幼いころから自らの性に違和感を持ちながらも、“男性”として生きてきた今西千尋さん(56)。28歳で結婚し、2児の父親となる一方で、「女性になりたい」という気持ちは日に日に強くなり、46歳の春、女性として生きていくことを決意しました。
【画像】46歳で性別適合手術を受けた今西千尋さん 本来の性を取り戻すまでの道のりや周囲からの偏見と差別、家族の苦悩などこれまでの人生について詳しく話を聞きました。(全2回の1回目/後編を読む)

性別適合手術を受ける前の今西千尋さん (本人提供)◆◆◆結婚10年目のカミングアウト――千尋さんは結婚から10年が経った時、博子さんに「女性として生きていきたい」とカミングアウトされたとおっしゃっていました。そのきっかけは何だったのでしょうか。今西 物心ついた時から自分の性別に違和感があって、親に隠れて女性用の服を着ていました。結婚してからもやっぱり、女性になりたいという気持ちはずっとあって、家族に隠れてこっそりと女性用の下着や洋服を身につけていたんです。 その下着や洋服を自分のタンスやカバンの中に隠していたんですが、ある時博子さんがたまたまカバンの中から女性用の下着を見つけて。「お父さん。この下着はどういうことなん? もしかして浮気とか?」って。――他に相手がいると思われたと。今西 浮気していると勘違いしていたんでしょうね。その時に、これは正直に話すしかないと思って、「これは私のものです……」と打ち明けました。博子さんは、戸惑いつつも、私が前から育児や家事を熱心にしてくれていた人だからと、なんとか受け入れようとしてくれました。 ただ、ちょうどその日が、四国に家族旅行に行く前日だったんです。子どもたちもいたので、博子さんは私のカミングアウトについてはあまり考えないようにしていたみたいです。お互いに頭に重いものを抱えながら過ごしていましたね。――博子さんとしては、そのカミングアウトは到底受け入れられるものではなかったと。今西 あとから当時の心境を聞いたら、「いい人で、いい夫で、いいパパだったから女性であるという落差があまりに激しくてついていけなかった」と話していました。ただ、博子さんはなんとか私のことを理解しようとカウンセリングを学んでくれたり、いろんなところに相談してくれて。――千尋さんの気持ちに寄り添ってくれたんですね。今西 そうですね。私の気持ちを否定することなく、受け入れようとしてくれました。カミングアウトした時、子どもたちは7歳と3歳――カミングアウトされた時、長男の竜太さんは7歳、長女の奏絵さんは3歳だったそうですね。お子さんたちにはなんと伝えたのでしょうか。今西 子どもたちはまだ小さかったので、何も言いませんでした。私の姿を見て、少しずつ理解していったと思います。 博子さんにカミングアウトしてからは、家の中でも外でも女性の格好をするようになったから、子どもたちも自然と「うちのお父さんは世間のお父さんとちゃうんやな」って思っていたんじゃないかな。 子どもたちから何か聞かれることはなかったですけど、その分、裏で博子さんが子どもたちのケアをしてくれていました。それに学校の先生やママ友など周りからの視線もあっただろうから、本当にたくさんの精神的負担を掛けてきたと思います。――カミングアウトされてからは、家の中や外で女性用の洋服を身につけ始めたということですが、博子さんの反応はいかがでしたか。今西 ストレスを感じていたと思います。でも、自分の中でコントロールが効かなくなってきて。博子さんから「この日はみんなで集まるから男性としてきてくださいね」と言われた日でさえ、女性の格好をしてしまって。 旅行に行くと、見た目は女性なのに子どもたちは私のことを「お父さん」と呼ぶので、周りの方はびっくりして私たちのことを見るんですよ。女性なのに、お父さんってどういうことって。それが家族のストレスになっていたので、それからは旅行に行くときも、別々の車両に乗ったりして、なるべく一緒にいないようにしていました。――ご家族も周囲から偏見の目に晒されることがあったんですね。娘は口を聞いてくれず、息子は円形脱毛症に今西 一番辛かったのは、息子が円形脱毛症になった時。小学校4年の時に自己免疫疾患を起こしてしまって、身体中の毛が抜けてしまったんです。 私のことでもストレスを感じていた息子は、自分自身の容姿のことでも悩むようになって。周囲から容姿について、からかわれたりしたみたいで。そんな姿を見ていて、自分は親失格だなと思いました。子どもを不幸にさせてしまっていると。――お子さんたちも精神的なストレスを感じていたと。今西 そうですね。娘は小学生の時はずっと口を聞いてくれなかったです。息子とも脱毛症になってからだんだんと距離ができてしまって。話さない時期もありました。――博子さんとの関係はいかがでしたか。今西 家の中でも外でも女性用の服を着ていましたから、博子さんにとってストレスだったと思います。博子さんは育児や家事、仕事をこなしながら、私のことも受け入れようと努力をしてくれていたけど、限界に達してしまって。血圧が170を超えたりと、体に異常も出始めていました。