「リアル浦島太郎じゃん」無期懲役で61年間も刑務所にいた“日本一長く服役した男”が、出所後に見せた“衝撃的な言動”

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

2019(令和元)年秋、無期懲役刑で“日本最長”61年間服役していた83歳の男が熊本刑務所から仮釈放された。このニュースは翌2020(令和2)年9月11日に社会を駆け巡り、「えっ、リアル浦島太郎じゃん」「何をしでかしたのか、気になる」とネットがざわついた。「日本一長く服役した男」はかつてどんな罪を犯し、その罪にどう向き合ってきたのだろうか?
【画像】『日本一長く服役した男』を画像で見る ここでは、NHK熊本放送局(当時)の杉本宙矢記者と木村隆太記者が出所した男に密着取材し、その全記録を記した渾身のノンフィクション『日本一長く服役した男』(イースト・プレス)より一部を抜粋。2019年9月に男が仮釈放され、61年ぶりに娑婆に出たときのエピソードを紹介する。(全2回の1回目/2回目に続く)

写真はイメージです iStock.com◆◆◆段ボール一箱に満たない所持品 2019年9月4日、午前8時50分頃。 仮釈放された男が、熊本刑務所の正面玄関から刑務官数人と一緒に出てきた。男は車の後部座席に乗り込む。刑務所と福祉施設を仲介する支援団体が用意した車だった。 乗り込む直前、刑務官がなにやら男に声をかけているようにみえた。「元気でな」「頑張れよ」。そんな言葉をかけているのだろうか。刑務所の敷地外にいる私(木村記者)のところまで会話の内容は聞こえてこないが、刑務官の表情は、穏やかな笑顔だった。 一体、男はどんな人物なのだろうか。61年ぶりの外の景色を車内からどう眺めているのだろうか。支援団体が走らせる車を後ろから追いかけながら、私と元浦ディレクターは妄想を膨らませていた。 刑務所を出た支援団体の車は、保護観察所、熊本市役所を経由。道中、食堂での昼食を挟んで、午後には受け入れ施設へと到着した。先述の通りこの施設は、一般的な老人ホームでありながら、刑務所から出所した高齢者などに居場所を提供してきた「自立準備ホーム」でもある。庭先には色とりどりの季節の花であふれた花壇があり、すぐ脇を流れる川では、透き通った水面を魚たちが気持ちよさそうに泳ぐ、のどかな場所だ。 男は車を降り、ゆっくりと自らの足で歩き、案内されて事務所へと進んだ。出迎えたのは職員とあの社長(編注:施設を経営する53歳の代表)だった。「荷物はこれだけ?」 社長は少し驚いた様子だった。 61年間も刑務所にいた男の荷物が、段ボール一箱にも満たなかったからだ。所持品を見てみると、コップやスプーンなど、ほとんどが生活雑貨。ただ、1つだけ意外なものが出てきた。 それは古びた楽譜だった。年代物なのか、表紙は色あせて茶色い。パラパラとページをめくると手書きの音符や曲目が確認できたが、一部の文字は消えかけている。目を凝らしてよく見ると、表紙にはうっすらと「モダンジャズ メモランダム」と鉛筆のようなもので書かれた跡が残っている。楽譜は、どうやらジャズの曲のようである。「楽譜読めると?」 社長が尋ねると、男は静かにうなずくだけだった。男はかつて楽器を演奏していたことがあるのだろうか。社長はどこかそわそわしている男に気を遣っているようで、さらに語りかける。「今日からここで生活してもらいますけど、何か心配なことはありますか?」 ここで、ようやく男が口を開いた。「起きるときも、起こしてもらわなきゃいかん」「寝るとき、何時頃に寝るのか?」 思いがけない言葉に緊張の糸がほぐれ、社長や支援団体の職員が微笑んだ。「寝たかときに、寝てよかですよ」 しかし、男の方は真剣である。「起きるときも、起こしてもらわなきゃいかん」 高齢による持病のため、1人で起きるのが困難なのでは、などと考えをめぐらせていると、支援団体の職員がすかさずフォローした。「今までずっと刑務所の中で、命令系統でやってきたので、やはり指示がないと動けないんですよ」 その指摘通り、男には刑務所での振る舞いが染みついていることを、私たちは目の当たりにすることになる。 そんな男のことを、私たち取材班は「A(さん)」と呼んだ。 1つには、個人情報漏洩やプライバシーを懸念しての対応であった。普段から本名を呼んでいると、ふとした瞬間に外部に情報が漏れてしまうことを危惧したからだ。また、撮影中に実名で呼んでしまうと、撮影した音声が後で使いにくくなってしまうという事情もあった。 