリーニング代のみ」が当たり前のように思っていたが、そうではないのか。
「契約書にない修繕費用までのっけて、敷金きっちり請求されました。2年ほど住みましたが、家にほとんど帰ってもいなければ、煙草も吸わないのに」
一般的な決まりとして、賃貸物件を借りる前の状態にする「原状回復」は借主の義務だが、いわゆる日常生活における汚れ(通常損耗)、時間の経過による劣化(経年変化)は原状回復義務に含まれない。
しかし現実は貸主(大家)および賃貸不動産管理会社と借主(賃借人)との「原状回復」と「敷金」に関しての揉め事は日本中で繰り広げられている。最高裁では2005年、通常使用による損耗と劣化は借主に原状回復義務がない、とする判決が出ている。仮に「特約」があったとしても借主の負担の範囲、負担の予測の可否など含め、明確に「借主がその負担を認識」していると判断基準で作成しなければならない。
「納得できる内容ならともかく、経年劣化まで借主に負担させるなんて」
まだそんなことが起きているのか。最初に断っておくが、今回は後述する国土交通省の『原状回復をめぐるトラブルとガイドライン』および国民生活センターの『賃貸住宅の「原状回復」トラブルにご注意』という近年の借主の被害に関する呼びかけが主題のため、あくまで借主側の話となる。
ダウンタウンの松本人志が退去時に原状回復で揉め、畳を全部交換すると言われてその畳を包丁で切り裂いたというネタがあったが、芸人だけに盛った話かもしれないとはいえ、同世代の賃借人なら誰しも経験あるかもしれない。まして1990年代半ばまでの賃貸業界はまあ、昭和の残滓かやりたい放題だった。物件選びの段階で「敷金は返って来ないものと思ってください」「敷金は礼金みたいなものなので返しません」と平気で言う賃貸営業マンがいた。契約書も時に理不尽なもの、消費者契約法(2001年施行)すらなかった時代の話である。
筆者の経験も一例として話すと1990年代半ば、退去時に高齢の大家から直々に「敷金は返さない」と手書きのメモのような走り書きの明細を提示された。その明細には「壁紙の張替え20万円」「クリーニングの修繕15万円」など、ざっくりとした根拠不明の数字が並び、それなりのマンションで立地がよかったとはいえ敷金きっちりの額を請求された。当然もめたが先の消費者契約法どころか少額訴訟制度(1998年から)以前の話、まして2003年の民事訴訟法改正まで少額訴訟制度の対象は30万円以下であった(改正後は60万円以下)。もちろん国土交通省による『原状回復をめぐるトラブルとガイドライン』(1998年から)さえなかった。当時25歳、そこまでの裁判費用も知識もない筆者、「なんとか折れさせて」少額の返金を良しとあきらめるしかなかった。
この「敷金は返って来ないもの」「敷金は礼金みたいなもの」というのは戦後日本の賃貸において(地域にもよるが)、おおよその世間一般のコンセンサスだったように思う。当時、今は亡き戦前生まれの父親からも「敷金なんて返って来ないものだよ」と言われたことを覚えている。筆者も仕事柄、家にほとんどいなかったし煙草も吸わない。もちろんペットも飼わない、それでも敷金きっちり60万円の請求と「だいたい敷金は返ってこないもの」だった。ネットで検索していただければこんな昔話、いくらでもころがっている。というか松本人志のネタではないが、それほど珍しくもない話だろう。
そのような時代に比べれば、いまでは国や自治体もしっかりと借主のサポートと法的な保護を整備、徹底している。1998年に国土交通省による『原状回復をめぐるトラブルとガイドライン』が策定され、改正を繰り返しながら現在に至っている。少額訴訟制度も消費者契約法も作られた。またインターネットの普及も大きかったように思う。2000年前後からネット検索を柱とした不動産賃貸サイトが増え、それまでの入りにくい、駅前にぽつんと薄暗い店を構える小さな不動産屋に恐る恐る入り「ほんとか嘘かわからない」という物件探しに比べれば、誰の目にも相対化された。2000年前後のネット掲示板、口コミサイトを経て2010年代に全盛を迎えるSNSも借家人の「声なき声」を後押しした。良くも悪くも、いまは何でもネットで晒される。Googleマップなどの口コミも功罪あれど影響力は強い。
「いや、また敷金ボッタクリが増えているように思います。返さないとこはとことん返しません。私の経験だけじゃなく、ネットでもよく目にします」
