「日焼けや夏バテだと思っていた」女性が26歳で指定難病に「不良品を渡して申し訳ない」と夫に泣きながら伝えた日

27歳のときに指定難病の全身性エリテマトーデス(SLE)を発症した梅津絵里さん。25歳で結婚し、保育士として働きながら、毎週末サーフィンを楽しんでいた幸せな日常が一変します。(全2回中の1回)
【写真】ムーンフェイスなどの副作用により治療中は容姿も変わってしまった梅津さん(全18枚)
── 25歳で結婚し、幼稚園教諭として働きながら毎週末サーフィンを楽しんでいた梅津さん。しかし、27歳のときに全身性エリテマトーデス(SLE・全身性エリテマトーデス:関節、腎臓、皮膚、粘膜、血管の壁に起こる慢性化炎症の自己免疫疾患)を発症すると生活が一変していきます。まず、SLEを発症したときの症状は覚えていますか?
梅津さん:今思えばSLEの特徴だったんですけど、鼻から両頬にかけて、蝶を広げたようなかたちをした皮膚の赤みが出ていたのと、腱鞘炎のような痛みや手のこわばり、倦怠感もありました。手が痛い理由はわからなかったけど、サーフィンが趣味なので顔の赤みは日焼けだろうと思っていたし、倦怠感も夏バテだと思ってとくに深刻に考えていなかったんです。でも、顔の赤みが全然ひかないので皮膚科を受診しました。そのときは炎症を抑える薬をもらいましたが、赤みがひくことはありませんでした。
── 当時は幼稚園教諭として働いていたそうですね。そうした症状によって、仕事や日常生活に支障が出ましたか?
梅津さん:何かを持つとき、たとえば子どもを抱っこしたときなどに、以前は感じなかった重みを手や腕に感じるようになりました。家ではお風呂のシャワーヘッドやペンを持つことさえ重く感じたんです。次第に食欲不振になり、口内炎もできて、倦怠感が増してきて。友達との予定を疲労でドタキャンせざるを得ないことが出てきたんです。整形外科も受診しましたが、ここでも炎症を抑える薬をもらって終わりでした。
その後、半年くらい経ったある日、旦那さんが内科のクリニックを受診する機会があったので、私も一緒に診察をしてもらったんです。そこで、初めて「膠原病(こうげんびょう)の疑いがある」と言われて、大きな病院で検査することになりました。
膠原病は自己免疫の異常によって血管や皮膚、関節、内臓など、全身の結合組織に炎症が起こる病気の総称だそうですが、「膠原病」という名前すらほとんど聞いたことがなかったので自分でも調べてみたんです。すると、膠原病のひとつに「全身性エリテマトーデス」(SLE)という病気があることを知って「これだ!」と。自分の症状にほとんど当てはまっていたので、きっとそうに違いないと思いました。
── 大学病院でさらに検査し、27歳のときに「全身性エリテマトーデス」(SLE)の診断名がつきました。また、SLEの合併症としてループス腎炎、シェーングレーン症候群も同時にわかったそうですが、医師から診断名を告げられたときはどう思いましたか?
梅津さん:「やっぱりこれだったか!」と診断名がついてホッとした気持ちと、同時に病気が確定したショックがありました。また、旦那さんにも私が病気になって申し訳ない気持ちもありました。1か月半程度入院することになって、退院後は1年近く療養生活になると言われたので、幼稚園教諭の仕事は退職しました。
入院中から薬の投与が始まると、ステロイドの副作用でムーンフェイス(満月様顔貌。顔に脂肪がつき丸くなる)の症状が出て、見た目が変わってしまった時期があるんです。まだ20代と若かったし、おしゃれやメイクも好きだったので、鏡を見ては落ち込んでいました。
── 1か月半の入院を経て日常生活は車椅子を使わずに歩ける状態で退院。しかし、身体が完全に回復したわけではなかったので、退院後は1年間の療養生活を送ることになりました。自宅ではどのように過ごしましたか?
梅津さん:家事をしながらゆっくり過ごしていましたが、もともと根がアクティブな性格なので、家の中でじっとしている生活にだんだん耐えきれなくなっていったんです。SLEは日焼けによって症状が悪化することがありますが、少しくらいは体を動かしたほうがいいだろうと自分で思い、くもりの日にときどき海に行ってサーフィンをすることがありました。
また、自分ができる範囲で仕事もしたくて、ハローワークで資格取得を目指すビジネススクールの講義に通って、社会復帰を考えていたんです。ハローワークの講義は朝9時から夕方4時まであって、家に帰ると家事をする日々。
その後、秘書検定を受けることになりましたが、試験当日、ちょうど私の28歳の誕生日の日に40度の熱が出てしまい、試験が受けられなかったんです。そこから数日熱が下がらず。医者に診てもらおうと病院を訪れましたが、担当の先生が不在だったため、簡単な検査だけして帰ることになりました。その後も熱が下がらなかったので、再度診てもらおうと病院に行ったところ、病院のソファーに倒れ込んでしまい、そのまま動けなくなりました。
── SLEが悪化したのでしょうか?