その「A」という名称は、後に“日本一長く服役した男”を表す象徴的な意味が込められるようになる。腕まくりのやり方もわからない Aの行動1つひとつには、刑務所での振る舞いや習慣、そして、61年という刑務所内の時の経過、さらには時代のギャップへの戸惑いが表れていた。 仮釈放された当日の午後。あまりに少ないAの所持品を見かねて、生活に必要な品を揃えに、社長がAを買い物に連れ出したときのことだった。 まず向かったのは近場の衣料品店。Aは興味深そうに店舗にある商品を眺めていた。社長に促されて、服を選ぼうとするがなかなか決められない。興味はあちこちに向き、しまいには近くにいた私の、腕まくりしたワイシャツの袖をさわりながら、「これはどうやってやるのか」と聞いてくる。試しに一から袖をまくって見せると「おお、これがわからんのです」と目を輝かせた。 というのも、刑務所では夏服は半袖、冬服は長袖を着用することが決まっていて、自由に長袖をまくれるわけではない。結局、Aは衣料品店で社長に勧められて、パジャマやズボン、下着や靴下、それに長袖のワイシャツも購入したのだった。 その次に来たのは100円ショップ。Aは店舗に入ってすぐに、立ち止まった。そして、棚にかけてある商品の帽子を手に取るやいなや、ひょいっと頭に被って、そのまま歩き出した。遠目には少し不思議な光景だが、 刑務所では着帽の習慣がある。帽子はAの人生になじみ深いもの。だから、ないと落ち着かないのかもしれない。ここでは帽子や洗面具、自室用のゴミ箱などを買った。 この日の買い物で使ったのは、1万円ほど。この費用は、Aが61年の間に刑務作業の作業報酬金として積み立ててきた273万円の中から支払われた。 帰り道の車内、そして施設に戻った後の夕食のとき、Aは購入した帽子をずっと被ったままだった。夕食が終わって部屋に向かおうと食堂から出たとき、Aはようやく脱帽をして一礼した。「ここではそんなことしなくていいですよ」と社長は笑顔で言った。仮釈放されても無期懲役の効果は死ぬまで続く「Aさん、おはようございます。朝ですよ」 翌朝、午前7時。前日は私も施設の空き部屋に泊まらせてもらい、起床時間に合わせて、施設の職員とともに2階にあるAの部屋を訪れた。扉を開けると、Aは慌てるようにして起き上がり、すかさずベッドの上で正座をした。職員がカーテンを開ける間も、その姿勢のままじっとしている。 刑務所では、刑務官が朝の点呼に来るのを受刑者は座って待っているのが決まりだ。例に漏れずAもそうだったらしい。施設の職員から「下に行って顔を洗いましょうか?」と言われるまで立ち上がることはなく、1階に降りて顔を洗い終わっても、今度は職員に対し、直立で一礼していた。 この日は秋晴れだった。だが、その澄み切った空とは対照的に、これから始まる社会生活のゆく先は前途多難で、雲がかかっているかのようだった。 無期懲役は有期刑と違い、刑期に終わりはない。たとえ仮釈放されても、保護観察という制度により国の監督下に置かれる。生活には様々な制限があるため、完全な釈放とは言い切れない。刑の効果は死ぬまで続くのである。「自由が、まだわからん」 Aが出所してもなお、服役を引きずっていることを象徴する会話があった。 食堂にいるAに対して社長が「ここと前にいた刑務所とどっちが良いか」と尋ねたときのことだった。Aは良いとも悪いとも言わず、「これからしばらく考えて、見たり聞いたり習ったりしながら」と答え、「また“仕事”かなんかあるんかな、と思って」と続けた。 社長は不思議そうに「仕事がしたいの?」と尋ねる。Aは間髪入れずに「そういうのここであるんか?」と聞くが、社長は「基本的にはない」と答える。 それもそのはず。高齢者向けに住む部屋をサービスとして提供する老人ホームで、入所者に労働を強いるなど、おかしな話だ。だが、Aは真面目に尋ねているのである。Aのいう「仕事」とは一般的な職業ではなく、「刑務作業」という意味なのだ。刑務作業がない不安をAは訴えていたのだった。 そこで、社長は問いかけた。「でもその代わり、Aさんに自由はあるでしょ? 今、自由じゃない?」 Aは首をかしげながら答えた。「自由って言って……まだわからん。どういうのが自由かがね、まだわからん」 そこで、社長は「この場所でゆっくりのんびり生活していこう」と優しく諭したのだった。その言葉にAはうなずきながら、「のんびり……」と独り言のようにつぶやいた。 懲役は、別名「自由刑」とも呼ばれる。受刑者を刑務所に閉じ込め、身体の移動の自由を奪うことが名称の由来だとされる。