「私のせいで博子さんに迷惑を掛けてしまうから、女性用の洋服は家の外に持って行きます」と、一時的に会社の倉庫に衣装ケース置いて、洋服を避難させました。でも、それでは間に合わなくなって、会社の近くにアパートを借りてそこに荷物を置くようになりました。 それからだんだんと博子さんと話すことが少なくなって、距離ができてしまって。自宅にも帰りづらくなり、アパートに泊まる回数が増えて、自然と別居という形になりました。――離婚されたのは別居から7年後ですが、離婚を決めた理由は何でしょうか。今西 別居後、自分自身の今後についてずっと悩んでいたんです。「女性として生きていきたい」と言ったものの、家族と本当に離れてしまうという怖さもあったから、ずっと足踏みしていました。 でも、博子さんが病院に付き添ってくれて、そこで初めて「性同一性障害」との診断を受けました。それから博子さんといろいろ話し合った結果、やはり夫婦としてはやっていけないという結論に至り、離婚をしました。※2019年、WHOは性同一性障害を精神疾患から除外することを決定。現在は「性同一性障害」ではなく、「性別不合」「性別違和」と表される。 でも、私も博子さんも離婚に至るまでに相当悩みました。私にパートナーができたわけではないし、戸籍上、夫婦でいることもできたから。でも、やっぱり博子さんの気持ちを考えると、この関係を続けるのは違うなと。博子さんからの「男性としてのあなたを好きになった」という言葉を聞いて、夫婦関係は終了しようと思いました。――性別適合手術を受けたのは、離婚されてからでしょうか。今西 そうです。46歳の春に、性別適合手術を受けて、名前も「文彦」から「千尋」に変えました。博子さんには事前に手術を受けることを伝えましたが、ショックだったと思います。離婚から9年後、養子縁組を結んだ理由――お2人は離婚から9年後、養子縁組を結ばれました。その経緯を教えていただけますか。今西 離婚した時の一番のネックは、子どもたちのことでした。男として子どもを作った責任を最後まで全うしたいという気持ちがあったので、金銭的にも精神的にもできる限りのことはしたいと思っていて。 それに、博子さんと離婚したからといって、家族としての関係が終了するというわけではなかったんです。夫婦としての関係ではないものの、お互いに支え合っていたし、必要な存在でした。もちろんカミングアウトした当初は、お互いに距離もできてしまったし、博子さんも私との関係をすごく悩んだと思います。 でも、離婚後、何年もかけて少しずつお互いを理解していく中で、やっぱりこれからもお互いに支え合いたいと思って。それで養子縁組を結ぶことに決めました。――性別を変えてからお子さん達との関係はいかがでしたか。今西 娘が小学校6年生の時に、たまたま一緒に警察署に忘れ物を取りに行く機会があって。警察官が、「お母様。身分証明書はありますか?」って聞いてきたんです。そしたら娘が急に笑い出して、「警察官もお父さんのこと、女性やと思うんやな」って。それまでずっと口を聞いてくれなかったんですが、それ以降は心を開いてくれて。 息子も今では「お父さんの生き方はかっこいいよ」って言ってくれます。受け入れてくれるのは嬉しいですね。――離婚はされましたが、家族としての形は変わらないと。今西 そうですね。博子さんや子どもたちが私を受け入れてくれたので、家族としてまた歩んでいくことになりました。だから本当に感謝しています。途中からお父さんが女性になるなんてなかなか受け入れられないことですよ。もう二度と会いたくないと言われてもおかしくないですから。 今こうやって家族として暮らして、博子さんとも夫婦の時と変わらずに支え合って生きていられるのは、本当に稀なケースだと思いますね。写真=山元茂樹/文藝春秋結婚10年目で“女性になりたい”と打ち明けたトランスジェンダー当事者(56)が直面した、周囲の反応「『あそこの社長おかまになったんやって』と噂が…」 へ続く(「文春オンライン」編集部)
本来の性を取り戻すまでの道のりや周囲からの偏見と差別、家族の苦悩などこれまでの人生について詳しく話を聞きました。(全2回の1回目/後編を読む)
性別適合手術を受ける前の今西千尋さん (本人提供)
◆◆◆
――千尋さんは結婚から10年が経った時、博子さんに「女性として生きていきたい」とカミングアウトされたとおっしゃっていました。そのきっかけは何だったのでしょうか。
今西 物心ついた時から自分の性別に違和感があって、親に隠れて女性用の服を着ていました。結婚してからもやっぱり、女性になりたいという気持ちはずっとあって、家族に隠れてこっそりと女性用の下着や洋服を身につけていたんです。
