人形浄瑠璃文楽(以下「文楽」)は、江戸時代前期の1684年、大阪ではじまった。一体の「人形」を3人で遣い、「太夫」(語り)、「三味線」(音楽)とともに同時進行する。世界でもまれなスタイルの人形劇で、ユネスコ無形文化遺産に指定されている。
【写真を見る】文楽は誰でも人間国宝になれるチャンスがある 歌舞伎化された演目も多い。「仮名手本忠臣蔵」「義経千本櫻」といった人気舞台は、もともと文楽がオリジナルである。 その文楽に危機が迫っている。技芸員(演技・演奏者)を育成する「養成所」の研修生が、今年度、応募者ゼロだったのだ。ゆえに現在、研修が開講できない事態となっている。
「もともと文楽の技芸員になるための基礎教育を行うことを目的とした、若干名の募集なので、毎年度の応募者は、5人前後が通常でした。しかしゼロは初めてです。ここ数年、コロナの関係で地方公演も含めて公演の機会も減りました。そのため、以前ほど文楽の魅力をアピールできなかったせいもあると思います」(国立文楽劇場担当者)「大阪市長だった橋下徹さんの影響も、色々な意味で大きいと思いますよ」340年目にして危機に見舞われている文楽『絵本太功記/尼ヶ崎の段』(妻操:吉田勘彌)平成27年4月、国立文楽劇場(写真提供/独立行政法人日本芸術文化振興会) と語るのは、あるベテランの演劇記者である。「2011年に大阪市長に就任した橋下さんが、文楽協会への補助金が既得権益化していると、打ち切りにすることを表明しました。橋下さんは“時代に合わせた演出を”と言ってましたが、シェイクスピア作品や、童話の『ジャックと豆の木』などが文楽になっていることは知らなかったのでしょうか。ほかに技芸員の自主公演ですが『ゴスペル・イン・文楽』と称して、イエス・キリストの生涯まで文楽になってます。文楽界は意外と柔軟性があるんです。騒動のおかげで、文楽は退屈で時代遅れの芸能であるかのようなイメージが広まった一方で、逆に文楽そのものを知ってもらうきっかけにもなりましたが……」 現在、養成所の研修生は人形専攻が1人いるだけである。来年度も応募がなければ、研修生も在籍ゼロということになってしまうのだ。 この事態に、文楽界はどう対応するのだろうか。その前に、文楽界および、その養成システムについて、簡単に説明しておこう。家柄に関係なく、実力本位の世界 国立劇場や国立文楽劇場を運営する独立行政法人日本芸術文化振興会には、「伝統芸能伝承者」の養成所がある。現在、5ジャンルがあり、「歌舞伎」「能楽」「大衆芸能」(寄席囃子、太神楽)、「組踊」(沖縄の歌舞劇)、そして「文楽」である。 よく文楽界を歌舞伎界と同じように見る向きがある。歌舞伎界は、「世襲」が基本である。役者の家に生まれ(または養子となり)、幼少期から芸を身につけ、やがて親の名跡と家の芸を継ぐ。 だが文楽界は、まったくちがう。「名跡」「家」は関係ない。実力本位の世界だ。もちろん幼少期から親に学んで芸を継いだひともいるが、一般家庭から文楽界に入ることも普通なのだ。現在、文楽界は85名の技芸員で構成されているが、そのうち49名が養成所出身だ。実に半分以上である。「入所の年齢制限は、中学卒業以上~23歳くらいまでです。経験は一切問われません。大学を卒業してからの入所も可能です。一度、一般社会での仕事を経験されてから入所される方もいます」(国立文楽劇場担当者) 授業料は無料だ。そればかりか、「毎月、振興会から10万円の奨励金が貸与されます。修了後、3年間を技芸員としてつとめれば返還は不要です」 そのほかに文楽協会からの奨励金もある。 文楽の場合、研修の中心地は大阪(国立文楽劇場)だが、東京公演中は東京でも行われる。宿舎もある。研修期間は2年間。8か月目に適性審査があり、「人形」「太夫」「三味線」のどれを専攻するかが決まる。「終了(卒業)後、公益財団法人文楽協会と契約して正式な技芸員となります。