仮釈放された今のAには、保護観察などの制約はあるとはいえ、一定の“自由”が与えられているはずだった。 だが、あまりに長い時間、自由を奪われた状態であると、出所した後の変化になじめず、今度は自由が与えられること自体が“罰”のようになってしまうのかもしれない。Aにとっては、それぐらいの大きな環境の変化だ。 “自由が奪われる刑罰から、自由が与えられる刑罰へ”。そんな皮肉めいた現実が目の前にある気がした。謎に包まれた男 仮釈放から1週間、私たち取材班は毎日交代で施設に通い、Aの様子をつぶさに観察していくことにした。だが、長きにわたって染みついた服役生活が1つひとつの行動に表れているようで、Aの主体性や明確な意思を感じとれる場面は少なかった。〈【気になる行動の記録】・他の入所者に話しかけられても、黙ってうなずくだけ。・職員にサポートされて入浴するが、服を脱ぐタイミングや置く場所に迷う。・テレビのリモコンの使い方がわからずに、手に持って首をかしげる。・耳が遠く、歯も抜けていて、口頭での会話が難しい・質問しても聞き取れないのか、多くは「わからん」と返事する。・手書きのメモを示すと、質問の趣旨に沿った回答をすることがある。・「仕事はないのか」とたびたび聞いてくる。・几帳面な性格なのかシャツやタオルをきれいにたたむ。・食事中に「麦飯でないと、白飯は慣れない」と言う。〉「プリゾニゼーション(prisonization)」という言葉がある。『新訂 矯正用語事典』によると、次のように記されている。〈 刑務所化ともいう。拘禁状況への過剰適応の1つと考えられ,感情が平板になり,物事に対する関心の幅が狭くなり,規律や職員の働き掛けに従順に従う。施設・職員に世話をされる状況への順応が,しばしば退行(子供返り)として表れる。無期懲役受刑者において典型的に生じる拘禁反応であるとされ,終わりのない刑に対する諦めの反映と考えられる〉「プリゾニゼーション」「刑務所化」、あるいは俗に「ムショぼけ」などとも呼ばれることもあるそうだが、出所したばかりのAは、まさにこうした言葉を体現したような振る舞いの連続だったと言える。何を聞いても「あんまりわからんね」 私たちは毎日、Aの様子を記録しながら、あわせて過去を知るべく、直接話を聞こうと試みた。最初に話を聞いたのは、元浦ディレクターだった。「昔のことは覚えていますか?」「あんまり、わからんな」「小学校は?」「習っているかもしれん。わからんな。教科書をほとんど見たことがない」「友達は?」「あんまりわからんね」「生まれは?」「……」「刑務所ではどんな生活でした?」「向こうでは……」 会話には応じてくれるものの、Aは戸惑っているのか、あるいは話したくないのか、口数は少なく、話は進まなかった。書かれた文章を理解することはできるようだが… 会話が難しい中、私たち取材班はAに文章を書いてもらうことで、その心情に迫ろうとも考えた。職員の協力も得てノート1冊を渡し、日記のように記録を書いてもらえないかと促したのだった。 だが、やってみると数日と続かなかった。 なぜなら、Aは文章がほとんど書けなかったのだ。 書かれた文章を理解することはできるようだが、自発的に書くことは難しいようだ。職員から1日の出来事などを試しに書くよう勧められたときも、文字を何度も何度もなぞるようにしてようやくこう書いた。〈「ゴハンおいしカつた。洗タク多ミ」 (原文ママ)〉 文章が書けないということは、おそらく刑務所内で日記や記録はつけていないのだろう。 家族や知人と手紙をやりとりした痕跡も見られない。教育を十分に受けていないのだろうか。依然として、過去についてはほとんどが謎に包まれた状態が続いていた。職員の視点と取材班の視点 その大きな違い では、毎日接している施設の職員にはAの姿がどう映っているのだろうか。ある女性職員の1人は次のように話した。「Aさんの印象ですか? 第一印象は“可愛いおじいさん”だなって。物静かな感じですかね。でも、こちらの表情に合わせて、にこって笑ってくれるし、優しそうだなと。最初はぎちぎちに固まっていたんですけども、少し慣れてきたみたいで。朝の身支度は覚えてくれましたね。ただ、日中、他の人との会話がないから、退屈させないようにするにはどうするのがいいのかが、今の課題ですね」 Aの日常生活の支援を最優先で考える職員の視点と、Aの人生そのものに迫りたい私たち取材班の視点は大きく違う。だから、その印象や抱える課題も異なっているのも当然だが、私たちは職員と比べて、もどかしさを感じてしまっていた。(#2に続く)「早く金を出せ」路上でいきなり若い女性に襲いかかり…61年間服役した“日本一長く服役した男”が“残忍な犯行”に及んだ理由 へ続く(杉本 宙矢,木村 隆太/Webオリジナル(外部転載))
