日本は、中国に次ぐ世界2位の不妊治療大国である。
日本で2021年に行われた生殖補助医療の実施件数は約50万件。人口差のあるアメリカですら約41万件であることを踏まえれば、日本の夫婦がかなりの割合で不妊治療を行っていることを感じ取っていただけることだろう。
実際、国立社会保障・人口問題研究所の「2021年社会保障・人口問題基本調査」によれば、不妊の検査または治療経験がある夫婦の割合は、全体の22.7%に及んでいた。前回調査の18.2%(2015年)から増加したかたちだ。
その不妊の治療法だが、原因によってタイミング法、排卵誘発法、人工授精、さらには体外受精などの生殖補助医療など、さまざまな治療法が選択されているが、夫が無精子症の場合は、第三者の精子を使う非配偶者間人工授精(AID)が選択肢に入ってくる。
無精子症とは、射出精液中に精子が極端に少ないか、全くない状態のことで、一般的に100人に1人の割合で無精子症の男性がいるとされている。その場合、保険も適用される顕微鏡を使って直接精巣の中から精子を取り出す方法もあるが、それでも無理だった場合は、AIDしか方法は無くなる。
いわばAIDは、無精子症が原因の不妊治療の“最後の砦”であるといっていいが、その歴史は意外と古い。国内では1940年代に慶應義塾大学病院で始まった。主な精子提供者は大学内で集められた医学生で、そうやって生まれた子供は国内で2万人以上とも言われている。
ただしAIDの治療は、医療従事者たちが、長年問題を棚上げしたまま行ってきたと言わざるをえない。特に深刻な問題は「精子提供者の匿名性」だろう。問題を指摘するのは、精子や卵子提供で生まれた子供と、提供者を結ぶことを目的とした社団法人ドナーリンク・ジャパンの理事、石塚幸子さんだ。
「医者は妊娠させることに成功しさえすればいいと考え、子供が生まれた後の家庭のケア、生まれた子供たちのケアをしてこなかった。AIDで生まれた事実を知った子供たちは、自分の半身のルーツを知りたくても、使われた精子は匿名の提供者から採取したもの。病院に問い合わせてもわからないのです」
この問題を「育ててくれた両親がいるからいいではないか」と切り捨ててしまうのは早計だ。もちろん「誰の精子であっても、育ててくれた父が私の父親」と理解する子供たちもいるが、一方で、大きくなってから事実を突然知ったことでアイデンティティが崩壊してしまい、心に深い傷を負ったまま解消もできない子供たちもいるからだ。
「子供は意識的にはしていないだろうけど、家庭の中でちょっとずつ気づきを得ます。こういうところは父に似ている、母に似ているという積み重ねをして、自分というものを捉えていると思うんです。
しかしある日、子供がAIDで生まれたと知ったとき、その半分が壊れてしまう。自分をつくっている半分が分からなくなってしまうのです。
自分の一度崩れてしまったアイデンティティみたいなものを立て直すとき、重要になってくるのは精子提供者の存在。『自分のこういうところはこの提供者から継いだものなのかな』と実際に確認することで、『私は母親と精子というモノを使って、技術によって生み出された』という思いを払拭できる。しかし長年、精子提供は匿名で行なわれており、それができない」(前出・石塚さん)
石塚さんもまた、慶応義塾大学病院で、母と第三者の精子との間に生まれた子供のひとりである。23歳のときにAIDで生まれたという事実を知り、そのショックもさることながら、親との信頼関係が崩れてしまったのは、前編記事『【実名告白】「精子提供者は“誰”だったのか、知りたい」…生殖医療の技術によって45年前に生まれた女性が明かす、「育ててくれた親への複雑な思い」』でも触れたとおりである。
とはいえ近年は、精子提供者の非匿名性が重要だと気づく医療従事者も増加しており、AIDを行うクリニックが独自にルールを設定し、非匿名に切り替えるところもでてきた。
そんな中、子供たちの「出自を知りたい」という思いに寄り添うかのように、日本初の非匿名精子バンクが立ち上がった。精子バンクを運営する『プライベートケアクリニック東京』の不妊カウンセラー・伊藤ひろみさんが語る。
「日本のAIDは、ドナー不足で治療がなかなか受けられない厳しい治療環境だったり、精子提供で生まれたことを知らずに育ち、大人になってから偶発的にそれを知ったお子様の衝撃であったり、そのお子様が自分のルーツを知りたいとなったとき、その半分を辿ることができない苦しみや喪失感など、さまざまな問題を抱えています。