彼は2020年からのコロナ禍も含めて賃貸不動産の「異変」を感じていると話す。実際にコロナと関係しているかは不明だが、彼の感覚では2020年ごろからではないかと。ネットでも多くの借主の声が増えている、と。
そして2023年2月1日、それを裏づけるような「原状回復」トラブルに関する注意が『賃貸住宅の「原状回復」トラブルにご注意』としてリーフレットおよびサイトで国民生活センターから呼びかけられた。「賃貸住宅から退去するときの原状回復費用の負担に関するトラブルが起きています」、まるで時代が戻ったかのよう。近年は再び「原状回復」トラブルが目立ち、3万件以上の賃貸に関する消費生活相談の約半分が「原状回復」に関する相談だという。国民生活センターは実際の事例として、
【事例1】 敷金礼金不要のアパートを退去したら、契約書の記載と異なるエアコン清掃代や入居前からあったフローリングのキズの修繕費用まで請求された。【事例2】 アパートを退去した際、自分では通常損耗だと思う箇所の修繕費用や、契約書に記載のない費用を請求され納得できない。【事例3】 20年以上住んだマンションを退去した際、入居時から付いていたキズについて「最近付いたものだ」として修繕費用を請求された。【事例4】 敷金礼金不要のアパートを退去した際にシャワーヘッドの交換費用を請求され、入居時から不具合があったと伝えたが証拠がないと言われた。
といった相談内容を公開している。まんま四半世紀前、1990年代から変わっていない現実だ。法もガイドラインも整備されたはずなのに。
「国が注意するのも当然です。普通に使っていた分には、原状回復の義務ないんですから」
彼の言う事はもっともだが、それなのになぜこのような実態があるのか。元賃貸不動産のベテラン営業マンに話を聞いた。
「まず1980年代から1990年代にかけてワンルームマンションを作りすぎました。団塊ジュニアの若者の進学や上京に合わせて繁盛したわけですが、少子化と地元回帰で一気に供給過多となりました」
この話は「東京近郊に限る」というエクスキューズがついている。しかしワンルームが余っているのはいまに始まった話ではないはずだ。
「コロナ禍もあると思います。上京せずに地元に残る若者がさらに増えた。ただでさえ子どもが少ないわけですからワンルームは余ります」
日本の出生数は1984年に150万人を切り、第三次ベビーブームを迎えないままに減り続けている。ワンルームの人気は1960年代後半から1970年代生まれという圧倒的な人口ボリューム層によって支えられてきたと言っても過言ではない。とくにバブル期、ワンルームは「おしゃれ」とされ、いわゆるトレンディドラマの舞台ともなった。しかしいまや当時の華々しさとは縁遠いような、老朽化したワンルームも多い。
「マンションにしろ、アパートにしろ、古くなればメンテナンスはかかるし大規模な修繕も必要です。とくに1980年代から1990年代に作られたワンルーム物件は薄利の「お荷物」になりつつあります。家賃を下げるしかないが経営は苦しくなる。ファミリー向けはまだ需要がありますが、古いワンルームは多すぎる上に埋まらない。そういったマンションの大家さんや管理会社(貸主)からすれば背に腹は代えられない」
またやはりコロナ禍も影響あると語る。
「空室の長期化も目立ちますね。それをどこで、誰から取り返すかという話にもなる」
正当なクリーニングではなく、資産維持のための修繕やリフォームのコストを、退去する借主に負担させているということか。
「その通りです。もちろん貸主もそれらがガイドラインに違反していることはわかっています。まあ、法律に疎かったりする借主相手なら足元を見るというか、「言ってみるか」程度の話ではあると思います。実際、現状判断や契約書の拡大解釈で適当に言っても「わかりました」と素直に認める人もいますからね。とくに若い人は、私の経験上も泣き寝入りし易いと感じます」
先の筆者の20代のころと同様の話。実際、国民生活センターからも「若者向け注意喚起シリーズ」として2022年3月3日に「住宅の賃貸借に関する消費者トラブルは、10~20歳代の若者にもみられます。特に、親元を離れ新たな生活を始める際に賃貸借の契約をすることが多く、トラブルにならないよう注意が必要です」と若者向けに特化した注意喚起が事例とともに公表されている。
