「サイゼリヤが好き」とだけ言えばいいのに…あえて「高級フレンチよりサイゼリヤが好き」とつぶやく人の本心

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※本稿は、山口周『武器になる哲学 人生を生き抜くための哲学・思想のキーコンセプト50』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。
ルサンチマンを哲学入門書の解説風に説明すれば「弱い立場にあるものが、強者に対して抱く嫉妬、怨恨、憎悪、劣等感などのおり混ざった感情」ということになります。わかりやすく言えば「やっかみ」ということなのですが、ニーチェが提示したルサンチマンという概念は、私たちがともすれば「やっかみ」とは思わないような感情や行動まで含めた、もう少し射程の広い概念です。
イソップ童話に「酸っぱいブドウ」という話がありますね。あらすじを確認すれば、キツネが美味しそうなブドウを見つけますが、どうしても手が届かない。やがて、このキツネは「あんなブドウは酸っぱいに違いない、誰が食べるものか」と言い捨てて去ってしまう、というストーリーです。
これは、ルサンチマンに囚われた人が示す典型的な反応と言えます。キツネは、手が届かないブドウに対して、単に悔しがるのではなく、「あのブドウは酸っぱい」と価値判断の転倒を行い、溜飲を下げます。ニーチェが問題として取り上げるのはこの点です。すなわち、私たちが持っている本来の認識能力や判断能力が、ルサンチマンによって歪められてしまう可能性がある、ということです。
ルサンチマンを抱えた個人は、その状況を改善するために次の二つの反応を示します。
.襯汽鵐船泪鵑慮彊となる価値基準に隷属、服従する▲襯汽鵐船泪鵑慮彊となる価値判断を転倒させる
この二つの反応は、共に私たちが自分らしい、豊かな人生を送るという点で、大きな阻害要因になり得ます。順に考察していきましょう。
まず一点目です。ルサンチマンに囚われた人は、そのルサンチマンを生む原因となっている価値基準に隷属、服従した上で、それを解消しようとします。
周囲のみんなが高級ブランドのバッグを持っているのに自分だけが持っていない、というような状況を想像してください。この時、自分が本当に欲しいものではない、自分のライフスタイルや価値観には合わないとして、そのブランドバッグを拒絶することももちろんできるわけですが、少なくない割合の人々は、同格のブランドバッグを購入することで抱えたルサンチマンを解消しようとします。
これはなにもラグジュアリーブランドだけに限ったことではなく、たとえばフェラーリなどに代表される高級車やリシャールミルなどに代表される高級腕時計の世界でも同様に起きている事態と考えられます。
これらの、いわゆる高級品・ブランド品が市場に提供している便益は「ルサンチマンの解消」と考えることができます。ルサンチマンを抱えた個人はルサンチマンを解消するための、いわば「記号」としてこれらのブランド品や高級車を購入するわけですから、ルサンチマンを生み出せば生み出すほど、市場規模もまた拡大することになります。
ラグジュアリーブランドや高級車は、毎年のようにコレクションや新車を出してきますが、これは「ルサンチマンを常に生み出すため」と考えてみるとわかりやすい。つまり「最新のモノ」を常に市場に送り出すことによって、「古いモノ」を持っている人にルサンチマンを抱えさせているわけです。
ルサンチマンには製造原価がありませんから、知恵と工夫次第でいくらでも生み出すことができます。無限に生み出すことができるものに高い価格がつけられているわけですから儲からないわけがありません。
これだけモノで溢れかえり、飽和状態になっている日本においても、ラグジュアリーブランドは全般に好調な業績をあげていますが、これはひとえに、彼らが極めて巧妙にルサンチマンを生み出し続けているからだと考えられます。
現代人は「平等性」について極めて精密なセンサーを持っていますから、ちょっとした差に対しても、ルサンチマンを抱えてしまう可能性があります。そして生み出されたルサンチマンは「記号の購入」という形で解消されることになり、かくしてラグジュアリーブランドや高級車市場の業績は、この低成長日本においても堅調に推移している、という具合です。
しかし、当然のことながら、このような形でルサンチマンを解消し続けても「自分らしい人生」を生きることは難しいでしょう。ルサンチマンは、社会的に共有された価値判断に、自らの価値判断を隷属・従属させることで生み出されます。
自分が何かを欲しているというとき、その欲求が「素の自分」による素直な欲求に根ざしたものなのか、あるいは他者によって喚起されたルサンチマンによって駆動されているものなのかを見極めることが重要です。
さて、ここまでルサンチマンに囚われた人が典型的に示す一つ目の反応として、「ルサンチマンの原因となる価値基準に隷属、服従する」ことの危険性を指摘してきました。ここからは、二つ目の反応である「ルサンチマンの原因となる価値判断を転倒させる」ことの危険性について考察しましょう。
ニーチェがルサンチマンを取り上げて問題視したのも、この二つ目の反応についてでした。ニーチェによれば、ルサンチマンを抱えた人は、多くの場合、勇気や行動によって事態を好転させることを諦めているため、ルサンチマンを発生させる元となっている価値基準を転倒させたり、逆転した価値判断を主張したりして溜飲を下げようとします。
ニーチェはキリスト教を例に挙げて説明します。
