リンゼイさん事件「市橋達也」獄中の日々 元受刑者が明かす“ファンから多額の差し入れ”に“運動会では大声援”

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今年4月12日。満開の桜が散り始めたとはいえ、信州地方はまだ花冷えがしていた。この日、長野県須坂市にある長野刑務所から一人の男性が仮釈放された。山内博さん(仮名)、44歳。およそ1年半ぶりに娑婆の空気に触れ笑顔を見せた。短髪に半袖のTシャツ姿。やや疲れたような表情を見せたものの、比較的元気そうな姿だった。コンビニでコーヒーと煙草を購入、千曲川沿いで久しぶりに一服ついた。
【写真を見る】市橋達也受刑者の逮捕までの道のりとリンゼイ・アン・ホーカーさんの在りし日の姿 山内さんは2019年5月、まったく身に覚えのない罪でいきなり逮捕、起訴された。取調べでも公判でも一貫して否認。公判記録を精査しても、濡れ衣であることは明白だった。一審は無罪判決。ホッとしたのも束の間、二審で逆転の懲役2年の有罪、しかも初犯にも関わらず実刑だった。最高裁では棄却され刑が確定してしまった。市橋達也受刑者 いい加減な司法への疑念を感じながら、山内さんは2021年に下獄。出頭した上越拘置所から新潟刑務所に収監。その後、川越少年刑務所を経て、2022年2月に長野刑務所に移り、ここで1年2ヵ月を過ごした。「長野刑務所は建物も部屋も、他の刑務所より過ごしやすかった。食事や布団が温かくよかった。川越や新潟は寒すぎてヤバかった。しもやけができたけど、長野で治ったよ」(山内さん。以下「」内は山内さん) 長野刑務所は、受刑者のあいだでも特に人気が高い。外からの風が流入せずとても暖かかいのがその理由の一つなのだという。あの市橋達也が「夜、寝るときなんか、川越では衣類を4枚重ね着していても寒かったけど、長野では下着のシャツとパジャマの2枚だけでまったく寒くなくよく眠れた。そして何より温かい飯が嬉しかった。温かい飯は家で食べて以来だから本当に嬉しかった。白米と麦が7対3くらいの割合でちゃんと食える飯だった」 刑務所は、犯罪傾向の進んでいない者、主に初犯者を収容するA級と、再犯や累犯、反社会的勢力など、主に犯罪の進んでいる者を収容するB級に分けられる。暴力団関係者などは初犯であっても再犯と同等のB級に分類されることがある。山内さんが収容された長野刑務所は、2010年から収容分類B級が収容対象に加えられた。そのため山内さんのような短期刑の受刑者のみならず、長期刑の受刑者も収容されている。 その中の一人に、あの市橋達也受刑者(44)がいたという。 市橋受刑者は2007年3月、千葉県市川市の自宅マンションで、英会話学校の外国人講師リンゼイ・アン・ホーカーさん(当時22)を絞殺する事件を起こした。警察の制止を振り切って裸足のまま逃走した、市橋容疑者の逃亡劇は約2年7ヵ月におよび、社会を震撼させた。各地を転々とし、整形を繰り返したり、沖縄の無人島で自給自足生活をしたりしながら逃げ回るなど、過酷な逃亡生活を送って、2009年11月に通報を受けた警察によって大阪南港フェリーターミナルで逮捕された。2012年、一連の事件の裁判が終わり、市橋受刑者は無期懲役囚となり現在、長野刑務所に収監されているのだ。市橋、頑張れ「市橋くんは10工場にいた。そこが何をする工場かは定かではないけど、その10工場にいた奴が転業で俺のいた洗濯工場に来たんです。詐欺で懲役4年のそいつの話だと、市橋くんは他の人間とはあまり関わりを持たないように注意していたらしい。気を許した人とだけ付き合っていたという。同じ10工場でも、話しかけても気を許していない人間だと返事もしない状態だったんだって」 ここ数年はコロナの影響で中止になっているが、刑務所内では年1回の運動会が開催される。「俺がいるとき運動会はなかったけど、市橋くんは、足がバカ速いんだって。リレーなんかも無茶苦茶速くて他を寄せつけずごぼう抜きにするくらいだそうだよ。市橋くんが走るときなんか、“市橋、頑張れ”なんて声援がたくさん飛ぶくらい」 刑務所には食事を作る炊場(すいじょう)工場、刑務所内を掃除する内掃工場など、受刑者が生活するために必要な作業をする「経理工場」がある。洗濯工場もそのひとつで、洗濯の他にボタンを付けたりする裁縫といった作業も行っている。山内さんは洗濯工場で、受刑者の下着、シャツ、靴下、工場着の洗濯、裁縫などを担当していた。丁寧な字で「自分の洗濯ものに、ワッカ(札)のようなものをつけ、そこに自分のロッカー番号を書く。そのワッカを衣類に縫い付けることも俺らがやっていた。そこに市橋くんの称呼番号の衣類が来ると、みんな意地悪だから物凄く雑に、適当に縫う。あるとき、俺が市橋くんの衣類のワッカを丁寧に縫ってあげたんだ、それからずっと。すると、2ヵ月くらいしてから市橋くんの洗濯ものの袋に書いてある称呼番号の上に、丁寧な字で『市橋』って書くようになったんだよ。“丁寧に縫ってあるなあ”っていうのが多分、彼にはわかってるんだと思うな。それで、自分をアピールする意味と感謝の気持ちを込めて苗字を書くようになったと俺は思ってる。