「もし、宝くじで高額当選したら……」 多くの人が、宝くじを最も劇的な「人生逆転の方法」だと考えるかもしれません。しかし、その突然の当選の先には、想像できないような厳しい現実が待ち構えている場合があります。東京都心に住む元会社員の事例をみていきましょう。※相談者の了承を得て、記事化。個人の特定を防ぐため、相談内容は一部脚色しています。
日本国内で高額当選者の追跡調査をすることはプライバシーの観点から困難ですが、米国では、当選者の「その後」に関するいくつかの有名な言説が存在します。最もセンセーショナルなものとして、「高額当選者の約70%が、わずか5年以内に全資産を失い自己破産する」という説があります。あるいは「当選者の約3分の1が、数年以内に破産状態に陥る」という33%説も。多くの人はこれらを聞いたことがあるかもしれません。
実は、これは信用できる一次情報が存在しない「都市伝説」の類と考えてよいようです。情報源とされるNEFE(全米金融教育基金)は調査自体を否定しており、米国のフロリダ宝くじにおける大規模調査でも、高額当選者も少額当選者も5年後の「破産率」に有意な差はないという結論が出ています。こうしたデマは、「宝くじを買う人は低所得者、教養もないからすぐに自己破産する」という社会的烙印(スティグマ)から増幅されたのかもしれません。
しかしその一方で、サドン・ウェルス・シンドローム(SWS)という言葉が存在します。日本語にすると「突然の富の獲得による心理的混乱症候群」になるでしょうか。これは宝くじに限らず、スタートアップの成功や相続、ギャンブルなどで突然巨額の富を得た人が、人間関係や価値観、アイデンティティが大きく揺らぎ、罪悪感や不安感、孤独感に陥る精神的混乱状態を意味します。
特に、これまで「真面目にコツコツ努力すること」を信条としてきた人ほど、人生の価値観が根底から混乱し、「自分は何者なのか」というアイデンティティの崩壊によって深刻な苦悩を抱えることになるのです。
<事例>Sさん 66歳 元会社員 年金月20万円妻Tさん 66歳 年金月10万円宝くじ当選前の資産額 5,700万円
<事例>
Sさん 66歳 元会社員 年金月20万円
妻Tさん 66歳 年金月10万円
宝くじ当選前の資産額 5,700万円
Sさんは、60歳で大手メーカーを定年退職した元会社員です。
都心に所有している自宅マンションは退職と同時に完済。退職金は約3,500万円でした。2人の子供の大学進学と留学に費用が掛かったため、それまでの年収のわりに預貯金は多くなく、2,700万円程度。手元にある資産額は5,700万円です。退職時に相談したFPからはマンションを高額で売却して郊外に安めの戸建て住宅を買うライフプランを提案されましたが、Sさん夫婦は都心暮らしが性に合っていると思っています。老齢年金は、妻と合わせれば月30万円。都心暮らしとしては決してゆとりがあるとはいえないものの、静かに暮らすには十分な資産額と収入でした。
趣味は、近所にある古い喫茶店で新聞を読みふけること。いまどきのカフェとは違い、ノートパソコンを開いて仕事をするビジネスマンはいない店です。客層は、ほとんどがSさんのような高齢者。静かな店内で新聞を読みながらモーニングをいただき、帰りに宝くじ売り場で宝くじやロトを少しだけ買うのが好きなのです。毎回、売り場の女性に当選を確認してもらい、全部外れていても夢を買っているので楽しいといいます。
しかし、ある日、いつものように売り場で券を渡すと、機械を通した女性がいつもと違う面持ちでSさんをみました。高額当選のため、銀行で手続きをするよう、案内されます。
Sさんは、封筒に入れられた当たり券を受け取り、銀行へと向かいました。
(高額って、いくらだ? 100万円か? いや、1,000万円くらいだったらどうしよう……)
銀行では、個室に通されました。当たり券が本物であると確認されたあと、担当者から告げられた金額に震えます。
