〈「女子高校生コンクリ詰め殺人事件」準主犯格Bの母親が他人事のような口ぶりで語ったこと「ドラム缶という言葉も嫌ですし…」〉から続く
史上最悪の少年犯罪と呼ばれる「綾瀬女子高校生コンクリート詰め殺人事件」。たった7日間しかなかった昭和64年(1989年)1月に被害者のX子さんは命を落とした。
【衝撃画像】「自分に科される刑はなんだろう」準主犯格Bから著者に届いた直筆の手紙を見る
事件から15年後、「報道ステーション」ディレクター(当時)で、現在は北海道放送(HBC)報道部デスクを務める山裕侍氏は、準主犯格Bの母親に話を聞いた。事件前後の家庭環境と、母親の視点から見た息子の姿とはーー。本日1月7日発売の山氏の著書『償い 綾瀬女子高校生コンクリート詰め殺人事件 6人の加害少年を追って』より一部を抜粋して紹介する。(全2回の2回目/最初から読む)
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母親に愛情を求める息子に対して、彼女が示したのは厳しさだった。Bが家から小金を持ち出したり、姉と喧嘩したりすれば、靴べらで叩いた。小学校から帰宅して「お母さん!」と声をあげながら抱きつこうとしたBに「あんた何なの! その靴の脱ぎ方は! いつもきちんと靴をそろえて脱ぎなさいって教えているのに、あんたなんて子は知りません」と吐き捨てて仕事に行ってしまったりした。
母親は優しく包み込むより、厳しい父親役を演じなければならないと思っていた。Bはこのころから母親とあまりしゃべらないようになったという。母親の前で父親のことを話すと「そんなにお父さんのところがいいなら、そっちに行きなさい」と言われ、次第に父親のことを話さなくなった。そして小学校では、思うようにいかなくなると暴力を振るうようになった。
小学4年生の通知表の所見欄には以下のような懸念が記されていた。
〈特定の子供たちを力で押さえつけ、自己中心的な振る舞いが多いが、教師の顔色をうかがうことも多い。いやなことから逃げ出そうとすることもある〉
Bは小学4年生のとき、父親と暮らした時期がある。転校先の学校で「友人っていいな」と新生活に喜びを感じていたが、小さな体に希望を宿した時間は長く続かなかった。父親と再婚した女性とのあいだに1歳半になる異母弟がいた。父親と一緒にいるのは「温かい感じがしてのびのびできた」と感じていたものの、「おばさんが自分の子どもばかりかわいがる」と受容されぬ悲しさをにじませた。
慕っていた父との暮らしにも、Bの居場所はなかった。結局、2カ月後に再び母親のもとに戻ってきた。自宅に入れず団地の駐輪場に隠れていたところを近所の人に見つかった。父親がやってきて「お前がここに残るなら、もう縁は切るぞ」とBに言い放った。この一件で、Bは「僕はお父さんに捨てられた」という強烈な挫折感・疎外感を持った。
一審判決では情状酌量面として〈Bの未熟で偏りのある人格形成過程には、幼少時期からの両親から受容されない家庭などといった、他律的な要因が重畳的に関わっており、この屈折した心理がAへの無批判な追従を促した〉と指摘された。父親にも母親にも受け入れられない家庭環境で育ったBが、暴走するAに従ってしまったことが犯行の一因だというのだ。
母親に一審判決での指摘について尋ねた。
「判決でBは主犯Aに追従し、自分の意思をコントロールすることができないという文脈が出てきます。なぜ、あんな犯行に走ったのか、何か思い当たる節はありますか?」
「やはり、本人としては、父親というのが大きかったのだと思います。高校入試のときも、間違って父親の名前を書いたんです。『何で父親がいないのに書くの?』と、私も心ない言い方で聞いてしまったんです。そうしたら慌てて隠したんですけど、父親っていうのは、息子にとって必要な部分だったのだと思います。