同時にどなたかの師匠に入門します」 なんと文楽では、2年間の研修後、すぐにプロとなるのだ。もちろん、最初から大役を務めることはありえない。問題はここから先だ。 たとえば人形遣いの場合、最初はいちばんつらいといわれる「足遣い」からはじまる。腰を屈めて人形の両足を担当し、バタバタと足拍子も踏む。女形の人形は足がないので、着物の内側をつまんで、いかにも足があるように見せなければならない。これを約10年務めると、「左遣い」に昇格する。「左遣い」は、文字通り人形の左手のみを担当する。左手には棒の「差金」が付いていて「引糸」を操作して手首を動かす。常に右手とうまく合わせなければならない。これまた10年ほどやる。 ここまでは「黒衣」である。真っ黒な頭巾を被っているので、顔は見えない。「足遣い」「左遣い」を計20年ほど担当して、ようやく出遣い(顔を出す)の「主遣い」となり、首〔かしら〕と右手を担当する、いわば主役だ。プログラムにも「人形役割」として名前が載る。というわけで、人形専攻の場合、仮に23歳で卒業~入門したら、主遣いになれるのは最も早くて40歳代半ば過ぎだ。この期間の長さが、いまの若者に敬遠される理由かもしれない。 だが、一般社会でも、男性課長職の平均年齢は「48.7歳」 である(厚生労働省の調査)。少なくとも昇進の点では、世間とそう変わらない。ほんとうに、そんなにつらい世界なのだろうか。「人形は、何でもできるんやで」 今回、多忙な公演の合間に、養成所2期生出身の人形遣い、吉田勘彌さん(68)が取材に応じてくれた。「私は岡山県倉敷市の出身です。父親が自営業で、伝統芸能にはまったく無縁の家庭です。文楽なんて見たこともなく、興味もありませんでした」 中学・高校時代は“帰宅部”の平凡な若者で、東京の大学に進学した。「ところが、あのころ、モラトリアムって言葉が流行してましてね。社会に出るのを先延ばしにする生き方がカッコいいように思われていました。私もそれに憧れて、東京へは出たものの、ろくに大学へも行かず、プラプラしていたんです」 この時点で、「文楽」の「ぶ」の字も出てこない。このインタビュー、大丈夫なのか、不安がよぎる。ちなみにこの勘彌さんは、5月の東京公演「夏祭浪花鑑」で、火鉢で焼けた鉄弓を自らの顔にあてる凄絶な女、「徳兵衛女房・お辰」を遣っていた方である。「そんなとき、新聞で、国立劇場の養成所の記事を読んだんです。歌舞伎とか文楽とか、いろいろあるようで、期間は2年間とある。どうせモラトリアムをやるんだったら、その2年間を、こういうところで過ごすのもいいかな……歌舞伎よりは、文楽のほうが面白そうだ……その程度の気持ちで、応募したんです」 ところが、入ってみたら驚いた。「いまでも忘れません。最初の人形の授業でした。人間国宝の、先代・吉田玉男師匠が、左遣い・足遣いとともに、立役(男性)の人形をもってこられたんです。するといきなり、その人形が、右手で、自分の左足の裏をポリポリとくじゃありませんか。3人とも黙ったままで、視線すら合わせていないんですよ。人形が勝手に動いたようでした。そして玉男師匠が、こう言ったんです――『人形は、何でもできるんやで』。すごいなあ! と、感激してしまいました」 こうして勘彌さんは、人形遣い専攻に進む。「授業が面白いんですよ。講師は人間国宝クラスの方ばかり。文楽だけじゃなくて、能、狂言、茶道、日本舞踊、さらに落語の授業まであって、笑福亭松鶴師匠(六代目)が来て噺をしてくれる。奨励金をもらったうえ、こんなにいろんな経験ができるとは、夢にも思わなかったです」 もちろん、大学はやめてしまった。「当時は、まだ大阪の国立文楽劇場が開場前だったので、研修は東京が中心でした。厳しかったけど、講師の師匠たちがよく食事や酒席に連れて行ってくださって、毎日楽しかったです。そのうち私は、人間国宝の、二代目・桐竹勘十郎師匠のお人柄に心酔してしまいました。