客が理不尽な要求やクレームをつけるカスタマーハラスメントが問題となるなか、コンビニや居酒屋など、働く人の名札は必要なのかという疑問が共有されるようになった。気軽に利用できるようになったネット、とくにSNSで徒に拡散される危険のほうが、社会問題となっているからだ。そのため旅客自動車運送事業では、業務の責任の所在をはっきりさせるために行っていたフルネーム掲示が義務ではなくなった。市井の人々の「日常」の変化を記録し続けている日野百草氏が、責任とプライバシー保護のバランスが変化した結果、タクシードライバーたちに何が起きていたのかを聞いた。
【写真】都内を走るタクシー * * *「私自身は困った経験はありませんが、歓迎するドライバーは多いと思いますよ」 都心を流していた個人タクシー、新宿から多摩方面へ向かう車内で8月1日に廃止となった「乗務員の氏名掲示義務」について尋ねる。「実際、ネットで名前をさらされた仲間もいますからね」 今回の「道路運送法施行規則等の一部改正」は乗務員(ドライバー)のプライバシーを守ることに主眼が置かれている。以下、国交省発表を引く。〈バス・タクシー・自家用有償旅客運送において、車内での乗務員等の氏名などの掲示義務を廃止します。引き続き旅客の利便の確保を図りつつ、乗務員等のプライバシーにも配慮し、安心して働ける職場環境の整備を促進します〉 とのことで、近年の一部外資系店舗や大手チェーン店などで導入されている名札の「仮名やニックネーム」という流れに沿ったものである。やはりネットでさらされることはあるのか。「いるみたいですね。一般人が実名でさらされるなんて、気持ちのいいものじゃないでしょうけどね」嫌がるドライバーの気持ちはわかる 日常生活を脅かされかねないネットにおける「さらし行為」、これはドライバーはもちろん、小売や飲食といった「名札」に本名が記載され続けた業界に顕著であった。筆者も以前『接客業の名札は本名であるべきなのか 好きな名前選ばせるコンビニもある』で書いたが、そもそも店員が本名を出す意味があるのか。「命をあずかる立場ですから、私は本名でも構わないと思いますが、嫌がるドライバーはいるでしょうね。その気持ちはわかりますよ。責任者でもなければコンビニとか、店員さんの名前なんていらないと個人的には思いますけど」 コンビニでは女性アルバイトが「珍しい名前なのでネットで検索されました」「名前を知られてつきまとわれました」といった意見もあった。いわゆるクレーマーだけでなく、ストーカー行為やいたずらといった問題もある。これは職業ドライバー、とくに不特定多数の人を営業で運ぶバスやタクシーも同様の問題を抱えてきた。 国土交通省は8月付の『道路運送法施行規則等の一部を改正する省令案に関するパブリックコメント』においてこう回答している。〈昨今のSNS等の普及により、掲示された乗務員等の氏名等が写真に撮られ、インターネット上にさらされるといった事案が見られるようになり、制定当時には想定されていなかった運転者のプライバシーの侵害が問題となっていることを受け、車内における表示の在り方を見直すものです〉〈表示が義務付けられている事項から、氏名等を削除するという措置を講じるもので、事業者が氏名等の掲示を続けることを妨げるものではありませんが、各事業者においては、運転者等が安心して働ける環境の整備の推進に取り組んでいただきたいと考えています〉〈バスにおいては自動車登録番号を、タクシーにおいてはそれに加えて法人タクシーについては運転者番号、個人タクシーについては許可番号を表示することにより、引き続き運転者の特定が可能となる措置を講じております〉 これに対してパブリックコメントでは賛成意見が多いようだ。回答同様、わかりやすい意見が並ぶのでこちらも少し長いが賛成意見を一部、以下に引用する。〈近年は、インターネットや SNS の発達で氏名のみでも個人情報を容易に取得できたり、誰でも写真や動画をインターネットに投稿できるようになったことで、乗務員の氏名や容貌を勝手にインターネット上に投稿されたりして、乗務員のプライバシーが侵害される事案が増えていることからも、名札の廃止は適当だと思います。また、乗客が乗務員に対して、「個人情報を流出させるぞ」などと脅し、不当な要求をしてくる、いわゆるカスタマーハラスメントを阻止するためにも、名札の廃止は必要だと思います。名札の存在が、乗務員の弱みにつけ込んだカスタマーハラスメントを助長させている側面もあると思います〉〈私自身珍しい姓を名乗っており、姓からだけでも出身地や居住地、門地等がインターネットで容易に検索できてしまいます。