災害級のクマ被害でなぜ千葉県だけ安全なのか? 専門家が語る「ゼロではない」襲来ルート

’23年以降、日本列島はヒグマおよびツキノワグマによる「災害級被害」に見舞われている。環境省の統計によると、人身被害者数は統計開始以来、過去最多を記録した’23年度の219人を上回り、’25年11月末までに速報値で230人の被害が報告されているなど、危機的な状況が続いている。
とくに東北地方では、ブナなどの餌となる木の実の不作と、過疎化による里山と人里の境界線の消失が重なり、住宅街や学校周辺に出没する「アーバンベア化」が深刻だ。大型のヒグマが跋扈する北海道と合わせ、全国で警戒が続いている。
しかし、この全国的な脅威の中で、環境省が現在の形式で統計を始めた’06年から、約20年間にわたりクマによる被害が報告されていない県がある――。その一つが千葉県だ。ではなぜ、千葉にはクマがいないのか。千葉県に生息する哺乳類に詳しい県立中央博物館・研究員の下稲葉さやか氏は、千葉県にツキノワグマがいない根拠をこう解説した。
「千葉県には、ツキノワグマの捕獲記録、死体の発見、写真など、生息を示す直接的な証拠が一切ありません。生き物は昔からいれば絶滅しない限りそこにいますし、他の地域から来ても生息する場合がありますが、千葉県にはそのどちらのパターンもないんです」
さらに歴史を遡っても、クマの生息を示す記録は見当たらないと続ける。
「縄文時代の遺跡は千葉県に豊富にありますが、発掘される動物の骨からツキノワグマの全身の骨は出てきません。イノシシの骨は出てくるのに、クマの骨は装飾品として加工されたものしか見つからない。これは交易品として持ち込まれたと推測されるものであり、県内にクマがいた証拠にはならないんです。明治時代以降の市町村史などの文献を調べても、1920年代までの記録には、クマの記述は見当たりません」
千葉県がかつて島だったためにクマが来なかったという言説もあるが、下稲葉氏はこれを否定する。
「たしかに約12万年前など、房総丘陵の南側だけが陸地だった時代はありますし、縄文時代も海水面の上昇で本土へつながる陸地が現代より狭まっていた時期はありました。しかし、その後の時代は陸続きになっている。クマがいない理由の一つとして地理的事情を挙げることは可能ですが、それが“すべて”ではないんです」
ツキノワグマは泳ぎが得意で、数キロ幅の利根川でも渡る能力がある。では、なぜ千葉に入ってこないのか。
「クマは身を隠せる薮を好むため、川沿いはむしろ移動に適しています。川が侵入を防いでいるのではなく、単純にそこまで辿り着けていないからです」
千葉に隣接する東京、埼玉、茨城の状況を見ると、ツキノワグマの生息域(東京・奥多摩、埼玉・秩父など)は千葉から遠く離れている。
「これらの生息域から千葉に来るには、間に市街地が広がっています。クマは基本的に身を隠して動きたい生き物ですから、人口密度の高い都市部を通り抜けるのは困難。来る前に人に見つかり、捕獲されてしまう可能性が高いのです」
現在、千葉に最も近いツキノワグマの生息地は栃木県南部であり、県境は隣接していない。この物理的な距離と、間に広がる市街地が「最強の防御壁」となっているわけだ。では、千葉は永遠に安泰なのか?
「千葉県南部の房総丘陵には、クマの餌となるシイなどのドングリをつける照葉樹林帯が広がっており、潜在的にツキノワグマが生息してもおかしくない環境といえます。ただし、多くの個体数を永続的に養える広大さがあるかというと、未知数です。
警戒すべきエリアは、すでにクマが目撃されている栃木県佐野市など足尾山地の南端から比較的近い利根川沿い。佐野市から利根川までは距離があり、間に市街地もありますが、クマの行動は予測できないし、数十キロ歩くなど、身体能力は高い。万一、利根川沿いを身を隠しながら南下し、江戸川との分岐点より先に迷い込むような偶発的な個体が出現する可能性は、大変低いと思いますがゼロではないでしょう」
千葉県民にとって、当面は安心できる状況が続くものの、全国のクマの生息域拡大や生態行動の変化を考えれば、いつ「最強の防御壁」が破られるか、予断を許さない状況が続きそうだ。