「1等、6億円……」
現実感がありません。かといって嬉しいという感覚も皆無です。喜びどころか頭が熱くなり、少しめまいもします。手に持ったポーチに入っている当選証明書を、破ってコンビニのごみ箱に捨てようかとも一瞬考えました。6億円という金額の大きさに、少し怖くなったのです。人生が壊れるような錯覚に襲われました。
しかしSさんはすぐに思い直します。
「宝くじなんて雷に打たれる確率よりも低いと聞いたことがある。これも人生経験だ、ちょうど車が欲しかったし、自宅のトイレも直したいと思っていた。もし自分がお金のせいでおかしくなってしまうようなら、全部寄付してもいいだろう」
ただし、妻Tさんには内緒にしておくことにしました。妻は現役時代からお金に細かく、結婚した直後から晩酌のビールも禁止され、発泡酒に。車もずっと軽自動車でした。もちろん妻のその努力がなければ2人の子供を留学させるなど無理だったわけですが。ともかく、宝くじが6億円も当たったとなると、自分よりも妻がおかしくなるかもしれません。
Sさんは再び一人で銀行を訪れ、口座を作り、当選金を受け取りました。6億円――。通帳の印字は仕事でしかみたことがない桁数です。人生経験とはいえ、こんなお金を手に入れて無謀なことをしているのではないかと、また不安が押し寄せてきます。
銀行に出向いたSさんの服装は、スーパーの衣料品売り場で買った地味なもの。着古した長袖のポロシャツが定年退職をした高齢者といった風情です。とても口座に6億円が入っている「超富裕層」にはみえません。
その夜、妻Tさんに「むかし、会社で入ったドル建て保険の返戻金が円安で増えていてね。解約したからこれを家のリフォームの足しにしようよ」と、Sさんは500万円の臨時収入があったという嘘をつきました。妻は「あら、凄いじゃない」と喜び、それ以上深く追及しませんでした。
そこからSさんの「秘密の贅沢」が始まります。
いつものように喫茶店でモーニングのコーヒーをすすりながら、6億円でなにをしようか考えてみました。すぐに思いついたのは、若いころに家族のために我慢していたことを思う存分にやろうというプランです。
まずは自動車。大手メーカーの管理職だというのに、当時から乗っていたのは錆びた軽自動車でした。年収もそれなりにあったのだから、本当は新車のBMWに乗りたかった。でも当時、妻は許してくれませんでした。滅多に乗らないのだから軽自動車で十分、というのが妻の言い分でした。マンションの駐車場ではSさんの車だけが古ぼけていて、見栄を張らない妻を恨めしく思ったものです。
BMWの購入はぜひ実行しよう。Sさんはすぐに決めました。しかし、妻に内緒である以上、マンションの駐車場に車を停めるわけにはいきません。自宅から離れた場所に駐車場を借りる必要があります。スマホで検索してみたところ、最寄り駅から3駅離れた場所に屋内の平置き駐車場に空きがあることがわかりました。料金は月9万円。年間108万円ですが、安いものです。
カーディーラーに普段着のまま入ると、営業マンがにこやかに接客してくれました。Sさんのような質素な身なりの高齢者は、実のところ富裕層であることも多いのです。「契約後にすぐに一括で代金を振り込みます。そこから登録手続きをしてください」と営業マンに伝えると、驚きもせず丁寧に手続きをしてくれました。在庫車を購入したため、2週間後には納車されました。
そのまま借りた駐車場に行ってみると、隣にはフェラーリやポルシェなどが無造作に停められていて、場違いな雰囲気に圧倒されました。「こんなことをしていいのだろうか」と少し苦しくなりましたが、あまり深く考えても仕方ありません。
自動車購入の次の考えたのは、都内の超高級ホテルに宿泊すること。Sさんは一度も泊ったことがありません。妻から離れ、月に一度くらいは1人で泊まってリラックスしてみようかと考えました。クラブフロアを定宿にし、クラブラウンジで夜景を見ながらお酒とタパスを楽しむのはどうだろうか……と、ホテルのホームページを眺めながら想像しました。