この治療に関わるさまざまな立場の人が、さまざまなところで時に悲しみを抱えている。そういう中で日本のAIDはひっそりと続けられてきました。
子どもたちはもちろん、親となる夫婦とドナーも含め、当事者みんなが幸せになれるようなやさしい仕組みをつくること。そして、この医療に対する社会のまなざしを変えていくこと。これが、精子提供のおかげで幸せな人生を歩む自分の責務です。私は生涯をかけてその実現に取り組んでいくつもりです」
伊藤さん自身も、海外に渡りAIDで2人の子供を産んだ親であり、外資系の精子バンクに勤務した経験もある。精子ドナー側は情報を開示してくれる非匿名のドナーを選択し、子供には幼い頃から、自然な形でAIDで生まれてきたことを伝えている。
「私が治療を受けたイギリスでは、治療前のカウンセリングが必須になっていて、私が第三者の精子を提供していただいた際にも、詳細なドナー情報をいただき、心理カウンセラーからいずれすべき子供への告知のアドバイスを受けることができました。
しかし日本ではそもそも治療前のカウンセリングすら行われていないケースがあり、妊娠・出産後のケアもほとんどありません。
海外の精子バンクで働いていたとき、非匿名の日本人ドナーからの提供を希望する親が多くいることを確認していました。親になる人たちの中には、自分たちと同じ日本人から提供を受けたい、子供の出自を知る権利を守ってあげたいという方が、大勢いらっしゃったので、その願いを叶えたいと思ったのです」
伊藤さんは「親が堂々と子どもに出生の事実を告知できる社会にしたい」と語るが、実際、精子提供者、親となる夫婦、そして生まれてきた子供へのフォローは多岐にわたる。妊娠後期には、出産後に生じうる夫婦の懸念や悩みへの対応からはじまり、当事者のLINEグループへの招待で、悩みを共有できる場の提供もする。
また、精子提供を受けた親たちとのネットワークを生かし、告知の体験談も共有し、親に役立てて貰う方針で進めているという。
さらに、これまで精子提供者が匿名であったがゆえに起きた悲劇が繰り返されないよう、AIDで生まれた子供たちが自分のルーツを知りたくなったときに、身元を明かしていいという条件に賛同した男性のみ、精子ドナーとして登録し、不妊治療をする夫婦に提供するという。
当然、妊娠後はAID治療を受けた夫婦、出自を知りたいと考えた子供に、段階的にドナーの情報を開示していくが、内容は多岐におよぶ。
まずは妊娠後期の段階でドナーの身元が特定できない範囲で開示するのだが、身長、体重、血液型などの基本情報から始まり、祖父母まで遡った海外ルーツの有無や病歴・アレルギーの有無、病歴、ドナーの配偶者や実子の有無など、身体にまつわる情報なども開示。これは出産後、子供が小児科にかかった時に役立ててもらうための情報だ。
同時に、ドナーの人柄に関する情報も提供する。こちらは精子提供時の職業や、職業を選んだ理由、趣味、将来の夢、性格診断の結果などが含まれる。ドナーの具体的なイメージを掴んで貰う狙いがある。
「ドナーの身元が特定できる情報については、お子様が18歳になった後、お子様自身が『知りたい』とおっしゃったときに開示します。開示する内容は、ドナーの氏名、生年月日、連絡先、ドナーの希望する連絡手段などになります」
伊藤さんは、「私は法律にて精子提供を完全非匿名制にすべきだと思っています。18年後にドナーの気持ちが変わったとしても、開示の原則は覆すべきではありません」と言い切る。
非匿名での精子提供を義務付ける国はイギリス、フランス、ドイツなど複数あるが、いずれも開示への同意を覆せない法律となっている。この保障があれば、親は自信を持って子供に、『もしあなたが知りたければドナーが誰だか知ることができるし、もし同意が得られれば会えるかもしれないよ』と出自の告知ができるからというのも理由のひとつだ。
精子ドナーと子供との交流は、双方に配慮して慎重に行うという。
「お子様から開示請求を受けた時点で、お子様のご希望をドナーに連絡し、仲介に入ります。お子様には一度、カウンセラーと面談をしていただき、心理状態がしっかりしているのか、情報開示によってネガティブな影響がないか確認し、必要があれば支援をします。