その下着や洋服を自分のタンスやカバンの中に隠していたんですが、ある時博子さんがたまたまカバンの中から女性用の下着を見つけて。「お父さん。この下着はどういうことなん? もしかして浮気とか?」って。――他に相手がいると思われたと。今西 浮気していると勘違いしていたんでしょうね。その時に、これは正直に話すしかないと思って、「これは私のものです……」と打ち明けました。博子さんは、戸惑いつつも、私が前から育児や家事を熱心にしてくれていた人だからと、なんとか受け入れようとしてくれました。 ただ、ちょうどその日が、四国に家族旅行に行く前日だったんです。子どもたちもいたので、博子さんは私のカミングアウトについてはあまり考えないようにしていたみたいです。お互いに頭に重いものを抱えながら過ごしていましたね。――博子さんとしては、そのカミングアウトは到底受け入れられるものではなかったと。今西 あとから当時の心境を聞いたら、「いい人で、いい夫で、いいパパだったから女性であるという落差があまりに激しくてついていけなかった」と話していました。ただ、博子さんはなんとか私のことを理解しようとカウンセリングを学んでくれたり、いろんなところに相談してくれて。――千尋さんの気持ちに寄り添ってくれたんですね。今西 そうですね。私の気持ちを否定することなく、受け入れようとしてくれました。カミングアウトした時、子どもたちは7歳と3歳――カミングアウトされた時、長男の竜太さんは7歳、長女の奏絵さんは3歳だったそうですね。お子さんたちにはなんと伝えたのでしょうか。今西 子どもたちはまだ小さかったので、何も言いませんでした。私の姿を見て、少しずつ理解していったと思います。 博子さんにカミングアウトしてからは、家の中でも外でも女性の格好をするようになったから、子どもたちも自然と「うちのお父さんは世間のお父さんとちゃうんやな」って思っていたんじゃないかな。 子どもたちから何か聞かれることはなかったですけど、その分、裏で博子さんが子どもたちのケアをしてくれていました。それに学校の先生やママ友など周りからの視線もあっただろうから、本当にたくさんの精神的負担を掛けてきたと思います。――カミングアウトされてからは、家の中や外で女性用の洋服を身につけ始めたということですが、博子さんの反応はいかがでしたか。今西 ストレスを感じていたと思います。でも、自分の中でコントロールが効かなくなってきて。博子さんから「この日はみんなで集まるから男性としてきてくださいね」と言われた日でさえ、女性の格好をしてしまって。 旅行に行くと、見た目は女性なのに子どもたちは私のことを「お父さん」と呼ぶので、周りの方はびっくりして私たちのことを見るんですよ。女性なのに、お父さんってどういうことって。それが家族のストレスになっていたので、それからは旅行に行くときも、別々の車両に乗ったりして、なるべく一緒にいないようにしていました。――ご家族も周囲から偏見の目に晒されることがあったんですね。娘は口を聞いてくれず、息子は円形脱毛症に今西 一番辛かったのは、息子が円形脱毛症になった時。小学校4年の時に自己免疫疾患を起こしてしまって、身体中の毛が抜けてしまったんです。 私のことでもストレスを感じていた息子は、自分自身の容姿のことでも悩むようになって。周囲から容姿について、からかわれたりしたみたいで。そんな姿を見ていて、自分は親失格だなと思いました。子どもを不幸にさせてしまっていると。――お子さんたちも精神的なストレスを感じていたと。今西 そうですね。娘は小学生の時はずっと口を聞いてくれなかったです。息子とも脱毛症になってからだんだんと距離ができてしまって。話さない時期もありました。――博子さんとの関係はいかがでしたか。今西 家の中でも外でも女性用の服を着ていましたから、博子さんにとってストレスだったと思います。博子さんは育児や家事、仕事をこなしながら、私のことも受け入れようと努力をしてくれていたけど、限界に達してしまって。血圧が170を超えたりと、体に異常も出始めていました。「私のせいで博子さんに迷惑を掛けてしまうから、女性用の洋服は家の外に持って行きます」と、一時的に会社の倉庫に衣装ケース置いて、洋服を避難させました。でも、それでは間に合わなくなって、会社の近くにアパートを借りてそこに荷物を置くようになりました。 それからだんだんと博子さんと話すことが少なくなって、距離ができてしまって。自宅にも帰りづらくなり、アパートに泊まる回数が増えて、自然と別居という形になりました。――離婚されたのは別居から7年後ですが、離婚を決めた理由は何でしょうか。今西 別居後、自分自身の今後についてずっと悩んでいたんです。「女性として生きていきたい」と言ったものの、家族と本当に離れてしまうという怖さもあったから、ずっと足踏みしていました。 でも、博子さんが病院に付き添ってくれて、そこで初めて「性同一性障害」との診断を受けました。それから博子さんといろいろ話し合った結果、やはり夫婦としてはやっていけないという結論に至り、離婚をしました。※2019年、WHOは性同一性障害を精神疾患から除外することを決定。現在は「性同一性障害」ではなく、「性別不合」「性別違和」と表される。 でも、私も博子さんも離婚に至るまでに相当悩みました。私にパートナーができたわけではないし、戸籍上、夫婦でいることもできたから。でも、やっぱり博子さんの気持ちを考えると、この関係を続けるのは違うなと。博子さんからの「男性としてのあなたを好きになった」という言葉を聞いて、夫婦関係は終了しようと思いました。――性別適合手術を受けたのは、離婚されてからでしょうか。今西 そうです。