今回の改正が他の産業にも広がることを強く望んでおります〉〈乗務員は常に制服や胸名札を着けており、何も疑念を抱くものはない。運転や接客マナー一つで揚げ足取る風潮がある昨今において、名札掲示があるだけでも乗務員側もプレッシャーがかかり安全運転に支障が出ると思う。何かあればのために車両番号や連絡先の掲示で充分と考える〉 こうした意見が並ぶが、もちろん異論として〈女性個人タクシー運転手です。乗務員証や事業者乗務証が無くても簡単に運転手の顔写真などは撮影されてしまいます。そして○○タクシーの△△号車の可愛い運転手さん等とアップ出来ます〉といったプライバシーをもっと守る方向に改正すべき、という意見や、運転手に非があるとして〈もっとはっきり表示させる必要がある〉、〈運転手のプライバシー以前に、運転手の責任が問われるべき〉といった反対意見もある。それでも8月1日で「乗務員の氏名掲示義務」は廃止、以前のような実名をさらして走る必要はなくなった。昔のようには稼げない「時代が変わったんでしょうね。昔は『近セン怖い』だったのが、『ネット怖い』になった」(前出の個人タクシー運転手) 彼の言う「近セン」とは「東京タクシー近代化センター」のことで、筆者もこの名前のほうが馴染む。2002年からは現在の東京タクシーセンター、いわゆる「タクセン」となった。簡単に言えば、タクシーの苦情を受け付ける機関である。「昔はひどいドライバーもいましたからね、それは私もよくわかりますよ」 確かに昭和の時代のタクシードライバーは今では信じられないような人がいた。筆者の子ども時代も千葉の田舎の話だが入れ墨をシャツからちら見せで雪駄履きのドライバーとか、明らかに酒臭いドライバーとか本当に存在した。もちろん一部ではあるが、ありえないほど遠回りでメーターを稼ぐ、歩行者や自転車にクラクションを鳴らしまくる、「そんな近いとこ歩け」と乗車拒否する、などなど筆者の経験でも1980年代くらいまでだろうか、こうした運転手が存在した。「いましたね、懐かしい。煙草吸いながらラジオでナイター鳴らしてね、もうあんなのはいませんけどね」 笑いながら答えてくれたがもっと前、1970年の「タクシー業務適正化特別措置法」以前などは今で言う白タク行為が平然と行われていた。そういう時代からさまざまな改正を経て現在に至るが、ついにあのおなじみの「乗務員の氏名掲示義務」が廃止される。もちろん各事業所の判断だが、多くは施行通り「氏名掲示廃止」となるだろう。「タクシードライバーになりたいという人も減ってますからね。そっちの対策もあると思いますよ」 タクシードライバーは年々減っている。先の東京タクシーセンターによれば東京23区と一部多摩地域の法人タクシー運転者数は4万9930人、1970年の統計開始からもっとも低い数字となり、初めて5万人を切った。ずっと下り坂だったがコロナ禍が追い打ちとなった格好で、この国の少子化と人口減でなり手が減っているだけでなく高齢ドライバーが続々と引退といった状態が続いている。 2022年の改正道路交通法でタクシー運転手の年齢が21歳以上から19歳以上に緩和されたが、それがドライバー増につながるかは不透明だ。「いまどき若いうちからタクシードライバーになろうなんてわずかですよ。私の息子たちを見たって同じ仕事につこうなんて思わない。私だって勧めませんでした」 彼いわく「もう昔のようには稼げない」「不規則、不安定、重労働」「仕事のイメージ」とのことで、あくまで私見とはいえ業界の厳しい内情がうかがえる。それでも今回の「乗務員の氏名掲示義務」はこれまでにない画期的な改正のように思う。 タクシードライバーだけでなくバスの乗務員にとっても「ようやく」といった声がある。4月、秋田県のバス会社が地元新聞に「その苦情、行き過ぎじゃありませんか?」と題した意見広告を掲載したことが話題となった。〈近年、些細なことで理不尽なクレームや過度な要求をするお客様がおられます。確かに、当方に非があり、お詫びする場合もありますが、社内外のドライブレコーダーで確認し、非がないことをお伝えしても一方的に攻撃されます。(中略)お客様と社員は対等の立場であるべきで、お客様は神様ではありません。今後、理不尽なクレームや要求には、毅然とした対応を取り、場合によっては乗車をお断りいたします〉 この内容がSNSを中心に拡散され、多くの賛同があった。クレーマーはごく一部、ストーカーもごく一部だが、そうした「ごく一部」が大多数のために日夜働く人々を苦しめる、同時に利用者も苦しめる。この国のタクシードライバーの減少、バス路線の廃止が続く中、今回の「乗務員の氏名掲示義務」の廃止も含め、労働者のため、一般乗客のための施策が今後も進められるだろう。【プロフィール】日野百草(ひの・ひゃくそう)日本ペンクラブ会員。出版社勤務を経てフリーランス。社会問題、社会倫理のルポルタージュを手掛ける。