豪快な面と繊細な面を両方もっている方で、卒業後は、そのまま勘十郎師匠のもとに入門しました」 こうしてプロの人形遣いとなり、当然ながら足遣いからの修業が始まった。「ところが、文楽界は狭い世界でしょう。人形遣いはせいぜい40人くらいしかいない。私はひとりで部屋にこもって読書というタイプでしたので、濃密な人間関係がストレスになってきて、2年目ほどでやめてしまったんです」 その後は1人でやれる仕事を求めて、ガラス工芸のスタジオなどに出入りしていた。「2年ほど他の世界にいましたが、あるとき、勘十郎師匠が病気で身体がきついらしいと聞きました。やはり、私はあの師匠のもとにいたいのだと気づき、ふたたび弟子入りさせていただきました。今では他者といっしょに作り上げる作業に魅力を感じています」人間国宝と一緒に仕事ができる そこからが、ようやく勘彌さんの“文楽人生”の始まりだった。すでに20代半ばだった。「文楽がほんとうに好きになったのは、それからですよ。たしかに足遣いは肉体的にきつい仕事です。いつも屈んでいますから腰も痛めやすい。でもつらいことばかりじゃありません。足遣いとはいえ、人間国宝がやっている仕事の一部を担うことができるんです。世の中にはいろんな仕事があるけれど、こういう誇りを覚えるような職種は、あまりないと思いますよ」 しかし、下が入ってこなければ、いまの「足遣い」はいつまでたっても「左遣い」に昇格できない。いったい、どうなってしまうのだろうか。「私も養成所の講師をやっていますが、途中でやめてしまうひともいます。残念なことではありますが、“一生の道を究める”みたいに、あまり深刻に考えないでいいと思うんです。私だって、文楽を見たこともないのに入所して、そのうえ、一度やめて、また出戻っています。もちろん、養成所は技芸員を育成するところですから、入った以上はプロになることが前提ですよ。でも、どうしても合わなければ仕方ありません。それよりも、奨学金をいただきながら、一流の師匠から日本の文化を学べる……最初はそれくらいの気持ちでもいいんじゃないでしょうか」 そして、今後、文楽をアピールする手段として、「文楽はたしかに大阪で生まれた芸能です。しかしもう、地域のイメージにこだわる時代ではないと思うんです。日本から生まれた、世界的な古典芸能だと言っていいと思います」 フランスの人気劇団「テアトル・デュ・ソレイユ」(太陽劇団)は、東洋文化を取り入れた演出で知られるが、主宰演出家、アリアーヌ・ムヌーシュキンが、かつてこう述べている。「シェイクスピアが今日イギリス人だけのものではなく、世界中の人々のものであるように、私は文楽も日本人だけのものでなく、世界共有のものだと思うんです。日本の人たちは、自分たちの伝統芸能の中に世界の宝物があるのだということを誇りにしていいと思います」(「和楽」2003年3月号より) 文楽は、過去、何度も存続の危機に見舞われてきた。大阪大空襲による焼失、労働争議から発した内部分裂、経営母体だった松竹の撤退……それでも一時の低迷を経て、2012年には年間入場者数が10万人を突破……かと思いきや、今度は橋下徹・大阪市長による文楽協会への補助金打ち切り。しかしそのたびに、文楽は危機を乗り越え、なんとか生き延びてきた。「令和の危機」ともいえるこの事態も、そうなって欲しい。 東京の国立劇場は建て替えのため、この10月で閉場する。再開は約6年後の予定だ。その間、文楽公演は「シアター1010」(北千住)や、「日本青年館ホール」(神宮外苑)などで行われる。会場が変わることで、新しい客層が期待できるかもしれない。 最後に勘彌さんが、こう呼びかけた。「文楽は、歌舞伎のような家の芸ではないし、世襲制でもありません。極端なことをいえば、誰でも人間国宝になれるチャンスがあるんです。ぜひ一度、文楽を観ていただき、見学でもけっこうですから気軽に養成所を訪ねてほしいと思います」富樫鉄火昭和の香り漂う音楽ライター。吹奏楽、クラシック、映画音楽などを中心に音楽全般を執筆。東京佼成ウインドオーケストラ、シエナ・ウインド・オーケストラなどの解説も手がける。デイリー新潮編集部
