妻は大病を患った後、「もうお母さん業を辞める」と宣言 戸惑う61歳夫にも微妙な心境の変化が【不倫の恋で苦しむ男たち】

いわゆる「不倫」と呼ばれる恋の行く末はどこにあるのだろう。いつかは自然と結果が出る日が来るかもしれない。あるいは結論を出さなければならなくなるかもしれない。「結論」を迫るのは誰なのか、誰もが納得できる答えなど出せる問題ではないだけに、苦渋の選択をしなければならない当事者の思いは重い。
【写真を見る】「夫が19歳女子大生と外泊報道」で離婚した女優、離婚の際「僕の財産は全部捧げる」と財産贈与した歌手など【「熟年離婚」した芸能人11人】 松田拓憲さん(61歳・仮名=以下同)に会ったら、誰もが驚くだろう。年齢を感じさせない明るい笑顔、しなやかそうな細身の肉体。40代後半と言われても納得してしまいそうだ。

“羽ばたいていく妻”への嫉妬が拓憲さんにはあったのかもしれない「それなりに年とってますよ」 そう言って笑った口元はきれいな歯が並ぶ。今もすべて自分の歯で、奥の2本に虫歯治療をしただけだという。昔から「歯は丈夫だった」そうだ。「若いころからチャラい男だと思われてきた。自分でそれを演出していたところもあります。人生、どうせなら楽しく生きなければ損だと思っていたし。ここまで悩んだのは生まれて初めて。しょせん、不倫男の戯言にしか聞こえないとは思いますけど」 軽い男と、軽く見せている男は違う。拓憲さんは後者だろう。それが彼の処世術でもあった。28歳で結婚 東京から2時間ほどの町で生まれ育った彼は、大学入学と同時に上京し、そのまま都内で就職した。ときはバブル前夜、就職先には困らなかった。「55歳のときに早期退職して、同期たちと3人で会社を興した。最初は大変でしたけど、20代の頃みたいにみんなで働きまくって、ようやく給料がもらえる状態にまでなりました。今は僕ら3人と正社員ひとり、アルバイトひとり。弱小企業だけど楽しくやってます」 ごく普通の家庭に育って、ごく普通の家庭を作ってきたと彼は言う。結婚したのは28歳のとき。周りも結婚していき、乗り遅れまいと思って当時つきあっていた同い年の由利さんと一緒になった。「学生時代から何人かとつきあったけど、由利となら普通の家庭が作れると思ったんです。出会いは友だちの結婚式。新婦の友人としてきていたんですが、二次会で話す機会があって、いい子だなと。あちらは『チャラいヤツ』と思ったそうです。でもこういう人のほうが威張らないんじゃないかと思って結婚した、と(笑)」 確かにそうなんですと彼は笑った。威張ったり居丈高になるのは大嫌いで、そんなことをするくらいなら逃げたほうがいいと思っていた。結婚後、すぐに子どもができて妻は仕事を辞め、専業主婦となった。「僕もひとり暮らしが長かったから、家事が大変だというのはわかってる。掃除なんて大嫌い。でも放っておけばどんどん汚くなる。だから妻が長男を育てながら、家事もきちんとやってくれていることにいつも感謝していました。その後、娘も生まれた。僕もなるべく関わりましたよ。ただ、30代、40代は出張が多かったから、そういう意味でも妻には苦労をかけたなと思っています」妻の自立宣言 子どもたちが学校に上がると、由利さんはパートで働き始めた。無理するなよと拓憲さんはいつも声をかけていた。だがもともと几帳面な由利さんは、無理を重ねたのだろう。それが原因かどうかわからないが、42歳のとき婦人科系の大病を患った。「妻が生きるか死ぬかという状態になって、それでも僕は仕事を辞めるわけにもいかない、出張しないわけにもいかない。あの頃はつらかった。妻もつらかったと思う。子どもたちの存在が僕らを勇気づけてくれた。そして妻には強い生命力があったんでしょう」 5年後、もう大丈夫、完治したと診断されたとき、由利さんは初めて泣いた。頑張り屋の由利さんを、彼は「改めて尊敬した」と言う。当時、長男は18歳、長女は16歳になっていた。そのとき由利さんは、家族に向かって「もうお母さん業を辞める」と言い放った。「妻の自立宣言だったんでしょうね。ひとりの人間として自分の時間もほしい、好きなこともしたい。今まで通り、食事を作ったりはするけど、自分でできることは自分でしてちょうだいということでした。妻は少し過保護なところがあって、子どもたちの部屋の掃除までしていた。長男は大学生になったばかりで、遅く帰ることもありましたが、食事の温め直しなどは自分でやれ、と。