50代で認知症になった夫を介護する69歳・佐代子さん。「娘から『箱入り奥さん』と言われるほど大事にしてくれた夫。勉強と工夫を重ねての彼の介護は決して大変ではなかった」

厚生労働省の発表によれば、男性の平均寿命は81.47年、女性の平均寿命は87.57年(2022年度)と、いずれも40年前から、9歳程度伸びたことになります。一方、介護保険制度における要介護又は要支援の認定を受ける人の数も増え、2018年度末で645.3万人に。この数は2009年度末(469.6万人)から175.6万人増えており、当然、その中には認知症の人も多く含まれていると予想されます。19年に渡って認知症の母を在宅介護している岩佐まりさんが、若年性アルツハイマーの夫を長く在宅介護してきたという佐代子さん(69歳)に話を聞きました。
【写真】古希を祝い記念の一枚。岩佐まりさんとお母さん* * * * * * *知識が力になると信じて(夫が58歳のときに、認知症の診断を受けて)恥ずかしい話ですけど、私は診断が下ってから3か月くらいは落ち込みっぱなしだったんです。ずっとお腹の調子がおかしくて、一時期は体重が40キロを切りました。どうせ治らないのだから、本を読んで勉強した時間なんて無駄だったとも考えましたよ。当たり前ですけど、夫も不安だったみたいです。それまで一度も涙を見せたことがなかったのに、「僕はこれからどうなるんだろう」と言って泣いたこともありました。だから、私も落ち込んでばかりはいられない。食欲がなくても3食しっかり食べて、日に一度は外出するようにしてみたら、まもなく立ち直りました。 夫には、「私はいつもそばにいるよ。困ったことがあったら何でも私に聞いて。あなたが心配することは何もないからね」と言い続けました。知識が力になると信じたんです。慌てずに済んだのは、勉強をしていたおかげ夫は、診断が下りた翌年に、責任が重くない仕事に変わりました。そうしている間も少しずつ症状は進んでいったのですが、本を読んでいたおかげで、この先どういう症状が現れるかをある程度予測できたのは助かりました。たとえば夫は毎日散歩に行っていたのですが、ある日私の携帯に電話が来て、「帰り道がわからなくなった」と。『認知症介護の話をしよう』(著:岩佐まり/日東書院本社)でも私は、いずれそういう症状が現れると覚悟していましたから、事前のシミュレーション通りにしたんですね。「周りに何が見えるかを教えて。私が迎えに行くから動かないでね」と。私は無事夫を見つけ、それ以降の散歩は私も付き添うようにしました。もちろん、辛いですよ。症状が進む一方で、よくはならないのは。ただ、診断のときを除いて慌てずに済んだのは、勉強をしていたおかげでした。家族会の力も借りて夫は60歳で定年だったのですが、1年だけアルバイトとして仕事を続け、しかしやっぱり厳しいということで61歳で仕事を辞めました。退職後、話し相手が私だけではまずいと思い家族会に入りました。そこで勧められた要介護認定を受けて介護保険が使えるようになったので、デイサービスも利用しました。明るい雰囲気のところを探してね。そこはトレーニング施設があったのですが、夫は施設の人と、何回腕立て伏せができるか競争した、なんて言っていましたから、楽しかったんでしょう。要介護認定のときは調査員の方が来ると元気になってしまって認定が下りないケースが多いみたいですが、私はそういう話も家族会で聞いていたので、あらかじめ準備をしておいたんですね。紙に、何ができて何ができないかを書き出しておいて、そっと調査員に渡すんです。紙に書くのは、本人に知られずに調査員だけに伝えるためです。客観的な自分の状態を知るとショックを受けますからね。そういう、本にはない情報を知ることができたのは家族会のおかげです。クリスマスを一緒に過ごす記事の著者・岩佐まりさん(左)と認知症のお母さん(写真提供:著者)考えることで解決することも少なくない認知症が進むにつれいろいろな症状が出てきましたが、認知症の人の行動にもちゃんと理由があるんですよね。夜中に起き出してトイレに行こうとする行動が目立った時期には、夫のベッドからトイレまでの道順に明かりが灯るようにしました。トイレのドアは開けておきます。