歌舞伎化された演目も多い。「仮名手本忠臣蔵」「義経千本櫻」といった人気舞台は、もともと文楽がオリジナルである。
その文楽に危機が迫っている。技芸員(演技・演奏者)を育成する「養成所」の研修生が、今年度、応募者ゼロだったのだ。ゆえに現在、研修が開講できない事態となっている。
「もともと文楽の技芸員になるための基礎教育を行うことを目的とした、若干名の募集なので、毎年度の応募者は、5人前後が通常でした。しかしゼロは初めてです。ここ数年、コロナの関係で地方公演も含めて公演の機会も減りました。そのため、以前ほど文楽の魅力をアピールできなかったせいもあると思います」(国立文楽劇場担当者)
「大阪市長だった橋下徹さんの影響も、色々な意味で大きいと思いますよ」
と語るのは、あるベテランの演劇記者である。
「2011年に大阪市長に就任した橋下さんが、文楽協会への補助金が既得権益化していると、打ち切りにすることを表明しました。橋下さんは“時代に合わせた演出を”と言ってましたが、シェイクスピア作品や、童話の『ジャックと豆の木』などが文楽になっていることは知らなかったのでしょうか。ほかに技芸員の自主公演ですが『ゴスペル・イン・文楽』と称して、イエス・キリストの生涯まで文楽になってます。文楽界は意外と柔軟性があるんです。騒動のおかげで、文楽は退屈で時代遅れの芸能であるかのようなイメージが広まった一方で、逆に文楽そのものを知ってもらうきっかけにもなりましたが……」
現在、養成所の研修生は人形専攻が1人いるだけである。来年度も応募がなければ、研修生も在籍ゼロということになってしまうのだ。
この事態に、文楽界はどう対応するのだろうか。その前に、文楽界および、その養成システムについて、簡単に説明しておこう。
国立劇場や国立文楽劇場を運営する独立行政法人日本芸術文化振興会には、「伝統芸能伝承者」の養成所がある。現在、5ジャンルがあり、「歌舞伎」「能楽」「大衆芸能」(寄席囃子、太神楽)、「組踊」(沖縄の歌舞劇)、そして「文楽」である。
よく文楽界を歌舞伎界と同じように見る向きがある。歌舞伎界は、「世襲」が基本である。役者の家に生まれ(または養子となり)、幼少期から芸を身につけ、やがて親の名跡と家の芸を継ぐ。
だが文楽界は、まったくちがう。「名跡」「家」は関係ない。実力本位の世界だ。もちろん幼少期から親に学んで芸を継いだひともいるが、一般家庭から文楽界に入ることも普通なのだ。現在、文楽界は85名の技芸員で構成されているが、そのうち49名が養成所出身だ。実に半分以上である。
「入所の年齢制限は、中学卒業以上~23歳くらいまでです。経験は一切問われません。大学を卒業してからの入所も可能です。一度、一般社会での仕事を経験されてから入所される方もいます」(国立文楽劇場担当者)
授業料は無料だ。そればかりか、
「毎月、振興会から10万円の奨励金が貸与されます。修了後、3年間を技芸員としてつとめれば返還は不要です」
そのほかに文楽協会からの奨励金もある。
文楽の場合、研修の中心地は大阪(国立文楽劇場)だが、東京公演中は東京でも行われる。宿舎もある。研修期間は2年間。8か月目に適性審査があり、「人形」「太夫」「三味線」のどれを専攻するかが決まる。
「終了(卒業)後、公益財団法人文楽協会と契約して正式な技芸員となります。同時にどなたかの師匠に入門します」
なんと文楽では、2年間の研修後、すぐにプロとなるのだ。もちろん、最初から大役を務めることはありえない。問題はここから先だ。