ここでは、NHK熊本放送局(当時)の杉本宙矢記者と木村隆太記者が出所した男に密着取材し、その全記録を記した渾身のノンフィクション『日本一長く服役した男』(イースト・プレス)より一部を抜粋。2019年9月に男が仮釈放され、61年ぶりに娑婆に出たときのエピソードを紹介する。(全2回の1回目/2回目に続く)
写真はイメージです iStock.com
◆◆◆
2019年9月4日、午前8時50分頃。
仮釈放された男が、熊本刑務所の正面玄関から刑務官数人と一緒に出てきた。男は車の後部座席に乗り込む。刑務所と福祉施設を仲介する支援団体が用意した車だった。
乗り込む直前、刑務官がなにやら男に声をかけているようにみえた。「元気でな」「頑張れよ」。そんな言葉をかけているのだろうか。刑務所の敷地外にいる私(木村記者)のところまで会話の内容は聞こえてこないが、刑務官の表情は、穏やかな笑顔だった。
一体、男はどんな人物なのだろうか。61年ぶりの外の景色を車内からどう眺めているのだろうか。支援団体が走らせる車を後ろから追いかけながら、私と元浦ディレクターは妄想を膨らませていた。
刑務所を出た支援団体の車は、保護観察所、熊本市役所を経由。道中、食堂での昼食を挟んで、午後には受け入れ施設へと到着した。先述の通りこの施設は、一般的な老人ホームでありながら、刑務所から出所した高齢者などに居場所を提供してきた「自立準備ホーム」でもある。庭先には色とりどりの季節の花であふれた花壇があり、すぐ脇を流れる川では、透き通った水面を魚たちが気持ちよさそうに泳ぐ、のどかな場所だ。
男は車を降り、ゆっくりと自らの足で歩き、案内されて事務所へと進んだ。出迎えたのは職員とあの社長(編注:施設を経営する53歳の代表)だった。
「荷物はこれだけ?」
社長は少し驚いた様子だった。
61年間も刑務所にいた男の荷物が、段ボール一箱にも満たなかったからだ。所持品を見てみると、コップやスプーンなど、ほとんどが生活雑貨。ただ、1つだけ意外なものが出てきた。
それは古びた楽譜だった。年代物なのか、表紙は色あせて茶色い。パラパラとページをめくると手書きの音符や曲目が確認できたが、一部の文字は消えかけている。目を凝らしてよく見ると、表紙にはうっすらと「モダンジャズ メモランダム」と鉛筆のようなもので書かれた跡が残っている。楽譜は、どうやらジャズの曲のようである。
「楽譜読めると?」
社長が尋ねると、男は静かにうなずくだけだった。男はかつて楽器を演奏していたことがあるのだろうか。社長はどこかそわそわしている男に気を遣っているようで、さらに語りかける。
「今日からここで生活してもらいますけど、何か心配なことはありますか?」
ここで、ようやく男が口を開いた。
「寝るとき、何時頃に寝るのか?」
思いがけない言葉に緊張の糸がほぐれ、社長や支援団体の職員が微笑んだ。
「寝たかときに、寝てよかですよ」
しかし、男の方は真剣である。
「起きるときも、起こしてもらわなきゃいかん」
高齢による持病のため、1人で起きるのが困難なのでは、などと考えをめぐらせていると、支援団体の職員がすかさずフォローした。
「今までずっと刑務所の中で、命令系統でやってきたので、やはり指示がないと動けないんですよ」
その指摘通り、男には刑務所での振る舞いが染みついていることを、私たちは目の当たりにすることになる。
そんな男のことを、私たち取材班は「A(さん)」と呼んだ。 1つには、個人情報漏洩やプライバシーを懸念しての対応であった。普段から本名を呼んでいると、ふとした瞬間に外部に情報が漏れてしまうことを危惧したからだ。また、撮影中に実名で呼んでしまうと、撮影した音声が後で使いにくくなってしまうという事情もあった。 その「A」という名称は、後に“日本一長く服役した男”を表す象徴的な意味が込められるようになる。腕まくりのやり方もわからない Aの行動1つひとつには、刑務所での振る舞いや習慣、そして、61年という刑務所内の時の経過、さらには時代のギャップへの戸惑いが表れていた。 仮釈放された当日の午後。あまりに少ないAの所持品を見かねて、生活に必要な品を揃えに、社長がAを買い物に連れ出したときのことだった。 まず向かったのは近場の衣料品店。Aは興味深そうに店舗にある商品を眺めていた。社長に促されて、服を選ぼうとするがなかなか決められない。