46歳の春に、性別適合手術を受けて、名前も「文彦」から「千尋」に変えました。博子さんには事前に手術を受けることを伝えましたが、ショックだったと思います。離婚から9年後、養子縁組を結んだ理由――お2人は離婚から9年後、養子縁組を結ばれました。その経緯を教えていただけますか。今西 離婚した時の一番のネックは、子どもたちのことでした。男として子どもを作った責任を最後まで全うしたいという気持ちがあったので、金銭的にも精神的にもできる限りのことはしたいと思っていて。 それに、博子さんと離婚したからといって、家族としての関係が終了するというわけではなかったんです。夫婦としての関係ではないものの、お互いに支え合っていたし、必要な存在でした。もちろんカミングアウトした当初は、お互いに距離もできてしまったし、博子さんも私との関係をすごく悩んだと思います。 でも、離婚後、何年もかけて少しずつお互いを理解していく中で、やっぱりこれからもお互いに支え合いたいと思って。それで養子縁組を結ぶことに決めました。――性別を変えてからお子さん達との関係はいかがでしたか。今西 娘が小学校6年生の時に、たまたま一緒に警察署に忘れ物を取りに行く機会があって。警察官が、「お母様。身分証明書はありますか?」って聞いてきたんです。そしたら娘が急に笑い出して、「警察官もお父さんのこと、女性やと思うんやな」って。それまでずっと口を聞いてくれなかったんですが、それ以降は心を開いてくれて。 息子も今では「お父さんの生き方はかっこいいよ」って言ってくれます。受け入れてくれるのは嬉しいですね。――離婚はされましたが、家族としての形は変わらないと。今西 そうですね。博子さんや子どもたちが私を受け入れてくれたので、家族としてまた歩んでいくことになりました。だから本当に感謝しています。途中からお父さんが女性になるなんてなかなか受け入れられないことですよ。もう二度と会いたくないと言われてもおかしくないですから。 今こうやって家族として暮らして、博子さんとも夫婦の時と変わらずに支え合って生きていられるのは、本当に稀なケースだと思いますね。写真=山元茂樹/文藝春秋結婚10年目で“女性になりたい”と打ち明けたトランスジェンダー当事者(56)が直面した、周囲の反応「『あそこの社長おかまになったんやって』と噂が…」 へ続く(「文春オンライン」編集部)
その下着や洋服を自分のタンスやカバンの中に隠していたんですが、ある時博子さんがたまたまカバンの中から女性用の下着を見つけて。「お父さん。この下着はどういうことなん? もしかして浮気とか?」って。
――他に相手がいると思われたと。
今西 浮気していると勘違いしていたんでしょうね。その時に、これは正直に話すしかないと思って、「これは私のものです……」と打ち明けました。博子さんは、戸惑いつつも、私が前から育児や家事を熱心にしてくれていた人だからと、なんとか受け入れようとしてくれました。
ただ、ちょうどその日が、四国に家族旅行に行く前日だったんです。子どもたちもいたので、博子さんは私のカミングアウトについてはあまり考えないようにしていたみたいです。お互いに頭に重いものを抱えながら過ごしていましたね。
――博子さんとしては、そのカミングアウトは到底受け入れられるものではなかったと。
今西 あとから当時の心境を聞いたら、「いい人で、いい夫で、いいパパだったから女性であるという落差があまりに激しくてついていけなかった」と話していました。ただ、博子さんはなんとか私のことを理解しようとカウンセリングを学んでくれたり、いろんなところに相談してくれて。
――千尋さんの気持ちに寄り添ってくれたんですね。
今西 そうですね。私の気持ちを否定することなく、受け入れようとしてくれました。
――カミングアウトされた時、長男の竜太さんは7歳、長女の奏絵さんは3歳だったそうですね。お子さんたちにはなんと伝えたのでしょうか。
今西 子どもたちはまだ小さかったので、何も言いませんでした。私の姿を見て、少しずつ理解していったと思います。
博子さんにカミングアウトしてからは、家の中でも外でも女性の格好をするようになったから、子どもたちも自然と「うちのお父さんは世間のお父さんとちゃうんやな」って思っていたんじゃないかな。
子どもたちから何か聞かれることはなかったですけど、その分、裏で博子さんが子どもたちのケアをしてくれていました。それに学校の先生やママ友など周りからの視線もあっただろうから、本当にたくさんの精神的負担を掛けてきたと思います。――カミングアウトされてからは、家の中や外で女性用の洋服を身につけ始めたということですが、博子さんの反応はいかがでしたか。今西 ストレスを感じていたと思います。でも、自分の中でコントロールが効かなくなってきて。博子さんから「この日はみんなで集まるから男性としてきてくださいね」と言われた日でさえ、女性の格好をしてしまって。 旅行に行くと、見た目は女性なのに子どもたちは私のことを「お父さん」と呼ぶので、周りの方はびっくりして私たちのことを見るんですよ。女性なのに、お父さんってどういうことって。