たとえば人形遣いの場合、最初はいちばんつらいといわれる「足遣い」からはじまる。腰を屈めて人形の両足を担当し、バタバタと足拍子も踏む。女形の人形は足がないので、着物の内側をつまんで、いかにも足があるように見せなければならない。これを約10年務めると、「左遣い」に昇格する。
「左遣い」は、文字通り人形の左手のみを担当する。左手には棒の「差金」が付いていて「引糸」を操作して手首を動かす。常に右手とうまく合わせなければならない。これまた10年ほどやる。
ここまでは「黒衣」である。真っ黒な頭巾を被っているので、顔は見えない。「足遣い」「左遣い」を計20年ほど担当して、ようやく出遣い(顔を出す)の「主遣い」となり、首〔かしら〕と右手を担当する、いわば主役だ。プログラムにも「人形役割」として名前が載る。というわけで、人形専攻の場合、仮に23歳で卒業~入門したら、主遣いになれるのは最も早くて40歳代半ば過ぎだ。この期間の長さが、いまの若者に敬遠される理由かもしれない。
だが、一般社会でも、男性課長職の平均年齢は「48.7歳」 である(厚生労働省の調査)。少なくとも昇進の点では、世間とそう変わらない。ほんとうに、そんなにつらい世界なのだろうか。
今回、多忙な公演の合間に、養成所2期生出身の人形遣い、吉田勘彌さん(68)が取材に応じてくれた。
「私は岡山県倉敷市の出身です。父親が自営業で、伝統芸能にはまったく無縁の家庭です。文楽なんて見たこともなく、興味もありませんでした」
中学・高校時代は“帰宅部”の平凡な若者で、東京の大学に進学した。
「ところが、あのころ、モラトリアムって言葉が流行してましてね。社会に出るのを先延ばしにする生き方がカッコいいように思われていました。私もそれに憧れて、東京へは出たものの、ろくに大学へも行かず、プラプラしていたんです」
この時点で、「文楽」の「ぶ」の字も出てこない。このインタビュー、大丈夫なのか、不安がよぎる。ちなみにこの勘彌さんは、5月の東京公演「夏祭浪花鑑」で、火鉢で焼けた鉄弓を自らの顔にあてる凄絶な女、「徳兵衛女房・お辰」を遣っていた方である。
「そんなとき、新聞で、国立劇場の養成所の記事を読んだんです。歌舞伎とか文楽とか、いろいろあるようで、期間は2年間とある。どうせモラトリアムをやるんだったら、その2年間を、こういうところで過ごすのもいいかな……歌舞伎よりは、文楽のほうが面白そうだ……その程度の気持ちで、応募したんです」
ところが、入ってみたら驚いた。
「いまでも忘れません。最初の人形の授業でした。人間国宝の、先代・吉田玉男師匠が、左遣い・足遣いとともに、立役(男性)の人形をもってこられたんです。するといきなり、その人形が、右手で、自分の左足の裏をポリポリとくじゃありませんか。3人とも黙ったままで、視線すら合わせていないんですよ。人形が勝手に動いたようでした。そして玉男師匠が、こう言ったんです――『人形は、何でもできるんやで』。すごいなあ! と、感激してしまいました」
こうして勘彌さんは、人形遣い専攻に進む。
「授業が面白いんですよ。講師は人間国宝クラスの方ばかり。文楽だけじゃなくて、能、狂言、茶道、日本舞踊、さらに落語の授業まであって、笑福亭松鶴師匠(六代目)が来て噺をしてくれる。奨励金をもらったうえ、こんなにいろんな経験ができるとは、夢にも思わなかったです」
もちろん、大学はやめてしまった。
「当時は、まだ大阪の国立文楽劇場が開場前だったので、研修は東京が中心でした。厳しかったけど、講師の師匠たちがよく食事や酒席に連れて行ってくださって、毎日楽しかったです。そのうち私は、人間国宝の、二代目・桐竹勘十郎師匠のお人柄に心酔してしまいました。豪快な面と繊細な面を両方もっている方で、卒業後は、そのまま勘十郎師匠のもとに入門しました」
こうしてプロの人形遣いとなり、当然ながら足遣いからの修業が始まった。