すると、明かりに導かれてひとりでトイレに入ってくれるんです。そのうち、夫はひとりでトイレに行けなくなりました。なので私は夫の布団の下に、夫が起き上がるとブザーが鳴るセンサーを置き、夫が起きると私も目が覚めるようにしました。このブザーはケアマネージャーに教えてもらったもので、月数百円で借りられましたよ。トイレに連れて行ってもうまく用を足せず、トイレをびしゃびしゃにしてしまうこともありました。そういう失敗が毎日のように続くので、私は眠れずに困りはててしまったんですが、まもなくわかったんです。失敗の原因は私でした。夫をトイレに連れて行く間「もうちょっとでトイレだから我慢してね」と言い続けていたのが、かえってまずかったんです。「我慢してね」を言わずに連れて行くだけで、失敗することもなくなりました。よく考えることで、解決する。認知症介護では、そういうことは少なくありません。たくさんの工夫に支えられて施設に入るまでは、基本的にひとりで介護をしていました。夫は、困ることはしない人でしたから。症状はだんだん進んでいきますね。徘徊が心配になる頃になると、私は自宅の玄関を「玄関には見えないように」して、夫が外に出ないようにしていました。玄関に絵を飾って花を置き、さらにレースのカーテンをすると、夫はそこが玄関だと思いませんから、一度もひとりで外には出ませんでしたよ。それに、外に出ようとするのにも理由があるんです。娘が来たときの話ですが、女同士だから、話が弾みますよね。ずっとおしゃべりに興じていると、ふと、夫がなにか不満げな表情をしていることに気付いたんです。おや、ちょっとまずいなと思っていると、夫は靴を探しはじめました。のけ者にされたと感じて、外に出ようと思ったんですね。外出したがる理由はそれだけではありませんが、この出来事以降は夫も話の輪に加われるようにしました。食事もだんだん難しくなりました。お茶碗を持てなくなったり、同じ場所にあるおかずばかり食べてしまったりね。なので、食器を机に置いたまま食べられるように、シリコン製のテーブルマットを買いました。マットの上でお皿が滑らないから、お皿を持たずにすくえるんです。お皿も中の食べ物をすくいやすい形状のものに替えました。それと、夫が食べている間は定期的にお皿の位置を変えるんです。すると、同じ場所のものばかりとってしまっても、まんべんなく食べ終わるというわけです。ただ、ひとりで介護したと言っても、私が孤独だったわけではないですよ。子どもたちもいたし、家族会にも行っていました。症状が進んでからは、月2回、3泊4日のショートステイも使っていましたね。友達にも助けてもらいました。私、友達は多くはないんですけれど、その分、きっと深い付き合いができていたんですね。特に、長男の同級生のお母さんにはよく電話をして、いろいろな相談に乗ってもらいました。振り返っても、そこに夫がいないのはとても寂しい2019年に夫が施設に入った頃には、要介護5になっていて、意思の疎通もギリギリでした。でも施設に入れた理由はそれらではありません。もともと小柄な私が介護で背中を痛めてしまい、大きな夫を支えきれなくなってきて、このままでは共倒れの危険があると考えたからです。もちろん、ものすごく悩みましたよ。やっぱり家で看てあげたいですから。でも、末っ子たちの子育ても手伝いたかったし、90歳になる母にも会いに行きたかった。私は18歳で家を出て以来、母にはたまにしか会えていませんでしたから。夫の介護以外にもやりたいことがあったんです。お世話になっていたケアマネージャーさんが「日本人は家で介護するのが美徳だと思っているけれど、それは違う。僕は妻に介護してもらおうとは思わない」と言ってくれたことにも背中を押されました。こうして夫は、特別養護老人ホームに入りました。それまでも使っていたデイサービスの系列の施設だったので、夫が不安がることもなく入所できました。施設に入って少ししてから、夫が夜中に大声を出すので向精神薬を飲ませたいと施設から言われたのですが、私は躊躇しました。認知症の進行を抑えるために夫に飲ませていたアリセプトの副作用を疑ったからです。それも家族会で聞いた情報でしたが、アリセプトをやめたら案の定、静かになったそうです。お医者さんには、夜中に騒いでしまったのは家を離れたことへの反応かもしれないとも言われました。寂しいのかもしれませんね。本当に、いい夫です。私を大事にしてくれて、娘にも「『箱入り奥さん』だね」と言われるくらい。そんな夫の介護は大変ではなかったですよ。今は、夫に感謝しています。「ねえ」と振り返っても、そこに夫がいないのはとても寂しいですね。※本稿は、『認知症介護の話をしよう』(日東書院本社)の一部を再編集したものです。