興味はあちこちに向き、しまいには近くにいた私の、腕まくりしたワイシャツの袖をさわりながら、「これはどうやってやるのか」と聞いてくる。試しに一から袖をまくって見せると「おお、これがわからんのです」と目を輝かせた。 というのも、刑務所では夏服は半袖、冬服は長袖を着用することが決まっていて、自由に長袖をまくれるわけではない。結局、Aは衣料品店で社長に勧められて、パジャマやズボン、下着や靴下、それに長袖のワイシャツも購入したのだった。 その次に来たのは100円ショップ。Aは店舗に入ってすぐに、立ち止まった。そして、棚にかけてある商品の帽子を手に取るやいなや、ひょいっと頭に被って、そのまま歩き出した。遠目には少し不思議な光景だが、 刑務所では着帽の習慣がある。帽子はAの人生になじみ深いもの。だから、ないと落ち着かないのかもしれない。ここでは帽子や洗面具、自室用のゴミ箱などを買った。 この日の買い物で使ったのは、1万円ほど。この費用は、Aが61年の間に刑務作業の作業報酬金として積み立ててきた273万円の中から支払われた。 帰り道の車内、そして施設に戻った後の夕食のとき、Aは購入した帽子をずっと被ったままだった。夕食が終わって部屋に向かおうと食堂から出たとき、Aはようやく脱帽をして一礼した。「ここではそんなことしなくていいですよ」と社長は笑顔で言った。仮釈放されても無期懲役の効果は死ぬまで続く「Aさん、おはようございます。朝ですよ」 翌朝、午前7時。前日は私も施設の空き部屋に泊まらせてもらい、起床時間に合わせて、施設の職員とともに2階にあるAの部屋を訪れた。扉を開けると、Aは慌てるようにして起き上がり、すかさずベッドの上で正座をした。職員がカーテンを開ける間も、その姿勢のままじっとしている。 刑務所では、刑務官が朝の点呼に来るのを受刑者は座って待っているのが決まりだ。例に漏れずAもそうだったらしい。施設の職員から「下に行って顔を洗いましょうか?」と言われるまで立ち上がることはなく、1階に降りて顔を洗い終わっても、今度は職員に対し、直立で一礼していた。 この日は秋晴れだった。だが、その澄み切った空とは対照的に、これから始まる社会生活のゆく先は前途多難で、雲がかかっているかのようだった。 無期懲役は有期刑と違い、刑期に終わりはない。たとえ仮釈放されても、保護観察という制度により国の監督下に置かれる。生活には様々な制限があるため、完全な釈放とは言い切れない。刑の効果は死ぬまで続くのである。「自由が、まだわからん」 Aが出所してもなお、服役を引きずっていることを象徴する会話があった。 食堂にいるAに対して社長が「ここと前にいた刑務所とどっちが良いか」と尋ねたときのことだった。Aは良いとも悪いとも言わず、「これからしばらく考えて、見たり聞いたり習ったりしながら」と答え、「また“仕事”かなんかあるんかな、と思って」と続けた。 社長は不思議そうに「仕事がしたいの?」と尋ねる。Aは間髪入れずに「そういうのここであるんか?」と聞くが、社長は「基本的にはない」と答える。 それもそのはず。高齢者向けに住む部屋をサービスとして提供する老人ホームで、入所者に労働を強いるなど、おかしな話だ。だが、Aは真面目に尋ねているのである。Aのいう「仕事」とは一般的な職業ではなく、「刑務作業」という意味なのだ。刑務作業がない不安をAは訴えていたのだった。 そこで、社長は問いかけた。「でもその代わり、Aさんに自由はあるでしょ? 今、自由じゃない?」 Aは首をかしげながら答えた。「自由って言って……まだわからん。どういうのが自由かがね、まだわからん」 そこで、社長は「この場所でゆっくりのんびり生活していこう」と優しく諭したのだった。その言葉にAはうなずきながら、「のんびり……」と独り言のようにつぶやいた。 懲役は、別名「自由刑」とも呼ばれる。受刑者を刑務所に閉じ込め、身体の移動の自由を奪うことが名称の由来だとされる。仮釈放された今のAには、保護観察などの制約はあるとはいえ、一定の“自由”が与えられているはずだった。 だが、あまりに長い時間、自由を奪われた状態であると、出所した後の変化になじめず、今度は自由が与えられること自体が“罰”のようになってしまうのかもしれない。Aにとっては、それぐらいの大きな環境の変化だ。 “自由が奪われる刑罰から、自由が与えられる刑罰へ”。そんな皮肉めいた現実が目の前にある気がした。謎に包まれた男 仮釈放から1週間、私たち取材班は毎日交代で施設に通い、Aの様子をつぶさに観察していくことにした。だが、長きにわたって染みついた服役生活が1つひとつの行動に表れているようで、Aの主体性や明確な意思を感じとれる場面は少なかった。