あとは旅行。Sさんは現役時代、全国に何度も出張していましたが、当然、ビジネスホテルに泊まって仕事をしただけです。景勝地を巡ったり、名湯と呼ばれる温泉に入ったりしてみたい。家族で旅行したのは何度かありますが、妻と子供2人のための運転手&荷物運びのようなものでした。もちろん楽しかったのですが、もっと贅沢な旅行をしてみたい。買ったBMWで行くのもいいな……。
高級ホテルの宿泊や温泉旅行のたびに、Sさんは妻に嘘をついて出かけるようになりました。「友達と釣りの旅行にいく」「都内でボランティア活動があって、合宿の勉強会がある」など、嘘を並べては家を出て、電車で駐車場に向かい、BMWに乗り込んで遊びに行くのです。ホテルや旅館の予約は、高位のクレジットカードに付帯する予約サービスを使いました。
最初はとても楽しく過ごしました。各地の高級温泉旅館に泊まっては観光地を巡る旅行です。旅館では、いままで経験したことのないような丁寧なおもてなしを受けて、文句の付けどころが一切ない素晴らしい体験でした。「お金持ちはいつもこのような待遇をされているのか」と呆れたほどです。日本は貧しくなったというけれど、お金持ちはさらにお金持ちになっているのだと身をもって知りました。一泊50万円の部屋が満室になっているなど、会社員をしていたころにはまったく気付きませんでした。
そんな風に毎月のように遊んでいたSさんですが、次第にある思いに囚われるようになります。
「こんな素晴らしい温泉、妻も連れてきてあげたいな……」「この夜景をみたら、妻は驚くだろうな……」
ホテルや旅館、どこに行ってもカップルで来ている人ばかりです。Sさんのようなリタイア世代の夫婦や、若い世代の夫婦、もしかしたら不倫かもしれない雰囲気を出している中年カップルなどみんな誰かと楽しんでいます。1人で泊まっているのはいつもSさんだけ。「いいお湯だったね」などとお酒を飲んで語り合っている夫婦をみると、罪悪感が積もっていくのがわかりました。
せっかくの新車も、隣に誰も乗せることができません。素晴らしい体験をしても、それを共有できる人がいないというのは、静かな苦しみがあります。
「ひとりって、意外とつまらねえな……」
Sさんは車の中で大きめの独り言を何度もつぶやいてしまいました。妻を裏切って遊んでいても、次第に罪悪感と退屈さに覆いつくされてしまったのです。
当選から半年が経つころ、Sさんは旅行を一切やめてしまいました。使ったのは6億円のうち1,800万円程度。あれほど通った喫茶店にも足が向かなくなりました。BMWもほったらかし。駐車場の中でうっすらと埃を被り、バッテリー上がりが心配なほどです。
Sさんの心の中でなにかが重くのしかかるようになりました。毎日毎日、まったく楽しくないのです。口座の中にある当選金はさほど減っていないのに、宝くじが当たったら人生が大逆転するはずだと思い込んでいたのが嘘のようです。むしろ悪い方向へ逆転している気さえします。Sさんは銀行口座の残高をみないようにしました。
毎日がつまらない原因はこのお金です。もし、この6億円が自分が努力して稼いだ結果なら、こんな気持ちにはならなかったはず。ビジネスでも、投資でも、心と体に汗をかいて、たくさん勉強をして、苦しい思いをして手に入れたお金なら、きっと誇らしく思うのでしょう。
会社員として新卒から定年退職まで頑張って築いたいまの貯蓄は、本当に心から誇れるお金です。そこには会社員としての思い出が詰まっています。5,700万円という誇らしいお金は子供2人にも残してあげたいです。父親と母親が頑張って稼いだお金を、子供のために使うなら幸せを感じます。ところが、宝くじのお金は6億円あっても誇らしくありません。