相撲大会に幼稚園代表で出たときに、『これに勝ったらお父さん帰ってくるかな』って言ったのが、私としてはいちばん……。要するに強ければ何とかなるんじゃないのかなという考えに、走っていってしまったんじゃないかなと思います。そのときは、相撲大会でも気合い負けだったんですけど……。確かにお父さんがいなくてもお母さんがいなくても、よく育っている子はいると思います。でも、あの子には、父親が必要だったんじゃないかなと思います」
母親は幼いころのエピソードを交えて、父親不在が息子の非行の理由だとして一気に話した。
Bが入学した中学校は「足立区の学習院」と言われたエリート校だった。有名私立高校への進学率も高かった。中学校では陸上に打ち込み、大きな問題行動は起こしていない。だが2年生の冬、スキーで足首を複雑骨折し、得意のスポーツができなくなった。そこからBの人生は暗転する。学校では成績が下がるにつれて喧嘩が増えていった。母親は夜の仕事で忙しく、さらに知り合いの男性との再婚を考えて親子で引っ越した。子育てより自分の恋愛を優先していると受け止めたBは不信感を募らせた。
Bは都立高校への進学を希望したものの、母親は柔道や野球などスポーツが強い地元の私立高校への入学を勝手に決めてしまう。1学期の終わり、身長180センチという目立つ体格から運動部の勧誘を受けるが、Bが断ったことで集団暴行を受ける。暴行が明るみに出て運動部が大会に出られなくなるのを恐れて、学校は暴行を加えた運動部員を処分せずBに自主退学を促したという。これをきっかけにBは次第に不登校となり、高校1年生の2学期、1987年11月に中退した。
母親に対する寂しさをまぎらわすため、Bは中学生のころから年上の女の子とつき合い始める。高校1年生のときには、喫茶店のウェイトレスをしていた1歳上の女性と交際する。母親とは逆のタイプで、甘えさせてくれる存在だ。ある日の朝、Bがなかなか起きられず、彼女はBの自宅まで迎えに来た。その様子を見た母親が「殺してやる」と怒り出してBの首を絞めてきた。
結局母親によってBは彼女と別れさせられ、そのころから家庭内暴力を振るうようになる。母親に手を上げることはしなかったが、激しくものに当たった。1988年8月、小遣いをねだって壁を叩いたところ、母親が警察に通報したことがあった。自宅に来た警察官に「そんなふうに家を壊す子はウチの子じゃありませんから連れて行ってください」と突き放したという。それ以来、家庭内暴力は収まったが、家にも帰らなくなる。新たな居場所がCの家だった。
Cの1歳上の兄GとBは同級生で、C兄弟とは小学校の学童保育も一緒で、幼いころから遊ぶ仲だった。DもBらと同級生だ。被害者を連れ去り監禁を始める2カ月ほど前からBはCの家で過ごすことが多くなる。
1988年9月、Gのバイクが盗まれたことがあった。Bは1歳上のAにバイク捜しを手伝ってもらい、これをきっかけにAは10月ごろからCの部屋に出入りするようになる。Bが暴走族とのあいだに起きたトラブルをAに相談してからは、Aと行動を共にするようになり、彼らのあいだに主従関係が生まれる。Aを中心とする不良仲間は、自動車などの窃盗や、見ず知らずの女性を連れ去って強姦することを繰り返していた。Bも何度か加わった。
1988年11月25日夜、AとCが自転車で帰宅途中の女子高校生X子さんを襲い、Cの自宅に監禁し、凄惨な事件が始まった。40日間にわたる監禁のあいだ、少年たちは抵抗する彼女を何度も強姦。Bは逃げようとしたX子さんをつかまえ、AやCとともに激しい暴行を加えた。12月中旬を過ぎると、性の対象としての興味をなくし、顔が変形するほど殴ったり、皮膚をライターであぶったりと、壮絶な暴行を続けた。
(山 裕侍/ノンフィクション出版)