* * *「私自身は困った経験はありませんが、歓迎するドライバーは多いと思いますよ」
都心を流していた個人タクシー、新宿から多摩方面へ向かう車内で8月1日に廃止となった「乗務員の氏名掲示義務」について尋ねる。
「実際、ネットで名前をさらされた仲間もいますからね」
今回の「道路運送法施行規則等の一部改正」は乗務員(ドライバー)のプライバシーを守ることに主眼が置かれている。以下、国交省発表を引く。
〈バス・タクシー・自家用有償旅客運送において、車内での乗務員等の氏名などの掲示義務を廃止します。引き続き旅客の利便の確保を図りつつ、乗務員等のプライバシーにも配慮し、安心して働ける職場環境の整備を促進します〉
とのことで、近年の一部外資系店舗や大手チェーン店などで導入されている名札の「仮名やニックネーム」という流れに沿ったものである。やはりネットでさらされることはあるのか。
「いるみたいですね。一般人が実名でさらされるなんて、気持ちのいいものじゃないでしょうけどね」
日常生活を脅かされかねないネットにおける「さらし行為」、これはドライバーはもちろん、小売や飲食といった「名札」に本名が記載され続けた業界に顕著であった。筆者も以前『接客業の名札は本名であるべきなのか 好きな名前選ばせるコンビニもある』で書いたが、そもそも店員が本名を出す意味があるのか。
「命をあずかる立場ですから、私は本名でも構わないと思いますが、嫌がるドライバーはいるでしょうね。その気持ちはわかりますよ。責任者でもなければコンビニとか、店員さんの名前なんていらないと個人的には思いますけど」
コンビニでは女性アルバイトが「珍しい名前なのでネットで検索されました」「名前を知られてつきまとわれました」といった意見もあった。いわゆるクレーマーだけでなく、ストーカー行為やいたずらといった問題もある。これは職業ドライバー、とくに不特定多数の人を営業で運ぶバスやタクシーも同様の問題を抱えてきた。
国土交通省は8月付の『道路運送法施行規則等の一部を改正する省令案に関するパブリックコメント』においてこう回答している。
〈昨今のSNS等の普及により、掲示された乗務員等の氏名等が写真に撮られ、インターネット上にさらされるといった事案が見られるようになり、制定当時には想定されていなかった運転者のプライバシーの侵害が問題となっていることを受け、車内における表示の在り方を見直すものです〉
〈表示が義務付けられている事項から、氏名等を削除するという措置を講じるもので、事業者が氏名等の掲示を続けることを妨げるものではありませんが、各事業者においては、運転者等が安心して働ける環境の整備の推進に取り組んでいただきたいと考えています〉
〈バスにおいては自動車登録番号を、タクシーにおいてはそれに加えて法人タクシーについては運転者番号、個人タクシーについては許可番号を表示することにより、引き続き運転者の特定が可能となる措置を講じております〉
これに対してパブリックコメントでは賛成意見が多いようだ。回答同様、わかりやすい意見が並ぶのでこちらも少し長いが賛成意見を一部、以下に引用する。
〈近年は、インターネットや SNS の発達で氏名のみでも個人情報を容易に取得できたり、誰でも写真や動画をインターネットに投稿できるようになったことで、乗務員の氏名や容貌を勝手にインターネット上に投稿されたりして、乗務員のプライバシーが侵害される事案が増えていることからも、名札の廃止は適当だと思います。また、乗客が乗務員に対して、「個人情報を流出させるぞ」などと脅し、不当な要求をしてくる、いわゆるカスタマーハラスメントを阻止するためにも、名札の廃止は必要だと思います。名札の存在が、乗務員の弱みにつけ込んだカスタマーハラスメントを助長させている側面もあると思います〉
〈私自身珍しい姓を名乗っており、姓からだけでも出身地や居住地、門地等がインターネットで容易に検索できてしまいます。今回の改正が他の産業にも広がることを強く望んでおります〉
〈乗務員は常に制服や胸名札を着けており、何も疑念を抱くものはない。運転や接客マナー一つで揚げ足取る風潮がある昨今において、名札掲示があるだけでも乗務員側もプレッシャーがかかり安全運転に支障が出ると思う。何かあればのために車両番号や連絡先の掲示で充分と考える〉