ニーチェによれば、古代ローマの時代、ローマ帝国の支配下にあったユダヤ人は貧しさにあえぎつつ、富と権力をもつローマ人などの支配者を羨みながら、憎んでいました。しかし現実を変えることは難しく、ローマ人より優位に立つことは難しい。そこで彼らは復讐のために神を創り出した、というのです。
つまり「ローマ人は豊かで、私たちは貧しく、苦しんでいる。しかし天国に行けるのは私たちの方だ。富者や権力者は神から嫌われており、天国には行けないのだから」ということです。神という、ローマ人より上位にある架空の概念を創造することによって「現実世界の強弱」を反転させ、心理的な復讐を果たした、というのがニーチェの説明です。
ルサンチマンの原因となっている劣等感を、努力や挑戦によって解消しようとせずに、劣等感を感じる源となっている「強い他者」を否定する価値観を持ち出すことで自己肯定する、という考え方です。このような主張は現在の日本においてもそこかしこに見られます。
例えば「高級フレンチなんて行きたいと思わない、サイゼリヤで十分だ」というような意見がその典型例です。
素直に聞き流せば、それはそれで一つの意見だと思われるかも知れませんが、ここで見逃してはいけないのが、この主張には一般に考えられている「高級フレンチは格上で、サイゼリヤは格下」という価値観を、わざわざ転倒させてやろうという意図が明確に含まれている、ということです。
まず、そもそも「高級フレンチ」などというレストランは存在しません。本書執筆時点で最新の『ミシュランガイド東京2018』を開いてみれば、三つ星ではカンテサンスとジョエル・ロブションが、二つ星ではロオジエやピエール・ガニェールなどの「高級フレンチ」が紹介されていますが、実際に行ってみればすぐにわかる通り、これらのレストランで出されている料理や雰囲気は、まったくと言っていいほどに異なります。
当然のことながら、「カンテサンスは大好きだけど、ロブションはどうも……」といったこともあるわけで、「高級フレンチ」と一括りにして「良い・悪い」を比較できるようなものではありません。
つまり「高級フレンチ」などというレストランはイメージの世界にしか存在しない、言わば抽象的な記号にすぎないということです。
抽象的な記号と実在するレストランを比べて、どちらが「好きか嫌いか」などと議論することはできませんから、もとよりこの比較考量はまったくのナンセンスだということになるわけですが、ではなぜそのような空虚な主張をしているのかというと、その背後に「高級フレンチは格式の高いレストランであり、そこに集う人は洗練された趣味と味覚を持っている」という一般的な価値観、もっと直裁すれば「高級フレンチで食事をする人は成功者だ」という価値判断を転倒させたい、というルサンチマンがうごめいているからです。
このように主張している本人たちは、バブル的な価値観に染まっていない自分たちの先進性やクールさに独善的に陶酔しているようですが、もしそうなのであれば単に「自分は高級フレンチにはあまり行ったことがないけれど、サイゼリヤでも十分に美味しいよ」と言えばいいし、さらには単に「サイゼリヤが好きだ」と言えばいいだけのことでしょう。誰も文句は言いません。
なぜ、そう言わないのか。
理由はシンプルで、そんなことを言っても本人のルサンチマンが解消しないからです。
抽象的な記号でしかない「高級フレンチ」という概念を持ち出してきてサイゼリヤとの価値比較をした上で、「自分は後者を好む」とご丁寧に主張なさるというのは、前者を好む人たちよりも自分たちは優位にあるという主張にこそ主眼がある、ということでしょう。
これは「ルサンチマンに囚われた人は、ルサンチマンの原因となっている価値判断を転倒させようとする」というニーチェの指摘にまったく合致します。
さらにニーチェの指摘を加えれば、ルサンチマンを抱えた人は「ルサンチマンに根ざした価値判断の逆転」を提案する言論や主張にすがりついてしまう傾向があります。
そのようなコンテンツの典型例として、ニーチェ自身は「貧しい人は幸いである」と説いた聖書を挙げています。他にも「労働者は資本家よりも優れている」と説いた『共産党宣言』もまたそのようなコンテンツとして整理できるかも知れません。
両書がともに、全世界的に爆発的に普及したことを考えれば、ルサンチマンを抱えた人に価値の逆転を提案するというのは、一種のキラーコンセプトなのだと言えるかもしれません。
私個人は聖書の愛読者でもあり、ニーチェの指摘には首肯しかねる部分も多々あるのですが、古代以来、多くのキラーコンテンツが、その時代における大きな価値判断の逆転を含んでいたことは否定できません。このような「価値判断の逆転」が、単なるルサンチマンに根ざしたものなのか、より崇高な問題意識に根ざしたものなのかを私たちは見極めなければなりません。だからこそ、ルサンチマンという複雑な感情とそれが喚起する言動のパターンについての理解が不可欠なのです。
最後に、本書の別箇所でも取り上げているフランシス・ベーコンの言葉を紹介して本節を閉じることにしましょう。
———-山口 周(やまぐち・しゅう)独立研究者・著述家/パブリックスピーカー1970年、東京都生まれ。慶應義塾大学文学部哲学科、同大学院文学研究科修了。電通、ボストン・コンサルティング・グループ等を経て現在は独立研究者・著述家・パブリックスピーカーとして活動。神奈川県葉山町在住。著書に『ニュータイプの時代』など多数。———-
(独立研究者・著述家/パブリックスピーカー 山口 周)

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