〈【気になる行動の記録】・他の入所者に話しかけられても、黙ってうなずくだけ。・職員にサポートされて入浴するが、服を脱ぐタイミングや置く場所に迷う。・テレビのリモコンの使い方がわからずに、手に持って首をかしげる。・耳が遠く、歯も抜けていて、口頭での会話が難しい・質問しても聞き取れないのか、多くは「わからん」と返事する。・手書きのメモを示すと、質問の趣旨に沿った回答をすることがある。・「仕事はないのか」とたびたび聞いてくる。・几帳面な性格なのかシャツやタオルをきれいにたたむ。・食事中に「麦飯でないと、白飯は慣れない」と言う。〉「プリゾニゼーション(prisonization)」という言葉がある。『新訂 矯正用語事典』によると、次のように記されている。〈 刑務所化ともいう。拘禁状況への過剰適応の1つと考えられ,感情が平板になり,物事に対する関心の幅が狭くなり,規律や職員の働き掛けに従順に従う。施設・職員に世話をされる状況への順応が,しばしば退行(子供返り)として表れる。無期懲役受刑者において典型的に生じる拘禁反応であるとされ,終わりのない刑に対する諦めの反映と考えられる〉「プリゾニゼーション」「刑務所化」、あるいは俗に「ムショぼけ」などとも呼ばれることもあるそうだが、出所したばかりのAは、まさにこうした言葉を体現したような振る舞いの連続だったと言える。何を聞いても「あんまりわからんね」 私たちは毎日、Aの様子を記録しながら、あわせて過去を知るべく、直接話を聞こうと試みた。最初に話を聞いたのは、元浦ディレクターだった。「昔のことは覚えていますか?」「あんまり、わからんな」「小学校は?」「習っているかもしれん。わからんな。教科書をほとんど見たことがない」「友達は?」「あんまりわからんね」「生まれは?」「……」「刑務所ではどんな生活でした?」「向こうでは……」 会話には応じてくれるものの、Aは戸惑っているのか、あるいは話したくないのか、口数は少なく、話は進まなかった。書かれた文章を理解することはできるようだが… 会話が難しい中、私たち取材班はAに文章を書いてもらうことで、その心情に迫ろうとも考えた。職員の協力も得てノート1冊を渡し、日記のように記録を書いてもらえないかと促したのだった。 だが、やってみると数日と続かなかった。 なぜなら、Aは文章がほとんど書けなかったのだ。 書かれた文章を理解することはできるようだが、自発的に書くことは難しいようだ。職員から1日の出来事などを試しに書くよう勧められたときも、文字を何度も何度もなぞるようにしてようやくこう書いた。〈「ゴハンおいしカつた。洗タク多ミ」 (原文ママ)〉 文章が書けないということは、おそらく刑務所内で日記や記録はつけていないのだろう。 家族や知人と手紙をやりとりした痕跡も見られない。教育を十分に受けていないのだろうか。依然として、過去についてはほとんどが謎に包まれた状態が続いていた。職員の視点と取材班の視点 その大きな違い では、毎日接している施設の職員にはAの姿がどう映っているのだろうか。ある女性職員の1人は次のように話した。「Aさんの印象ですか? 第一印象は“可愛いおじいさん”だなって。物静かな感じですかね。でも、こちらの表情に合わせて、にこって笑ってくれるし、優しそうだなと。最初はぎちぎちに固まっていたんですけども、少し慣れてきたみたいで。朝の身支度は覚えてくれましたね。ただ、日中、他の人との会話がないから、退屈させないようにするにはどうするのがいいのかが、今の課題ですね」 Aの日常生活の支援を最優先で考える職員の視点と、Aの人生そのものに迫りたい私たち取材班の視点は大きく違う。だから、その印象や抱える課題も異なっているのも当然だが、私たちは職員と比べて、もどかしさを感じてしまっていた。(#2に続く)「早く金を出せ」路上でいきなり若い女性に襲いかかり…61年間服役した“日本一長く服役した男”が“残忍な犯行”に及んだ理由 へ続く(杉本 宙矢,木村 隆太/Webオリジナル(外部転載))
そんな男のことを、私たち取材班は「A(さん)」と呼んだ。
1つには、個人情報漏洩やプライバシーを懸念しての対応であった。普段から本名を呼んでいると、ふとした瞬間に外部に情報が漏れてしまうことを危惧したからだ。また、撮影中に実名で呼んでしまうと、撮影した音声が後で使いにくくなってしまうという事情もあった。
その「A」という名称は、後に“日本一長く服役した男”を表す象徴的な意味が込められるようになる。