【事例1】娘が賃貸マンションを借りることになったが、入居前に解約を申し出たところ、支払ったお金はほとんど返金できないと言われた。契約書には、解約時の違約金として家賃1カ月分と記載されていた。鍵も受け取っていないのに、支払ったお金がほとんど返ってこない。【事例2】2年間居住した賃貸マンションを退去した後、貸主から、ハウスクリーニング費用やクロス・天井の貼り替え費用、エアコン洗浄費用、風呂の鏡のうろこ取り等で計 17 万円もの原状回復費用を請求された。契約時に敷金礼金はなく、家賃は約 12 万円で、契約書に原状回復に関する特約もなかった。
賃貸不動産も投資のひとつ、利益を出さなければ大家であろうと管理会社であろうと損を被るのは自分自身である。しかし「言ってみるか」でそのリスクの一部を借主に負担させることもできる。事例の通り、たとえ入居していなくとも。事例1は極端とはいえ、事例2のような場合はどうすればいいのか。
「経年劣化だけなら国交省のガイドライン(前述)を提示する、あるいは『消費者センターに通報します』と毅然と言えば(敷金が)返って来る場合も多いと思います。裁判するぞ、でもいい。そんなので効くのかと言われるかもしれませんが案外効くものです。絶対じゃありませんけど。本音のところ、大半の貸主も面倒くさいことはやりたくありませんし、面倒くさい相手は嫌がります。高級賃貸ならともかく、家賃数万円のワンルームとか1Kのアパートとかでしょう、それはそれで割に合いませんから。とにかく「言ってみるか」なんですよ。この業界によくある話です。まあ、駆け引きですね。昔ほどの無茶はできませんし」
それでも冒頭の男性に限らず、賃貸住民の多くから聞かれる「原状回復」で揉めた、「敷金」が返ってこないという、今回の国民生活センターの呼びかけそのままの実態がある。
「借主にも善管注意義務(民法第400条「善良なる管理者の注意義務」)を怠る人もいるわけで、それが理由で敷金を引かせてもらう場合もあります。でもあからさまに酷い使い方でもない限り、畳の表替えどころか新調とか、壁紙の全面張替えなんてまあ、国交省のガイドライン的にも認められないでしょうね。でも「言ってみるか」なんですよ」
ヒアリングによれば「納得できない原状回復」として畳や壁紙の他、ガス器具の交換、フローリングの総張替え、水回りの交換、照明器具の交換など「それは自分の資産および次の客のためのリフォームでは」というものがあった。どれも借主がありえない使い方で台無しにしたとか、破壊したとかでない限りはガイドライン的に経年劣化だろう。「10年住んだら110万円請求された」という話もある(この件は交渉の末、敷金分のみで決着)。
「そんな大家とか業者ばかりじゃないですけど、とにかく「言ってみるか」「請求してみるか」には注意ですね。この業界はいまでもそんなものです。うるさい借主だったら引っ込めればいい、なんですよ。それでもダメならしかるべき機関に相談、もしくは裁判ですけど、それはお互い避けたいでしょう」
借主と貸主、双方言い分はあろうが、10年住んだなら誰が住んでもそれ相応の劣化や損耗があるのは当然で、そのすべてを借主に請求するのは不当ととられても仕方のない話である。先に触れた過去の判例にもあるが、一般的に通常の住居の使用に伴う劣化や損耗、それらの補修費用は月々の賃料に含まれているとみなされる。つまりそれら補修費用を指摘して敷金を差し引くことは二重請求となる。古くからの大家さんには、この点を十分に理解して経営している優良な大家さんもいる。
「実はそういう昔からの大家さんも減って、異業種や独立起業した新規参入の賃貸業者や個人投資家が増えているのもあります。つけ焼き刃の知恵だけで若い賃貸営業や管理会社の社員、素人投資家が無茶な請求をします。目先のノルマやコスト回収、資産維持ばかりで借主の回転ばかり優先する。悪質だと敷金では済まない額を請求したり、部屋と関係のない物件の一部の修繕費まで乗せたりします。まさに国民生活センターの事例そのままですね」(前出の元賃貸不動産ベテラン営業マン)
繰り返すがすべての賃貸不動産がそうではないのは当たり前の話。しかし現実に「原状回復」を中心とした敷金トラブルは今回、改めての注意喚起が出るほどに再発している。コロナ禍と景気低迷、値上がりの数々は賃貸業も例外ではない。
正当な経年の劣化や損耗なら泣き寝入りはせず、まずは賃貸借契約の内容も含め消費者庁「消費者ホットライン」の「188」や各地の消費生活センター、消費生活相談窓口を利用して欲しい。
【プロフィール】日野百草(ひの・ひゃくそう)日本ペンクラブ会員、出版社勤務を経てフリーランス。社会問題、社会倫理のルポルタージュを手掛ける。