それが家族のストレスになっていたので、それからは旅行に行くときも、別々の車両に乗ったりして、なるべく一緒にいないようにしていました。――ご家族も周囲から偏見の目に晒されることがあったんですね。娘は口を聞いてくれず、息子は円形脱毛症に今西 一番辛かったのは、息子が円形脱毛症になった時。小学校4年の時に自己免疫疾患を起こしてしまって、身体中の毛が抜けてしまったんです。 私のことでもストレスを感じていた息子は、自分自身の容姿のことでも悩むようになって。周囲から容姿について、からかわれたりしたみたいで。そんな姿を見ていて、自分は親失格だなと思いました。子どもを不幸にさせてしまっていると。――お子さんたちも精神的なストレスを感じていたと。今西 そうですね。娘は小学生の時はずっと口を聞いてくれなかったです。息子とも脱毛症になってからだんだんと距離ができてしまって。話さない時期もありました。――博子さんとの関係はいかがでしたか。今西 家の中でも外でも女性用の服を着ていましたから、博子さんにとってストレスだったと思います。博子さんは育児や家事、仕事をこなしながら、私のことも受け入れようと努力をしてくれていたけど、限界に達してしまって。血圧が170を超えたりと、体に異常も出始めていました。「私のせいで博子さんに迷惑を掛けてしまうから、女性用の洋服は家の外に持って行きます」と、一時的に会社の倉庫に衣装ケース置いて、洋服を避難させました。でも、それでは間に合わなくなって、会社の近くにアパートを借りてそこに荷物を置くようになりました。 それからだんだんと博子さんと話すことが少なくなって、距離ができてしまって。自宅にも帰りづらくなり、アパートに泊まる回数が増えて、自然と別居という形になりました。――離婚されたのは別居から7年後ですが、離婚を決めた理由は何でしょうか。今西 別居後、自分自身の今後についてずっと悩んでいたんです。「女性として生きていきたい」と言ったものの、家族と本当に離れてしまうという怖さもあったから、ずっと足踏みしていました。 でも、博子さんが病院に付き添ってくれて、そこで初めて「性同一性障害」との診断を受けました。それから博子さんといろいろ話し合った結果、やはり夫婦としてはやっていけないという結論に至り、離婚をしました。※2019年、WHOは性同一性障害を精神疾患から除外することを決定。現在は「性同一性障害」ではなく、「性別不合」「性別違和」と表される。 でも、私も博子さんも離婚に至るまでに相当悩みました。私にパートナーができたわけではないし、戸籍上、夫婦でいることもできたから。でも、やっぱり博子さんの気持ちを考えると、この関係を続けるのは違うなと。博子さんからの「男性としてのあなたを好きになった」という言葉を聞いて、夫婦関係は終了しようと思いました。――性別適合手術を受けたのは、離婚されてからでしょうか。今西 そうです。46歳の春に、性別適合手術を受けて、名前も「文彦」から「千尋」に変えました。博子さんには事前に手術を受けることを伝えましたが、ショックだったと思います。離婚から9年後、養子縁組を結んだ理由――お2人は離婚から9年後、養子縁組を結ばれました。その経緯を教えていただけますか。今西 離婚した時の一番のネックは、子どもたちのことでした。男として子どもを作った責任を最後まで全うしたいという気持ちがあったので、金銭的にも精神的にもできる限りのことはしたいと思っていて。 それに、博子さんと離婚したからといって、家族としての関係が終了するというわけではなかったんです。夫婦としての関係ではないものの、お互いに支え合っていたし、必要な存在でした。もちろんカミングアウトした当初は、お互いに距離もできてしまったし、博子さんも私との関係をすごく悩んだと思います。 でも、離婚後、何年もかけて少しずつお互いを理解していく中で、やっぱりこれからもお互いに支え合いたいと思って。それで養子縁組を結ぶことに決めました。――性別を変えてからお子さん達との関係はいかがでしたか。今西 娘が小学校6年生の時に、たまたま一緒に警察署に忘れ物を取りに行く機会があって。警察官が、「お母様。身分証明書はありますか?」って聞いてきたんです。そしたら娘が急に笑い出して、「警察官もお父さんのこと、女性やと思うんやな」って。それまでずっと口を聞いてくれなかったんですが、それ以降は心を開いてくれて。 息子も今では「お父さんの生き方はかっこいいよ」って言ってくれます。受け入れてくれるのは嬉しいですね。――離婚はされましたが、家族としての形は変わらないと。今西 そうですね。博子さんや子どもたちが私を受け入れてくれたので、家族としてまた歩んでいくことになりました。だから本当に感謝しています。途中からお父さんが女性になるなんてなかなか受け入れられないことですよ。もう二度と会いたくないと言われてもおかしくないですから。 今こうやって家族として暮らして、博子さんとも夫婦の時と変わらずに支え合って生きていられるのは、本当に稀なケースだと思いますね。写真=山元茂樹/文藝春秋結婚10年目で“女性になりたい”と打ち明けたトランスジェンダー当事者(56)が直面した、周囲の反応「『あそこの社長おかまになったんやって』と噂が…」 へ続く(「文春オンライン」編集部)