梅津さん:SLEが重症化したときに合併する、中枢神経ループスを起こしていました。そこから体の状態が一気にレベルダウンしてしまい、寝たきりに。大学病院に1年間入院しましたが、最初の半年は意識がずっと朦朧としていたし、目を開けても声を出すことが難しく、母親が作ってくれた文字盤で会話をしていました。旦那さんは毎日病院に来てくれたようですが、当時は旦那さんと認識できていたのか正直微妙です。この期間の記憶はほとんどありません。
入院から半年経ったころから意識が徐々にクリアになって、会話できるようになりましたが、知らない間に自分の誕生日が過ぎて、年も越していて、テレビの番組も変わっていて…浦島太郎のような気持ちでした。
また、意識が鮮明になったことで内省する時間が増えていき、「このまま一生寝たきりなのか」と落ち込んだし、「サーフィンをしていた幸せな日々はもう2度と戻ってこないんだ」と思うとつらかったですね。いっぽうで「リハビリを頑張ればなんとかなるんじゃないか」と希望を持ってもいたので、気持ちが上がったり下がったりしていたと思います。
── 大学病院に1年間入院したのち、リハビリ病院に転院してさらに5年間入院しました。転院したときはベッドで寝たきりの状態に近く、声が出しにくい、嚥下(飲み込み)も難しいといった状態だったとのこと。その後もリハビリをする日々が続きますが、旦那さんは変わらずお見舞いに来ていたそうですね。
梅津さん:旦那さんは私がリハビリ病院に転院することが決まると、家から病院まで遠くなったので、家を引っ越しして、病院の近くに家を借りてくれました。仕事をしていたので、面会時間の終了15分前でしたが、毎日駆けつけてくれました。顔を見るだけで安心できたし、本当に励みになりましたね。
── 大学病院に1年、リハビリ病院に5年、トータルで6年に及ぶ入院生活を過ごしましたが、入院生活はどう自分と向き合いましたか?
梅津さん:リハビリをして少しずつでも体がよくなったと感じる瞬間はうれしかったし、医療従事者の方々も親切にしてくださったと思います。仲よくなった方とは身体の話だけではなく、趣味や恋愛の話もすることもあって、リラックスできました。
いっぽうで子どもに話しかけるような感じで接してくる方もいて、実際オムツもしていたし、自分ひとりではできないことだらけではあったんですけど、ちょっと複雑な気持ちになりました。「絵里」という、自分のアイデンティティがなくなってしまったような気持ちになったことがあります。
── 旦那さんに対してどう思っていましたか?
梅津さん:毎日お見舞いに来てくれてありがたい反面、私のせいで旦那さんにも苦労をかけて申し訳ない気持ちでした。本来であれば今ごろ子育てをしながら、家族で楽しい時間を過ごしていたんじゃないかと思ってしまい、実際、旦那さんに「不良品を渡してしまったみたいで申し訳ない」と泣きながら伝えたことがあります。
── 旦那さんはなんとおっしゃっていましたか?
梅津さん:「健康な人でも幸せとは限らないから別に気にすることないし、俺が絵里を幸せにしたいし、引っ張っていくから安心して」って。旦那さんは自衛官として働いていますが、「私に申し訳ないなんて思ってほしくない。自分は自分で頑張る姿を絵里に見せたいから、仕事で幹部に昇格するための試験も受けて頑張りたい」と言っていました。夫の言葉を聞いて励まされたし、私も前を向いて頑張ろうと思えました。
── その後、2012年、34歳のときに退院して自宅に戻りました。
梅津さん:入院生活がかなり長かったので、とにかく家に帰って日常生活に戻りたいと思っていました。自宅に戻っても困らないように、入院中は車いすでの移動やトイレ動作、簡単な家事ができるようリハビリをしたし、自分でも頑張ったと思います。病気になってつらい日々が続きましたが、常に旦那さんや家族が寄り添ってくれたので、退院するときも心強かったです。

長期入院を経て、自宅で生活を送れるようになった梅津さんですが、生きがいを見出せない日々が続きます。そんなとき、旦那さんの転勤が決まり、福岡から東京へ移住することに。新たな環境での出会いを通して、同じように障がいを抱え、車いすで生活をする女性と「ビヨンドガールズ」というユニットを結成。ミュージカルやパラダンスにも挑戦しながら毎日を送っているそう。SLE発症から約20年。今は同じように障がいを持っている人たちを幸せにできることは何かを考え、日々たくさんのことにチャレンジしているそうです。
取材・文/松永怜 写真提供/梅津絵里