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(夫が58歳のときに、認知症の診断を受けて)恥ずかしい話ですけど、私は診断が下ってから3か月くらいは落ち込みっぱなしだったんです。
ずっとお腹の調子がおかしくて、一時期は体重が40キロを切りました。どうせ治らないのだから、本を読んで勉強した時間なんて無駄だったとも考えましたよ。
当たり前ですけど、夫も不安だったみたいです。それまで一度も涙を見せたことがなかったのに、「僕はこれからどうなるんだろう」と言って泣いたこともありました。
だから、私も落ち込んでばかりはいられない。食欲がなくても3食しっかり食べて、日に一度は外出するようにしてみたら、まもなく立ち直りました。
夫には、「私はいつもそばにいるよ。困ったことがあったら何でも私に聞いて。あなたが心配することは何もないからね」と言い続けました。知識が力になると信じたんです。
夫は、診断が下りた翌年に、責任が重くない仕事に変わりました。
そうしている間も少しずつ症状は進んでいったのですが、本を読んでいたおかげで、この先どういう症状が現れるかをある程度予測できたのは助かりました。たとえば夫は毎日散歩に行っていたのですが、ある日私の携帯に電話が来て、「帰り道がわからなくなった」と。
『認知症介護の話をしよう』(著:岩佐まり/日東書院本社)
でも私は、いずれそういう症状が現れると覚悟していましたから、事前のシミュレーション通りにしたんですね。「周りに何が見えるかを教えて。私が迎えに行くから動かないでね」と。私は無事夫を見つけ、それ以降の散歩は私も付き添うようにしました。
もちろん、辛いですよ。症状が進む一方で、よくはならないのは。ただ、診断のときを除いて慌てずに済んだのは、勉強をしていたおかげでした。
夫は60歳で定年だったのですが、1年だけアルバイトとして仕事を続け、しかしやっぱり厳しいということで61歳で仕事を辞めました。
退職後、話し相手が私だけではまずいと思い家族会に入りました。そこで勧められた要介護認定を受けて介護保険が使えるようになったので、デイサービスも利用しました。明るい雰囲気のところを探してね。
そこはトレーニング施設があったのですが、夫は施設の人と、何回腕立て伏せができるか競争した、なんて言っていましたから、楽しかったんでしょう。
要介護認定のときは調査員の方が来ると元気になってしまって認定が下りないケースが多いみたいですが、私はそういう話も家族会で聞いていたので、あらかじめ準備をしておいたんですね。紙に、何ができて何ができないかを書き出しておいて、そっと調査員に渡すんです。
紙に書くのは、本人に知られずに調査員だけに伝えるためです。客観的な自分の状態を知るとショックを受けますからね。そういう、本にはない情報を知ることができたのは家族会のおかげです。
クリスマスを一緒に過ごす記事の著者・岩佐まりさん(左)と認知症のお母さん(写真提供:著者)
認知症が進むにつれいろいろな症状が出てきましたが、認知症の人の行動にもちゃんと理由があるんですよね。
夜中に起き出してトイレに行こうとする行動が目立った時期には、夫のベッドからトイレまでの道順に明かりが灯るようにしました。トイレのドアは開けておきます。すると、明かりに導かれてひとりでトイレに入ってくれるんです。
そのうち、夫はひとりでトイレに行けなくなりました。なので私は夫の布団の下に、夫が起き上がるとブザーが鳴るセンサーを置き、夫が起きると私も目が覚めるようにしました。このブザーはケアマネージャーに教えてもらったもので、月数百円で借りられましたよ。