子どもたちから何か聞かれることはなかったですけど、その分、裏で博子さんが子どもたちのケアをしてくれていました。それに学校の先生やママ友など周りからの視線もあっただろうから、本当にたくさんの精神的負担を掛けてきたと思います。
――カミングアウトされてからは、家の中や外で女性用の洋服を身につけ始めたということですが、博子さんの反応はいかがでしたか。
今西 ストレスを感じていたと思います。でも、自分の中でコントロールが効かなくなってきて。博子さんから「この日はみんなで集まるから男性としてきてくださいね」と言われた日でさえ、女性の格好をしてしまって。
旅行に行くと、見た目は女性なのに子どもたちは私のことを「お父さん」と呼ぶので、周りの方はびっくりして私たちのことを見るんですよ。女性なのに、お父さんってどういうことって。それが家族のストレスになっていたので、それからは旅行に行くときも、別々の車両に乗ったりして、なるべく一緒にいないようにしていました。
――ご家族も周囲から偏見の目に晒されることがあったんですね。
今西 一番辛かったのは、息子が円形脱毛症になった時。小学校4年の時に自己免疫疾患を起こしてしまって、身体中の毛が抜けてしまったんです。
私のことでもストレスを感じていた息子は、自分自身の容姿のことでも悩むようになって。周囲から容姿について、からかわれたりしたみたいで。そんな姿を見ていて、自分は親失格だなと思いました。子どもを不幸にさせてしまっていると。
――お子さんたちも精神的なストレスを感じていたと。
今西 そうですね。娘は小学生の時はずっと口を聞いてくれなかったです。息子とも脱毛症になってからだんだんと距離ができてしまって。話さない時期もありました。
――博子さんとの関係はいかがでしたか。
今西 家の中でも外でも女性用の服を着ていましたから、博子さんにとってストレスだったと思います。博子さんは育児や家事、仕事をこなしながら、私のことも受け入れようと努力をしてくれていたけど、限界に達してしまって。血圧が170を超えたりと、体に異常も出始めていました。
「私のせいで博子さんに迷惑を掛けてしまうから、女性用の洋服は家の外に持って行きます」と、一時的に会社の倉庫に衣装ケース置いて、洋服を避難させました。でも、それでは間に合わなくなって、会社の近くにアパートを借りてそこに荷物を置くようになりました。
それからだんだんと博子さんと話すことが少なくなって、距離ができてしまって。自宅にも帰りづらくなり、アパートに泊まる回数が増えて、自然と別居という形になりました。
――離婚されたのは別居から7年後ですが、離婚を決めた理由は何でしょうか。今西 別居後、自分自身の今後についてずっと悩んでいたんです。「女性として生きていきたい」と言ったものの、家族と本当に離れてしまうという怖さもあったから、ずっと足踏みしていました。 でも、博子さんが病院に付き添ってくれて、そこで初めて「性同一性障害」との診断を受けました。それから博子さんといろいろ話し合った結果、やはり夫婦としてはやっていけないという結論に至り、離婚をしました。※2019年、WHOは性同一性障害を精神疾患から除外することを決定。現在は「性同一性障害」ではなく、「性別不合」「性別違和」と表される。 でも、私も博子さんも離婚に至るまでに相当悩みました。私にパートナーができたわけではないし、戸籍上、夫婦でいることもできたから。でも、やっぱり博子さんの気持ちを考えると、この関係を続けるのは違うなと。博子さんからの「男性としてのあなたを好きになった」という言葉を聞いて、夫婦関係は終了しようと思いました。――性別適合手術を受けたのは、離婚されてからでしょうか。今西 そうです。46歳の春に、性別適合手術を受けて、名前も「文彦」から「千尋」に変えました。博子さんには事前に手術を受けることを伝えましたが、ショックだったと思います。離婚から9年後、養子縁組を結んだ理由――お2人は離婚から9年後、養子縁組を結ばれました。その経緯を教えていただけますか。今西 離婚した時の一番のネックは、子どもたちのことでした。男として子どもを作った責任を最後まで全うしたいという気持ちがあったので、金銭的にも精神的にもできる限りのことはしたいと思っていて。 それに、博子さんと離婚したからといって、家族としての関係が終了するというわけではなかったんです。夫婦としての関係ではないものの、お互いに支え合っていたし、必要な存在でした。もちろんカミングアウトした当初は、お互いに距離もできてしまったし、博子さんも私との関係をすごく悩んだと思います。 でも、離婚後、何年もかけて少しずつお互いを理解していく中で、やっぱりこれからもお互いに支え合いたいと思って。それで養子縁組を結ぶことに決めました。――性別を変えてからお子さん達との関係はいかがでしたか。今西 娘が小学校6年生の時に、たまたま一緒に警察署に忘れ物を取りに行く機会があって。警察官が、「お母様。身分証明書はありますか?」って聞いてきたんです。そしたら娘が急に笑い出して、「警察官もお父さんのこと、女性やと思うんやな」って。