一方でドナーには、お子様からいただく「ドナーの身元特定情報の開示を希望する理由」を共有し、開示に向けた心の準備を行っていただくとともに、お子様が希望される場合に会う意思はあるか意思確認をします。
子供には知る権利がありますので、ドナーに情報開示の拒否権はありません。でも、仮に情報提供するタイミングで、ドナーが開示を躊躇するような問題を抱えていたり、面会までは応じられないと言うのであれば理由を聞き、そのうえでお子さんに事情を含めて事前に伝えます。お互いにとって、やっぱり不安や懸念をできる限り感じない方法で、円滑なコミュニケーションを実現することを目標としています」
日本の多くの医療機関が、「匿名でなければドナーが集まらない」と、なおも匿名ドナーの精子提供を続ける一方で、伊藤さんは、全ての当事者に配慮する仕組みづくりをいちからつくろうとしている。それに賛同する形で、昨年5月の開設から140人以上の提供希望者がやってきたという。これまで精子ドナーに“合格”した人は3割弱という。
精子提供に関する考え方が、伊藤さんのクリニックの基本理念と合致しない場合は、登録しない。
「志望動機に、『優秀な自分の遺伝子を残すことは社会にとって有益だから』とか、『婚活に失敗し、結婚できず子供も持てません。育てたい人に自分の子供を育ててほしい』などと、自身の子供を持つ目的を書く男性には遠慮していただきます」
精子提供者になった人はどのような思いを抱いているか。伊藤さんのクリニックで精子を提供した、教育関係で働く独身男性(40代前半)が明かす。
「子供を望んでいる夫婦には、さまざまな選択肢があって良いと思いました。妊娠したい女性がSNSで精子提供者を探して、ラブホテルなどでもらう『精子の闇取引』が横行している現状が許せなかったんです。僕にとっては、献血ほど手軽ではないけれど、臓器提供ほどの決断ではないくらいの重さでした」
もうひとり、IT関係で働く既婚男性(30代後半)は、妻とともに取材に応じた。
「私たちは仕事が忙しく子供をつくっていないのですが、精子提供を受けなくては子供ができない夫婦の話を聞いて、困っているご夫婦に協力したいと思ったんです。遺伝的には私とつながる子供が生まれることへの拒否感はありませんでした」
今回取材に答えた二人はいずれも、いつか子供が自分の父方のルーツを探り、望まれたら会うと語る。
AIDで生まれたことで悲しみを抱えるかつての子供たち、親となった人たち、生殖補助医療に携わる人たち――。民間が主導する形で、半世紀以上、問題を抱えたまま行われてきたAIDを見直す動きが活発化しているが、水をさす事態が起きている。
足を引っ張るのは、国会議員だ。
今年2月、生殖補助医療の在り方を考える超党派の議員連盟(野田聖子会長)が、特定生殖補助医療に関する法律案を参議院に提出した。医療機関を介して精子や卵子提供で生まれた子供達に対し、子の要望があれば提供者の同意の有無にかかわらず、身長や血液型、年齢を開示することが柱となっている法案となっている。
一方で、それ以上の情報については、精子を提供したドナーが「教えたくない」と言えば、子供は知ることができない。「子供のための法案というより、提供者のための法案」(AIDで生まれた30代女性)と言われても仕方がない内容だ。議員のひとりが、「課題は残っているけど、子供のためになっていると思う」と記者団に答えたことも、火に油を注いでいる。
AIDに関わった当事者たちから「75年たって法律化で、75年もあったのにこの程度」「事実上、子供の権利を認めていない」という意見が多く聞かれるのである。
「この法律で、一体だれが幸せになるのかと疑問を持っています。本当にこれは子供のためなのか。『3つでは足りない』というのではなく、何を知りたいかは子供に決めさせてほしい。仮に子供が知りたいとなったとき、何を知りたいかは子供が決めるべき。そうなってはじめて子供の権利と言えるのではないのでしょうか」(前出・石塚さん)
問題を抱えながら国内で半世紀以上続けられたAID治療――。民間主導で環境が改善されていく中、長年放置してきた政府が水を差すのは、いかがなものか。
(取材・文 週刊現代記者 後藤宰人)
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