トイレに連れて行ってもうまく用を足せず、トイレをびしゃびしゃにしてしまうこともありました。そういう失敗が毎日のように続くので、私は眠れずに困りはててしまったんですが、まもなくわかったんです。失敗の原因は私でした。
夫をトイレに連れて行く間「もうちょっとでトイレだから我慢してね」と言い続けていたのが、かえってまずかったんです。「我慢してね」を言わずに連れて行くだけで、失敗することもなくなりました。
よく考えることで、解決する。認知症介護では、そういうことは少なくありません。
施設に入るまでは、基本的にひとりで介護をしていました。夫は、困ることはしない人でしたから。
症状はだんだん進んでいきますね。徘徊が心配になる頃になると、私は自宅の玄関を「玄関には見えないように」して、夫が外に出ないようにしていました。玄関に絵を飾って花を置き、さらにレースのカーテンをすると、夫はそこが玄関だと思いませんから、一度もひとりで外には出ませんでしたよ。
それに、外に出ようとするのにも理由があるんです。娘が来たときの話ですが、女同士だから、話が弾みますよね。ずっとおしゃべりに興じていると、ふと、夫がなにか不満げな表情をしていることに気付いたんです。
おや、ちょっとまずいなと思っていると、夫は靴を探しはじめました。のけ者にされたと感じて、外に出ようと思ったんですね。外出したがる理由はそれだけではありませんが、この出来事以降は夫も話の輪に加われるようにしました。
食事もだんだん難しくなりました。お茶碗を持てなくなったり、同じ場所にあるおかずばかり食べてしまったりね。
なので、食器を机に置いたまま食べられるように、シリコン製のテーブルマットを買いました。マットの上でお皿が滑らないから、お皿を持たずにすくえるんです。お皿も中の食べ物をすくいやすい形状のものに替えました。
それと、夫が食べている間は定期的にお皿の位置を変えるんです。すると、同じ場所のものばかりとってしまっても、まんべんなく食べ終わるというわけです。
ただ、ひとりで介護したと言っても、私が孤独だったわけではないですよ。子どもたちもいたし、家族会にも行っていました。症状が進んでからは、月2回、3泊4日のショートステイも使っていましたね。
友達にも助けてもらいました。私、友達は多くはないんですけれど、その分、きっと深い付き合いができていたんですね。特に、長男の同級生のお母さんにはよく電話をして、いろいろな相談に乗ってもらいました。
2019年に夫が施設に入った頃には、要介護5になっていて、意思の疎通もギリギリでした。
でも施設に入れた理由はそれらではありません。もともと小柄な私が介護で背中を痛めてしまい、大きな夫を支えきれなくなってきて、このままでは共倒れの危険があると考えたからです。
もちろん、ものすごく悩みましたよ。やっぱり家で看てあげたいですから。でも、末っ子たちの子育ても手伝いたかったし、90歳になる母にも会いに行きたかった。私は18歳で家を出て以来、母にはたまにしか会えていませんでしたから。夫の介護以外にもやりたいことがあったんです。
お世話になっていたケアマネージャーさんが「日本人は家で介護するのが美徳だと思っているけれど、それは違う。僕は妻に介護してもらおうとは思わない」と言ってくれたことにも背中を押されました。
こうして夫は、特別養護老人ホームに入りました。それまでも使っていたデイサービスの系列の施設だったので、夫が不安がることもなく入所できました。
施設に入って少ししてから、夫が夜中に大声を出すので向精神薬を飲ませたいと施設から言われたのですが、私は躊躇しました。認知症の進行を抑えるために夫に飲ませていたアリセプトの副作用を疑ったからです。
それも家族会で聞いた情報でしたが、アリセプトをやめたら案の定、静かになったそうです。
お医者さんには、夜中に騒いでしまったのは家を離れたことへの反応かもしれないとも言われました。寂しいのかもしれませんね。
本当に、いい夫です。私を大事にしてくれて、娘にも「『箱入り奥さん』だね」と言われるくらい。そんな夫の介護は大変ではなかったですよ。
今は、夫に感謝しています。「ねえ」と振り返っても、そこに夫がいないのはとても寂しいですね。
※本稿は、『認知症介護の話をしよう』(日東書院本社)の一部を再編集したものです。