「ところが、文楽界は狭い世界でしょう。人形遣いはせいぜい40人くらいしかいない。私はひとりで部屋にこもって読書というタイプでしたので、濃密な人間関係がストレスになってきて、2年目ほどでやめてしまったんです」
その後は1人でやれる仕事を求めて、ガラス工芸のスタジオなどに出入りしていた。
「2年ほど他の世界にいましたが、あるとき、勘十郎師匠が病気で身体がきついらしいと聞きました。やはり、私はあの師匠のもとにいたいのだと気づき、ふたたび弟子入りさせていただきました。今では他者といっしょに作り上げる作業に魅力を感じています」
そこからが、ようやく勘彌さんの“文楽人生”の始まりだった。すでに20代半ばだった。
「文楽がほんとうに好きになったのは、それからですよ。たしかに足遣いは肉体的にきつい仕事です。いつも屈んでいますから腰も痛めやすい。でもつらいことばかりじゃありません。足遣いとはいえ、人間国宝がやっている仕事の一部を担うことができるんです。世の中にはいろんな仕事があるけれど、こういう誇りを覚えるような職種は、あまりないと思いますよ」
しかし、下が入ってこなければ、いまの「足遣い」はいつまでたっても「左遣い」に昇格できない。いったい、どうなってしまうのだろうか。
「私も養成所の講師をやっていますが、途中でやめてしまうひともいます。残念なことではありますが、“一生の道を究める”みたいに、あまり深刻に考えないでいいと思うんです。私だって、文楽を見たこともないのに入所して、そのうえ、一度やめて、また出戻っています。もちろん、養成所は技芸員を育成するところですから、入った以上はプロになることが前提ですよ。でも、どうしても合わなければ仕方ありません。それよりも、奨学金をいただきながら、一流の師匠から日本の文化を学べる……最初はそれくらいの気持ちでもいいんじゃないでしょうか」
そして、今後、文楽をアピールする手段として、
「文楽はたしかに大阪で生まれた芸能です。しかしもう、地域のイメージにこだわる時代ではないと思うんです。日本から生まれた、世界的な古典芸能だと言っていいと思います」
フランスの人気劇団「テアトル・デュ・ソレイユ」(太陽劇団)は、東洋文化を取り入れた演出で知られるが、主宰演出家、アリアーヌ・ムヌーシュキンが、かつてこう述べている。
「シェイクスピアが今日イギリス人だけのものではなく、世界中の人々のものであるように、私は文楽も日本人だけのものでなく、世界共有のものだと思うんです。日本の人たちは、自分たちの伝統芸能の中に世界の宝物があるのだということを誇りにしていいと思います」(「和楽」2003年3月号より)
文楽は、過去、何度も存続の危機に見舞われてきた。大阪大空襲による焼失、労働争議から発した内部分裂、経営母体だった松竹の撤退……それでも一時の低迷を経て、2012年には年間入場者数が10万人を突破……かと思いきや、今度は橋下徹・大阪市長による文楽協会への補助金打ち切り。しかしそのたびに、文楽は危機を乗り越え、なんとか生き延びてきた。「令和の危機」ともいえるこの事態も、そうなって欲しい。
東京の国立劇場は建て替えのため、この10月で閉場する。再開は約6年後の予定だ。その間、文楽公演は「シアター1010」(北千住)や、「日本青年館ホール」(神宮外苑)などで行われる。会場が変わることで、新しい客層が期待できるかもしれない。
最後に勘彌さんが、こう呼びかけた。
「文楽は、歌舞伎のような家の芸ではないし、世襲制でもありません。極端なことをいえば、誰でも人間国宝になれるチャンスがあるんです。ぜひ一度、文楽を観ていただき、見学でもけっこうですから気軽に養成所を訪ねてほしいと思います」
富樫鉄火昭和の香り漂う音楽ライター。吹奏楽、クラシック、映画音楽などを中心に音楽全般を執筆。東京佼成ウインドオーケストラ、シエナ・ウインド・オーケストラなどの解説も手がける。
デイリー新潮編集部