その際、ちゃんと食器まで洗ってねと妻は言ってました。そのルールは僕にも適用されましたよ、もちろん」 家事手抜き宣言もなされたが、拓憲さんはすべて受け入れた。妻はパートの時間を増やし、大学院入学を目指した。「もらった命だから、大事に育てる」と妻は言ったという。死の淵を見た人間は強い。だが、そうやって変わっていく妻に、拓憲さんはほんの少し違和感を覚えていた。「僕が由利だったら、たぶん同じように考えたと思う。せっかく生きられるなら、やり残したことをやりたいと。わかるんです。だけど一緒に生活している立場から言うと、妻が遠くなったというか……。人として尊敬はするけど、それと“妻への愛情”とは若干、何かが違うというか。うまく言えないんですが」 たとえて言えば、手の中にあった大事な小鳥が勝手に羽ばたいていくイメージだろうか。そう問うと、「それじゃまるで僕が妻を所有物だと思っていたようになる。そういうことじゃないんです」と言ったあと、「ああ、でもそういう気持ちが本音としてあるのかもしれない」と彼は認めた。所有しているとか支配しているとか、そういった感覚はない。だが、身近だった妻が、「ひとりで自由に」羽ばたいていくことへの嫉妬はあったのかなと彼はつぶやいた。「夫だから妻を支配しているということじゃないですよ。単純に寂しかったのかもしれない。足並みを揃えなくなった妻を後ろから見ている感じがあった」「本当にこの人は偉いなあ」 変わっていく妻、変われない自分。サラリーマンはそう簡単には変われない。妻は無事に大学院生となり、その後も大学院に通いながら関係する仕事へと転職していった。そこまでに6年ほどかかっている。「妻の努力を間近で見ていて、本当にこの人は偉いなあと思っていました。自由に生きてもらったほうがいいと、僕も少しずつ妻への理解を深めていったような気がします」 妻に触発もされたのだろう。だからこそ彼は早期退職から起業へと自分を鼓舞していった。若い頃思い描いていたように老後、一緒にのんびりするような夫婦にはなれそうになかったが、それはそれで刺激的な関係でいられると彼は納得した。後編:そろそろ「妻か不倫相手か」を選ばなければ…61歳夫が語った“なかなか決断できない本当の理由” 【不倫の恋で苦しむ男たち】へつづく亀山早苗(かめやま・さなえ)フリーライター。男女関係、特に不倫について20年以上取材を続け、『不倫の恋で苦しむ男たち』『夫の不倫で苦しむ妻たち』『人はなぜ不倫をするのか』『復讐手帖─愛が狂気に変わるとき─』など著書多数。デイリー新潮編集部
松田拓憲さん(61歳・仮名=以下同)に会ったら、誰もが驚くだろう。年齢を感じさせない明るい笑顔、しなやかそうな細身の肉体。40代後半と言われても納得してしまいそうだ。
「それなりに年とってますよ」
そう言って笑った口元はきれいな歯が並ぶ。今もすべて自分の歯で、奥の2本に虫歯治療をしただけだという。昔から「歯は丈夫だった」そうだ。
「若いころからチャラい男だと思われてきた。自分でそれを演出していたところもあります。人生、どうせなら楽しく生きなければ損だと思っていたし。ここまで悩んだのは生まれて初めて。しょせん、不倫男の戯言にしか聞こえないとは思いますけど」
軽い男と、軽く見せている男は違う。拓憲さんは後者だろう。それが彼の処世術でもあった。
東京から2時間ほどの町で生まれ育った彼は、大学入学と同時に上京し、そのまま都内で就職した。ときはバブル前夜、就職先には困らなかった。
「55歳のときに早期退職して、同期たちと3人で会社を興した。最初は大変でしたけど、20代の頃みたいにみんなで働きまくって、ようやく給料がもらえる状態にまでなりました。今は僕ら3人と正社員ひとり、アルバイトひとり。弱小企業だけど楽しくやってます」
ごく普通の家庭に育って、ごく普通の家庭を作ってきたと彼は言う。結婚したのは28歳のとき。周りも結婚していき、乗り遅れまいと思って当時つきあっていた同い年の由利さんと一緒になった。
「学生時代から何人かとつきあったけど、由利となら普通の家庭が作れると思ったんです。出会いは友だちの結婚式。新婦の友人としてきていたんですが、二次会で話す機会があって、いい子だなと。あちらは『チャラいヤツ』と思ったそうです。でもこういう人のほうが威張らないんじゃないかと思って結婚した、と(笑)」