Aの行動1つひとつには、刑務所での振る舞いや習慣、そして、61年という刑務所内の時の経過、さらには時代のギャップへの戸惑いが表れていた。
仮釈放された当日の午後。あまりに少ないAの所持品を見かねて、生活に必要な品を揃えに、社長がAを買い物に連れ出したときのことだった。
まず向かったのは近場の衣料品店。Aは興味深そうに店舗にある商品を眺めていた。社長に促されて、服を選ぼうとするがなかなか決められない。興味はあちこちに向き、しまいには近くにいた私の、腕まくりしたワイシャツの袖をさわりながら、「これはどうやってやるのか」と聞いてくる。試しに一から袖をまくって見せると「おお、これがわからんのです」と目を輝かせた。
というのも、刑務所では夏服は半袖、冬服は長袖を着用することが決まっていて、自由に長袖をまくれるわけではない。結局、Aは衣料品店で社長に勧められて、パジャマやズボン、下着や靴下、それに長袖のワイシャツも購入したのだった。
その次に来たのは100円ショップ。Aは店舗に入ってすぐに、立ち止まった。そして、棚にかけてある商品の帽子を手に取るやいなや、ひょいっと頭に被って、そのまま歩き出した。遠目には少し不思議な光景だが、 刑務所では着帽の習慣がある。帽子はAの人生になじみ深いもの。だから、ないと落ち着かないのかもしれない。ここでは帽子や洗面具、自室用のゴミ箱などを買った。
この日の買い物で使ったのは、1万円ほど。この費用は、Aが61年の間に刑務作業の作業報酬金として積み立ててきた273万円の中から支払われた。
帰り道の車内、そして施設に戻った後の夕食のとき、Aは購入した帽子をずっと被ったままだった。夕食が終わって部屋に向かおうと食堂から出たとき、Aはようやく脱帽をして一礼した。「ここではそんなことしなくていいですよ」と社長は笑顔で言った。
「Aさん、おはようございます。朝ですよ」
翌朝、午前7時。前日は私も施設の空き部屋に泊まらせてもらい、起床時間に合わせて、施設の職員とともに2階にあるAの部屋を訪れた。扉を開けると、Aは慌てるようにして起き上がり、すかさずベッドの上で正座をした。職員がカーテンを開ける間も、その姿勢のままじっとしている。
刑務所では、刑務官が朝の点呼に来るのを受刑者は座って待っているのが決まりだ。例に漏れずAもそうだったらしい。施設の職員から「下に行って顔を洗いましょうか?」と言われるまで立ち上がることはなく、1階に降りて顔を洗い終わっても、今度は職員に対し、直立で一礼していた。
この日は秋晴れだった。だが、その澄み切った空とは対照的に、これから始まる社会生活のゆく先は前途多難で、雲がかかっているかのようだった。
無期懲役は有期刑と違い、刑期に終わりはない。たとえ仮釈放されても、保護観察という制度により国の監督下に置かれる。生活には様々な制限があるため、完全な釈放とは言い切れない。刑の効果は死ぬまで続くのである。
Aが出所してもなお、服役を引きずっていることを象徴する会話があった。
食堂にいるAに対して社長が「ここと前にいた刑務所とどっちが良いか」と尋ねたときのことだった。Aは良いとも悪いとも言わず、「これからしばらく考えて、見たり聞いたり習ったりしながら」と答え、「また“仕事”かなんかあるんかな、と思って」と続けた。
社長は不思議そうに「仕事がしたいの?」と尋ねる。Aは間髪入れずに「そういうのここであるんか?」と聞くが、社長は「基本的にはない」と答える。
それもそのはず。高齢者向けに住む部屋をサービスとして提供する老人ホームで、入所者に労働を強いるなど、おかしな話だ。だが、Aは真面目に尋ねているのである。Aのいう「仕事」とは一般的な職業ではなく、「刑務作業」という意味なのだ。刑務作業がない不安をAは訴えていたのだった。
そこで、社長は問いかけた。
「でもその代わり、Aさんに自由はあるでしょ? 今、自由じゃない?」
Aは首をかしげながら答えた。
「自由って言って……まだわからん。どういうのが自由かがね、まだわからん」
そこで、社長は「この場所でゆっくりのんびり生活していこう」と優しく諭したのだった。その言葉にAはうなずきながら、「のんびり……」と独り言のようにつぶやいた。
懲役は、別名「自由刑」とも呼ばれる。受刑者を刑務所に閉じ込め、身体の移動の自由を奪うことが名称の由来だとされる。仮釈放された今のAには、保護観察などの制約はあるとはいえ、一定の“自由”が与えられているはずだった。
だが、あまりに長い時間、自由を奪われた状態であると、出所した後の変化になじめず、今度は自由が与えられること自体が“罰”のようになってしまうのかもしれない。Aにとっては、それぐらいの大きな環境の変化だ。