それまでずっと口を聞いてくれなかったんですが、それ以降は心を開いてくれて。 息子も今では「お父さんの生き方はかっこいいよ」って言ってくれます。受け入れてくれるのは嬉しいですね。――離婚はされましたが、家族としての形は変わらないと。今西 そうですね。博子さんや子どもたちが私を受け入れてくれたので、家族としてまた歩んでいくことになりました。だから本当に感謝しています。途中からお父さんが女性になるなんてなかなか受け入れられないことですよ。もう二度と会いたくないと言われてもおかしくないですから。 今こうやって家族として暮らして、博子さんとも夫婦の時と変わらずに支え合って生きていられるのは、本当に稀なケースだと思いますね。写真=山元茂樹/文藝春秋結婚10年目で“女性になりたい”と打ち明けたトランスジェンダー当事者(56)が直面した、周囲の反応「『あそこの社長おかまになったんやって』と噂が…」 へ続く(「文春オンライン」編集部)
――離婚されたのは別居から7年後ですが、離婚を決めた理由は何でしょうか。
今西 別居後、自分自身の今後についてずっと悩んでいたんです。「女性として生きていきたい」と言ったものの、家族と本当に離れてしまうという怖さもあったから、ずっと足踏みしていました。
でも、博子さんが病院に付き添ってくれて、そこで初めて「性同一性障害」との診断を受けました。それから博子さんといろいろ話し合った結果、やはり夫婦としてはやっていけないという結論に至り、離婚をしました。
※2019年、WHOは性同一性障害を精神疾患から除外することを決定。現在は「性同一性障害」ではなく、「性別不合」「性別違和」と表される。
でも、私も博子さんも離婚に至るまでに相当悩みました。私にパートナーができたわけではないし、戸籍上、夫婦でいることもできたから。でも、やっぱり博子さんの気持ちを考えると、この関係を続けるのは違うなと。博子さんからの「男性としてのあなたを好きになった」という言葉を聞いて、夫婦関係は終了しようと思いました。
――性別適合手術を受けたのは、離婚されてからでしょうか。今西 そうです。46歳の春に、性別適合手術を受けて、名前も「文彦」から「千尋」に変えました。博子さんには事前に手術を受けることを伝えましたが、ショックだったと思います。離婚から9年後、養子縁組を結んだ理由――お2人は離婚から9年後、養子縁組を結ばれました。その経緯を教えていただけますか。今西 離婚した時の一番のネックは、子どもたちのことでした。男として子どもを作った責任を最後まで全うしたいという気持ちがあったので、金銭的にも精神的にもできる限りのことはしたいと思っていて。 それに、博子さんと離婚したからといって、家族としての関係が終了するというわけではなかったんです。夫婦としての関係ではないものの、お互いに支え合っていたし、必要な存在でした。もちろんカミングアウトした当初は、お互いに距離もできてしまったし、博子さんも私との関係をすごく悩んだと思います。 でも、離婚後、何年もかけて少しずつお互いを理解していく中で、やっぱりこれからもお互いに支え合いたいと思って。それで養子縁組を結ぶことに決めました。――性別を変えてからお子さん達との関係はいかがでしたか。今西 娘が小学校6年生の時に、たまたま一緒に警察署に忘れ物を取りに行く機会があって。警察官が、「お母様。身分証明書はありますか?」って聞いてきたんです。そしたら娘が急に笑い出して、「警察官もお父さんのこと、女性やと思うんやな」って。それまでずっと口を聞いてくれなかったんですが、それ以降は心を開いてくれて。 息子も今では「お父さんの生き方はかっこいいよ」って言ってくれます。受け入れてくれるのは嬉しいですね。――離婚はされましたが、家族としての形は変わらないと。今西 そうですね。博子さんや子どもたちが私を受け入れてくれたので、家族としてまた歩んでいくことになりました。だから本当に感謝しています。途中からお父さんが女性になるなんてなかなか受け入れられないことですよ。もう二度と会いたくないと言われてもおかしくないですから。 今こうやって家族として暮らして、博子さんとも夫婦の時と変わらずに支え合って生きていられるのは、本当に稀なケースだと思いますね。写真=山元茂樹/文藝春秋結婚10年目で“女性になりたい”と打ち明けたトランスジェンダー当事者(56)が直面した、周囲の反応「『あそこの社長おかまになったんやって』と噂が…」 へ続く(「文春オンライン」編集部)
――性別適合手術を受けたのは、離婚されてからでしょうか。
今西 そうです。46歳の春に、性別適合手術を受けて、名前も「文彦」から「千尋」に変えました。博子さんには事前に手術を受けることを伝えましたが、ショックだったと思います。
――お2人は離婚から9年後、養子縁組を結ばれました。その経緯を教えていただけますか。
今西 離婚した時の一番のネックは、子どもたちのことでした。男として子どもを作った責任を最後まで全うしたいという気持ちがあったので、金銭的にも精神的にもできる限りのことはしたいと思っていて。
