日が暮れた都心のオフィス街の一角で、街路樹の下にパイプ椅子を設置し、夜通し座り続けている高齢女性がいる。防寒具に身を包んだ酒井幸子さん(79)は、イチョウの木を愛おしそうに眺めながら言う。
「小さい頃から親しんだイチョウを、何としても守りたい。過去の人の思いを子供たちに残していただきたいのです。個人的なことですけど、物心ついたころからずっとこのイチョウがあって、私以外の人もこの木を目指して出勤して復興してきた街です。昔はお祭りを軸として町会があり、特に戦後は町会単位で助け合わないと発展しなかった。今は町会に対する意識が薄くなっていること自体は仕方がないと思いますが、イチョウの伐採については誰も知らないところで決まってしまい、そのプロセスがおかしいと思う。だから伐採は納得できません」
酒井さんの座り込みは、昨年4月下旬にはじまり、中断した時期も挟みながら1年2ヵ月が経とうとしている今も終わる気配を見せない。氷点下まで冷え込んだ今年の冬もイチョウの木の前で“座り込み”を続けた。酒井さん以外の同志も多い時は20人ぐらい集い、イチョウの木を見張る。東京のど真ん中でなぜこんなにらみ合いが続いているのだろうか。
それは、東京都千代田区の神田駅から皇居近くの共立女子大前を結ぶ1.4キロの「神田警察通り」を舞台とした、再開発によるイチョウ並木の伐採の是非をめぐる騒動が理由だ。区は歩道拡張のため関東大震災を機に植樹された街路樹のイチョウの木を切る計画を発表。伐採に反対する一部住民は工事を阻止するため、夜通しの座り込み行動を行っており、4月11日には警備員と小競り合いにもなった。
コトの発端は、12年前までさかのぼる。千代田区は’11年、再開発計画として「神田警察通り沿道まちづくり整備構想」を策定。町内会長らが参加する「神田警察通り沿道整備推進協議会」を設置し、’22年まで20回の議論を重ねてきた。その結果、道路の一部区間で現存するイチョウ32本のうち30本を伐採し、2本を別の場所に移植した上で、新しくヨウコウザクラ39本を植えることが決められた。区は’20年12月の時点で伐採方針を決めていた。
だが、イチョウ並木の伐採は不合理であるとして、反対する住民たちが「神田警察通りの街路樹を守る会」を結成した。代表の滝本幾子さん(73)はこう語る。
「私は’21年12月に町会(町内会)の会議で町会長から話を聞き、伐採計画を初めて知りました。工事自体は早く進んだ方がいいと考えています。ただ、今あるイチョウの木は街路樹として十分素晴らしいのだから、切る必要はない。そんな無駄なことはしないでほしい」
滝本さんが伐採計画を知る2年前の’19年12月、千代田区は沿道住民を対象にアンケート調査を実施。4704通を配布したが解答率は14.5%だった。住民にとってはその当時、それほど関心が高いテーマとは言えなかった。
その8ヵ月後の’21年8月、区は伐採方針についてホームページで周知したが、区の担当者は「ホームページに掲載したが、広報など紙での情報発信はしていない。足らざるものがあった」と述べ、住民への周知が不十分だったとした。
それでも約2ヵ月後の’21年10月、工事契約議案は議会で可決された。イチョウが伐採されることを知った地域住民が区に対して説明を求めたため、住民説明会が行われた。’22年4月には伐採賛成派と反対派で話し合いの場を設けたが、議論は平行線となり、打ち切られた。その後、「守る会」は街路樹の保存を求める陳情を提出したが否決され、区は工事に着手。反対派住民は座り込みを開始したものの、4月26日夜には2本のイチョウが伐採された。
しばらく工事は中断されていたものの、今年2月6日、新たに4本の木の伐採が始まったため、「守る会」は“木を守る活動”としてイチョウの木の下にパイプ椅子を設置し、座り込み行動を再開した。4月11日早朝には警備員との間で小競り合いが起き、救急車が出動する騒動となった。
区側は
「双方の一致点を見出すことはできず、また『守る会』等の工事に反対する一部の方々による妨害行為もあり、工事が進められない状況になりました。その後、工事に反対する一部の方から、損害賠償請求訴訟、住民訴訟が提訴されるなど、双方が歩み寄るかたちで工事を行うことは難しいものと判断するに至りました」
と説明。救急車が出動した状況については、
「工事の反対者の体当たりなど暴力的な妨害行為により、警備員と区職員の2名が転倒させられ負傷する事案が発生しました。警備員は全治4~6週間の重傷で、区職員は軽傷を負っています」
と説明した。区の発表に基づいて報じるニュース記事も流れた。
だが、「守る会」によると区の説明は事実無根だという
「こちらからは、誰も警備員に体当たりなどはしていません。完全なでっち上げです。むしろ、私たちのほうが警備員に突き飛ばされて、2名の住民が負傷しました」
イチョウへの思い入れが強くある人がいる一方、伐採賛成派からは以下のような声もある。
「60年以上住んでおり、個人的な意見を言わせてもらうとイチョウは邪魔と感じている。ものすごい量の葉っぱが落ち、雨が降れば落ち葉で排水溝が詰まり水たまりができるし、人も車も滑って危険」
「多数の委員の方たちと決めたことが、なぜ少数の意見で中断されるのか分からない」
警察通りの再開発は、全体を5つの区間(鬼、挟、郡、鹸、拘)に分けて行われる。工事を推進することについて、区長はこう説明している。
「多くの方々からの『狭い歩道を、子どもも、お年寄りも、障がいをお持ちの方も、自転車の方も、ベビーカーの方も、誰もが安全にそして安心して通行できる歩道にしてほしい』とのご要望やイチョウの植替えを求めるご意見をいただく中で、計画立案に至ったものです。商売をされている区民の皆様からも、早期に整備工事を遂げてほしいとの要望をいただいているものです」
議論は尽くしたとの考えで、工事を遅らせることはできないと判断した。
「これ以上工事を遅らせることは、歩行者の安全確保への支障や更なる経費の増大、神田駅方面の郡以降の工事の大幅な遅延を招くことになるため、区道の整備における公共の利益を優先する立場から、作業を実施したものです」
「守る会」は、4月11日に発生した、警備員と守る会に所属する住民の間で起きた小競り合いについて、区側の報道の訂正や謝罪を求めており、7月に予定される千代田区の「環境まちづくり委員会」で審議される見通しとなった。都市開発の合意形成はどうあるべきか、難しい問題である。酒井さんが夜にイチョウの木の下で座り込む必要がなくなる日は訪れるのだろうか。