不思議なことに、Sさんは自分が小学生だったころの辛い記憶をよく思い出すようになります。父親が経営していた工場が倒産し、一家で夜逃げ同然で引っ越したこと。両親はお金がなく、ご飯を食べるために母親の実家に転がり込んでいたこと。夜、寝ていると、居間から祖母が父親を叱責する大声が聞こえていたこと。そして父親がある日いなくなったこと。両親が離婚したということを、母親から聞きました。
商売が下手だった父親がお金で苦労し続けていたことを思い出すと、ついこう思うのです。
「あのころ、この6億円があったら……」
父親はその後、知り合いがいない土地に引っ越して、アルバイトを転々とし家賃4万円の古いアパートで暮らしていたようです。体調が悪くなっても病院に行くお金がなかったらしく、気づいたときには末期ガン。アパートの布団の上で孤独死をしました。腐乱し部屋を汚してしまったため、アパートの大家が社会人になっていた息子のSさんにきつく文句をいったことも嫌な思い出です。
いままで考えもしなかった観念が、Sさんを毎晩のように苦しませます。父親を苦しませた貧困と、軽薄さしか感じない当選金を天秤に載せて考えているのかもしれません。
Sさんは毎晩眠れなくなり、お酒の量が増えてしまいました。飲むのは家にある発泡酒。眠れるのはいつも明け方です。なにもかもが億劫になってしまい、一日中パジャマで過ごすことさえあります。
「努力しないで得た大金は、嫌な記憶を掘り起こして人生を揺るがす」Sさんはそう実感し、当選金をもうみなくて済むようにしようと考えました。
寄付も考えましたが、妻にばれてしまう危険があります。そこでFPに相談して、残っている当選金のすべてを、一時払いの生命保険の掛け金に入れるプランを採用しました。Sさんが亡くなったら、妻と子供2人に生命保険金として保険金が支払われるというものです。突然の大金が家族に残されるので、きっと驚くでしょう。もしかしたら、それがまた子供たちの生活と精神を蝕む原因になるかもしれませんが……。Sさんは自分自身がいまのプレッシャーから耐えることができませんでした。
「お金で幸福は買えないが、不幸を避けることができる」と、かつては信じていました。頑張って働いてお金を稼ごうというモチベーションになる言葉だったのです。しかし決してそれは正しくなかったようです。労働やビジネスという、正しいプロセスで獲得したお金以外は、不幸を呼び寄せてしまうのかもしれません。
「お金自体にはなんの意味もないな」いま、Sさんはそう痛感しています。
マネーリテラシーという言葉が広く認知されるようになりました。NISAなどの普及もあり、若い世代ではかつてないほど金融知識が豊富な人が増えているようです。しかし、知識が増えていても肝心な部分が抜け落ちているかもしれません。それは「お金に対する心理的耐性」と「お金に対する社会的文脈の理解」です。
Sさんのようにいざ大金が舞い込んだときに強い不安を感じる人や、お金の意味(社会的文脈)を理解していないために人格が激変してしまう人もいます。宝くじだけではなく、高額な保険金を受け取った人も同じような状況に陥ることがあります。夫が亡くなり1億円の死亡保険金を手にした妻が、悲しみと同時に心理的な混乱を抱えてしまい、ひどい方法で浪費してしまうことは珍しくありません。
お金に感情を支配されないという心理的耐性を高める訓練ができていないまま富を得ると、SNSでの幼稚な自慢や、他人の見下し、金銭感覚の崩壊、そして価値観や人格を露骨に変化させてしまうという状態になりやすいのです。お金は「自己価値の証明の道具ではなく、価値を交換するための道具」という社会的文脈を理解することが重要でしょう。宝くじの高額当選はこの文脈を崩す典型的な出来事で、富を得た自分に酔いしれてしまうと、精神的健康も価値観もアイデンティティも崩壊へと向かってしまう可能性があるのです。
長岡理知
長岡FP事務所
代表