確かにそうなんですと彼は笑った。威張ったり居丈高になるのは大嫌いで、そんなことをするくらいなら逃げたほうがいいと思っていた。結婚後、すぐに子どもができて妻は仕事を辞め、専業主婦となった。
「僕もひとり暮らしが長かったから、家事が大変だというのはわかってる。掃除なんて大嫌い。でも放っておけばどんどん汚くなる。だから妻が長男を育てながら、家事もきちんとやってくれていることにいつも感謝していました。その後、娘も生まれた。僕もなるべく関わりましたよ。ただ、30代、40代は出張が多かったから、そういう意味でも妻には苦労をかけたなと思っています」
子どもたちが学校に上がると、由利さんはパートで働き始めた。無理するなよと拓憲さんはいつも声をかけていた。だがもともと几帳面な由利さんは、無理を重ねたのだろう。それが原因かどうかわからないが、42歳のとき婦人科系の大病を患った。
「妻が生きるか死ぬかという状態になって、それでも僕は仕事を辞めるわけにもいかない、出張しないわけにもいかない。あの頃はつらかった。妻もつらかったと思う。子どもたちの存在が僕らを勇気づけてくれた。そして妻には強い生命力があったんでしょう」
5年後、もう大丈夫、完治したと診断されたとき、由利さんは初めて泣いた。頑張り屋の由利さんを、彼は「改めて尊敬した」と言う。当時、長男は18歳、長女は16歳になっていた。そのとき由利さんは、家族に向かって「もうお母さん業を辞める」と言い放った。
「妻の自立宣言だったんでしょうね。ひとりの人間として自分の時間もほしい、好きなこともしたい。今まで通り、食事を作ったりはするけど、自分でできることは自分でしてちょうだいということでした。妻は少し過保護なところがあって、子どもたちの部屋の掃除までしていた。長男は大学生になったばかりで、遅く帰ることもありましたが、食事の温め直しなどは自分でやれ、と。その際、ちゃんと食器まで洗ってねと妻は言ってました。そのルールは僕にも適用されましたよ、もちろん」
家事手抜き宣言もなされたが、拓憲さんはすべて受け入れた。妻はパートの時間を増やし、大学院入学を目指した。「もらった命だから、大事に育てる」と妻は言ったという。死の淵を見た人間は強い。だが、そうやって変わっていく妻に、拓憲さんはほんの少し違和感を覚えていた。
「僕が由利だったら、たぶん同じように考えたと思う。せっかく生きられるなら、やり残したことをやりたいと。わかるんです。だけど一緒に生活している立場から言うと、妻が遠くなったというか……。人として尊敬はするけど、それと“妻への愛情”とは若干、何かが違うというか。うまく言えないんですが」
たとえて言えば、手の中にあった大事な小鳥が勝手に羽ばたいていくイメージだろうか。そう問うと、「それじゃまるで僕が妻を所有物だと思っていたようになる。そういうことじゃないんです」と言ったあと、「ああ、でもそういう気持ちが本音としてあるのかもしれない」と彼は認めた。所有しているとか支配しているとか、そういった感覚はない。だが、身近だった妻が、「ひとりで自由に」羽ばたいていくことへの嫉妬はあったのかなと彼はつぶやいた。
「夫だから妻を支配しているということじゃないですよ。単純に寂しかったのかもしれない。足並みを揃えなくなった妻を後ろから見ている感じがあった」
変わっていく妻、変われない自分。サラリーマンはそう簡単には変われない。妻は無事に大学院生となり、その後も大学院に通いながら関係する仕事へと転職していった。そこまでに6年ほどかかっている。
「妻の努力を間近で見ていて、本当にこの人は偉いなあと思っていました。自由に生きてもらったほうがいいと、僕も少しずつ妻への理解を深めていったような気がします」
妻に触発もされたのだろう。だからこそ彼は早期退職から起業へと自分を鼓舞していった。若い頃思い描いていたように老後、一緒にのんびりするような夫婦にはなれそうになかったが、それはそれで刺激的な関係でいられると彼は納得した。
後編:そろそろ「妻か不倫相手か」を選ばなければ…61歳夫が語った“なかなか決断できない本当の理由” 【不倫の恋で苦しむ男たち】へつづく
亀山早苗(かめやま・さなえ)フリーライター。男女関係、特に不倫について20年以上取材を続け、『不倫の恋で苦しむ男たち』『夫の不倫で苦しむ妻たち』『人はなぜ不倫をするのか』『復讐手帖─愛が狂気に変わるとき─』など著書多数。
デイリー新潮編集部