こうした意見が並ぶが、もちろん異論として〈女性個人タクシー運転手です。乗務員証や事業者乗務証が無くても簡単に運転手の顔写真などは撮影されてしまいます。そして○○タクシーの△△号車の可愛い運転手さん等とアップ出来ます〉といったプライバシーをもっと守る方向に改正すべき、という意見や、運転手に非があるとして〈もっとはっきり表示させる必要がある〉、〈運転手のプライバシー以前に、運転手の責任が問われるべき〉といった反対意見もある。それでも8月1日で「乗務員の氏名掲示義務」は廃止、以前のような実名をさらして走る必要はなくなった。
「時代が変わったんでしょうね。昔は『近セン怖い』だったのが、『ネット怖い』になった」(前出の個人タクシー運転手)
彼の言う「近セン」とは「東京タクシー近代化センター」のことで、筆者もこの名前のほうが馴染む。2002年からは現在の東京タクシーセンター、いわゆる「タクセン」となった。簡単に言えば、タクシーの苦情を受け付ける機関である。
「昔はひどいドライバーもいましたからね、それは私もよくわかりますよ」
確かに昭和の時代のタクシードライバーは今では信じられないような人がいた。筆者の子ども時代も千葉の田舎の話だが入れ墨をシャツからちら見せで雪駄履きのドライバーとか、明らかに酒臭いドライバーとか本当に存在した。もちろん一部ではあるが、ありえないほど遠回りでメーターを稼ぐ、歩行者や自転車にクラクションを鳴らしまくる、「そんな近いとこ歩け」と乗車拒否する、などなど筆者の経験でも1980年代くらいまでだろうか、こうした運転手が存在した。
「いましたね、懐かしい。煙草吸いながらラジオでナイター鳴らしてね、もうあんなのはいませんけどね」
笑いながら答えてくれたがもっと前、1970年の「タクシー業務適正化特別措置法」以前などは今で言う白タク行為が平然と行われていた。そういう時代からさまざまな改正を経て現在に至るが、ついにあのおなじみの「乗務員の氏名掲示義務」が廃止される。もちろん各事業所の判断だが、多くは施行通り「氏名掲示廃止」となるだろう。
「タクシードライバーになりたいという人も減ってますからね。そっちの対策もあると思いますよ」
タクシードライバーは年々減っている。先の東京タクシーセンターによれば東京23区と一部多摩地域の法人タクシー運転者数は4万9930人、1970年の統計開始からもっとも低い数字となり、初めて5万人を切った。ずっと下り坂だったがコロナ禍が追い打ちとなった格好で、この国の少子化と人口減でなり手が減っているだけでなく高齢ドライバーが続々と引退といった状態が続いている。
2022年の改正道路交通法でタクシー運転手の年齢が21歳以上から19歳以上に緩和されたが、それがドライバー増につながるかは不透明だ。
「いまどき若いうちからタクシードライバーになろうなんてわずかですよ。私の息子たちを見たって同じ仕事につこうなんて思わない。私だって勧めませんでした」
彼いわく「もう昔のようには稼げない」「不規則、不安定、重労働」「仕事のイメージ」とのことで、あくまで私見とはいえ業界の厳しい内情がうかがえる。それでも今回の「乗務員の氏名掲示義務」はこれまでにない画期的な改正のように思う。
タクシードライバーだけでなくバスの乗務員にとっても「ようやく」といった声がある。4月、秋田県のバス会社が地元新聞に「その苦情、行き過ぎじゃありませんか?」と題した意見広告を掲載したことが話題となった。
〈近年、些細なことで理不尽なクレームや過度な要求をするお客様がおられます。確かに、当方に非があり、お詫びする場合もありますが、社内外のドライブレコーダーで確認し、非がないことをお伝えしても一方的に攻撃されます。(中略)お客様と社員は対等の立場であるべきで、お客様は神様ではありません。今後、理不尽なクレームや要求には、毅然とした対応を取り、場合によっては乗車をお断りいたします〉
この内容がSNSを中心に拡散され、多くの賛同があった。クレーマーはごく一部、ストーカーもごく一部だが、そうした「ごく一部」が大多数のために日夜働く人々を苦しめる、同時に利用者も苦しめる。この国のタクシードライバーの減少、バス路線の廃止が続く中、今回の「乗務員の氏名掲示義務」の廃止も含め、労働者のため、一般乗客のための施策が今後も進められるだろう。
【プロフィール】日野百草(ひの・ひゃくそう)日本ペンクラブ会員。出版社勤務を経てフリーランス。社会問題、社会倫理のルポルタージュを手掛ける。