“自由が奪われる刑罰から、自由が与えられる刑罰へ”。そんな皮肉めいた現実が目の前にある気がした。
仮釈放から1週間、私たち取材班は毎日交代で施設に通い、Aの様子をつぶさに観察していくことにした。だが、長きにわたって染みついた服役生活が1つひとつの行動に表れているようで、Aの主体性や明確な意思を感じとれる場面は少なかった。
〈【気になる行動の記録】
・他の入所者に話しかけられても、黙ってうなずくだけ。
・職員にサポートされて入浴するが、服を脱ぐタイミングや置く場所に迷う。
・テレビのリモコンの使い方がわからずに、手に持って首をかしげる。
・耳が遠く、歯も抜けていて、口頭での会話が難しい
・質問しても聞き取れないのか、多くは「わからん」と返事する。
・手書きのメモを示すと、質問の趣旨に沿った回答をすることがある。
・「仕事はないのか」とたびたび聞いてくる。
・几帳面な性格なのかシャツやタオルをきれいにたたむ。
・食事中に「麦飯でないと、白飯は慣れない」と言う。〉
「プリゾニゼーション(prisonization)」という言葉がある。『新訂 矯正用語事典』によると、次のように記されている。
〈 刑務所化ともいう。拘禁状況への過剰適応の1つと考えられ,感情が平板になり,物事に対する関心の幅が狭くなり,規律や職員の働き掛けに従順に従う。施設・職員に世話をされる状況への順応が,しばしば退行(子供返り)として表れる。無期懲役受刑者において典型的に生じる拘禁反応であるとされ,終わりのない刑に対する諦めの反映と考えられる〉
「プリゾニゼーション」「刑務所化」、あるいは俗に「ムショぼけ」などとも呼ばれることもあるそうだが、出所したばかりのAは、まさにこうした言葉を体現したような振る舞いの連続だったと言える。
私たちは毎日、Aの様子を記録しながら、あわせて過去を知るべく、直接話を聞こうと試みた。最初に話を聞いたのは、元浦ディレクターだった。
「昔のことは覚えていますか?」
「あんまり、わからんな」
「小学校は?」
「習っているかもしれん。わからんな。教科書をほとんど見たことがない」
「友達は?」
「あんまりわからんね」
「生まれは?」
「……」
「刑務所ではどんな生活でした?」
「向こうでは……」
会話には応じてくれるものの、Aは戸惑っているのか、あるいは話したくないのか、口数は少なく、話は進まなかった。
会話が難しい中、私たち取材班はAに文章を書いてもらうことで、その心情に迫ろうとも考えた。職員の協力も得てノート1冊を渡し、日記のように記録を書いてもらえないかと促したのだった。
だが、やってみると数日と続かなかった。
なぜなら、Aは文章がほとんど書けなかったのだ。
書かれた文章を理解することはできるようだが、自発的に書くことは難しいようだ。職員から1日の出来事などを試しに書くよう勧められたときも、文字を何度も何度もなぞるようにしてようやくこう書いた。
〈「ゴハンおいしカつた。洗タク多ミ」 (原文ママ)〉
文章が書けないということは、おそらく刑務所内で日記や記録はつけていないのだろう。
家族や知人と手紙をやりとりした痕跡も見られない。教育を十分に受けていないのだろうか。依然として、過去についてはほとんどが謎に包まれた状態が続いていた。
では、毎日接している施設の職員にはAの姿がどう映っているのだろうか。ある女性職員の1人は次のように話した。
「Aさんの印象ですか? 第一印象は“可愛いおじいさん”だなって。物静かな感じですかね。でも、こちらの表情に合わせて、にこって笑ってくれるし、優しそうだなと。最初はぎちぎちに固まっていたんですけども、少し慣れてきたみたいで。朝の身支度は覚えてくれましたね。ただ、日中、他の人との会話がないから、退屈させないようにするにはどうするのがいいのかが、今の課題ですね」
Aの日常生活の支援を最優先で考える職員の視点と、Aの人生そのものに迫りたい私たち取材班の視点は大きく違う。だから、その印象や抱える課題も異なっているのも当然だが、私たちは職員と比べて、もどかしさを感じてしまっていた。(#2に続く)
「早く金を出せ」路上でいきなり若い女性に襲いかかり…61年間服役した“日本一長く服役した男”が“残忍な犯行”に及んだ理由 へ続く
(杉本 宙矢,木村 隆太/Webオリジナル(外部転載))

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

SNSでもご購読できます。