それに、博子さんと離婚したからといって、家族としての関係が終了するというわけではなかったんです。夫婦としての関係ではないものの、お互いに支え合っていたし、必要な存在でした。もちろんカミングアウトした当初は、お互いに距離もできてしまったし、博子さんも私との関係をすごく悩んだと思います。 でも、離婚後、何年もかけて少しずつお互いを理解していく中で、やっぱりこれからもお互いに支え合いたいと思って。それで養子縁組を結ぶことに決めました。――性別を変えてからお子さん達との関係はいかがでしたか。今西 娘が小学校6年生の時に、たまたま一緒に警察署に忘れ物を取りに行く機会があって。警察官が、「お母様。身分証明書はありますか?」って聞いてきたんです。そしたら娘が急に笑い出して、「警察官もお父さんのこと、女性やと思うんやな」って。それまでずっと口を聞いてくれなかったんですが、それ以降は心を開いてくれて。 息子も今では「お父さんの生き方はかっこいいよ」って言ってくれます。受け入れてくれるのは嬉しいですね。――離婚はされましたが、家族としての形は変わらないと。今西 そうですね。博子さんや子どもたちが私を受け入れてくれたので、家族としてまた歩んでいくことになりました。だから本当に感謝しています。途中からお父さんが女性になるなんてなかなか受け入れられないことですよ。もう二度と会いたくないと言われてもおかしくないですから。 今こうやって家族として暮らして、博子さんとも夫婦の時と変わらずに支え合って生きていられるのは、本当に稀なケースだと思いますね。写真=山元茂樹/文藝春秋結婚10年目で“女性になりたい”と打ち明けたトランスジェンダー当事者(56)が直面した、周囲の反応「『あそこの社長おかまになったんやって』と噂が…」 へ続く(「文春オンライン」編集部)
それに、博子さんと離婚したからといって、家族としての関係が終了するというわけではなかったんです。夫婦としての関係ではないものの、お互いに支え合っていたし、必要な存在でした。もちろんカミングアウトした当初は、お互いに距離もできてしまったし、博子さんも私との関係をすごく悩んだと思います。
でも、離婚後、何年もかけて少しずつお互いを理解していく中で、やっぱりこれからもお互いに支え合いたいと思って。それで養子縁組を結ぶことに決めました。
――性別を変えてからお子さん達との関係はいかがでしたか。今西 娘が小学校6年生の時に、たまたま一緒に警察署に忘れ物を取りに行く機会があって。警察官が、「お母様。身分証明書はありますか?」って聞いてきたんです。そしたら娘が急に笑い出して、「警察官もお父さんのこと、女性やと思うんやな」って。それまでずっと口を聞いてくれなかったんですが、それ以降は心を開いてくれて。 息子も今では「お父さんの生き方はかっこいいよ」って言ってくれます。受け入れてくれるのは嬉しいですね。――離婚はされましたが、家族としての形は変わらないと。今西 そうですね。博子さんや子どもたちが私を受け入れてくれたので、家族としてまた歩んでいくことになりました。だから本当に感謝しています。途中からお父さんが女性になるなんてなかなか受け入れられないことですよ。もう二度と会いたくないと言われてもおかしくないですから。 今こうやって家族として暮らして、博子さんとも夫婦の時と変わらずに支え合って生きていられるのは、本当に稀なケースだと思いますね。写真=山元茂樹/文藝春秋結婚10年目で“女性になりたい”と打ち明けたトランスジェンダー当事者(56)が直面した、周囲の反応「『あそこの社長おかまになったんやって』と噂が…」 へ続く(「文春オンライン」編集部)
――性別を変えてからお子さん達との関係はいかがでしたか。
今西 娘が小学校6年生の時に、たまたま一緒に警察署に忘れ物を取りに行く機会があって。警察官が、「お母様。身分証明書はありますか?」って聞いてきたんです。そしたら娘が急に笑い出して、「警察官もお父さんのこと、女性やと思うんやな」って。それまでずっと口を聞いてくれなかったんですが、それ以降は心を開いてくれて。
息子も今では「お父さんの生き方はかっこいいよ」って言ってくれます。受け入れてくれるのは嬉しいですね。
――離婚はされましたが、家族としての形は変わらないと。
今西 そうですね。博子さんや子どもたちが私を受け入れてくれたので、家族としてまた歩んでいくことになりました。だから本当に感謝しています。途中からお父さんが女性になるなんてなかなか受け入れられないことですよ。もう二度と会いたくないと言われてもおかしくないですから。
今こうやって家族として暮らして、博子さんとも夫婦の時と変わらずに支え合って生きていられるのは、本当に稀なケースだと思いますね。
写真=山元茂樹/文藝春秋結婚10年目で“女性になりたい”と打ち明けたトランスジェンダー当事者(56)が直面した、周囲の反応「『あそこの社長おかまになったんやって』と噂が…」 へ続く(「文春オンライン」編集部)
結婚10年目で“女性になりたい”と打ち明けたトランスジェンダー当事者(56)が直面した、周囲の反応「『あそこの社長おかまになったんやって』と噂が…」 へ続く
(「文春オンライン」編集部)