きれいに縫ってあれば誰でもうれしいからさ」 市橋受刑者の居室は、山内さんとは棟が異なったためほとんど顔を合わせることはなかったが、「市橋くんは多分、独居房にいたと思う」。ただ、荷物を運んだときなどに見かけたことがあり、「特徴があるからすぐにわかったよ」 マスクをしているため表情まではわからなかったが、もさっとして下を向いていたという。 下獄する際、山内さんは10万円を持参し、領置金として刑務所側に預け、出所する際に残金は約3万6000円。使ったのは、筆記用具、便箋、ノート、パンツ、シャツ、靴下などの日用品だった。洗濯工場での報奨金は、およそ1年半で1万9669円だった。これは使わずに出所の際に受け取ったそうだ。100万円ほどの所持金 山内さんがいた洗濯工場の中には計算室があり、通常5人のパソコンに強い受刑者がいた。受刑者の報奨金(給与)の計算や、差し入れ金がいくら入り、残金がどのくらいあるかなどの計算を行う。「おカネの話はご法度なんだけど、仲良くなった計算室の奴によると、市橋くんは物凄くカネを持っているというんだ」 金額の詳細までは不明だが、支援者らが数万円単位を頻繁に差し入れるので、恐らく100万円ほど貯まっているのではないか、という。「相模原の障害者施設の殺傷事件でも、安倍首相暗殺事件でも、犯人を熱烈に崇拝する支援者がいて、同じように差し入れをしているという 。市橋くんにもそうしたファンのような人がたくさんにいるようだよ」 そして市橋受刑者には、毎月必ず、両親が揃って面会に訪れているという。その際にも差し入れがあったようだ。「たとえば、面会時間の30分は仕事の時間にはカウントされず給与から差し引かれるんだけど、市橋くんはカネがあるから、そんなことは意に介さない様子だそうだよ。そればかりか、パンツや靴下など、しょっちゅう新品を購入し、ほとんど使い捨てのように使っているらしいよ。だいたい1週間分の7セットの衣類を持っていて、それが1ヵ月か2ヵ月で全部新品に入れ替わっているようだった」1000番台の意味 刑務所内では称呼番号が使われる。懲役10年以上は「1000」番台。山内さんは懲役2年だったので「200」番台だったという。だから市橋受刑者は「1000」番台だった。 無期懲役は、仮釈放が認められると社会に復帰して通常の生活に復帰することも可能である。しかし、無期懲役囚の仮釈放はそう簡単に認められるわけではない。刑法28条によれば、刑の起算日から10年が経過し、受刑者に改悛の状があれば仮釈放が認められることになっている。しかし、実際の運用では、10年で仮釈放が許されるケースは事実上ない。 現在、有期懲役の上限が30年であるため(刑法14条2項)、それより重い刑罰である無期懲役の受刑者を30年以内に仮釈放することは適当でないと考えられているため、法務省保護局長の「無期刑受刑者に係る仮釈放審理に関する事務の運用について」という通達によれば、無期懲役の受刑者の仮釈放については、刑の執行開始から30年が経過した時点で初回の審理を開始するものとされている。2021年に仮釈放が許可された無期懲役の受刑者数はわずか9人で、同年末には1725人が無期懲役刑で服役していた。従って1年間に無期懲役からの仮釈放が許可される人の割合は、わずか0.5%でしかない。その平均収容期間は32年10ヵ月だ。 市橋受刑者がもし仮釈放されるとしても、まだまだ遠き道だ。 山内さんは釈放され、日常を取り戻した。明らかな濡れ衣だった。怒りは収まらないが、現在は収監前の仕事に戻ることができ、「いまは目の前の仕事に集中したい」 と、失われた1年半を必死で取り戻している。ノンフィクションライター 青柳雄介デイリー新潮編集部
山内さんは2019年5月、まったく身に覚えのない罪でいきなり逮捕、起訴された。取調べでも公判でも一貫して否認。公判記録を精査しても、濡れ衣であることは明白だった。一審は無罪判決。ホッとしたのも束の間、二審で逆転の懲役2年の有罪、しかも初犯にも関わらず実刑だった。最高裁では棄却され刑が確定してしまった。
いい加減な司法への疑念を感じながら、山内さんは2021年に下獄。出頭した上越拘置所から新潟刑務所に収監。その後、川越少年刑務所を経て、2022年2月に長野刑務所に移り、ここで1年2ヵ月を過ごした。
「長野刑務所は建物も部屋も、他の刑務所より過ごしやすかった。食事や布団が温かくよかった。川越や新潟は寒すぎてヤバかった。しもやけができたけど、長野で治ったよ」(山内さん。以下「」内は山内さん)
長野刑務所は、受刑者のあいだでも特に人気が高い。外からの風が流入せずとても暖かかいのがその理由の一つなのだという。
「夜、寝るときなんか、川越では衣類を4枚重ね着していても寒かったけど、長野では下着のシャツとパジャマの2枚だけでまったく寒くなくよく眠れた。そして何より温かい飯が嬉しかった。温かい飯は家で食べて以来だから本当に嬉しかった。白米と麦が7対3くらいの割合でちゃんと食える飯だった」
刑務所は、犯罪傾向の進んでいない者、主に初犯者を収容するA級と、再犯や累犯、反社会的勢力など、主に犯罪の進んでいる者を収容するB級に分けられる。暴力団関係者などは初犯であっても再犯と同等のB級に分類されることがある。山内さんが収容された長野刑務所は、2010年から収容分類B級が収容対象に加えられた。そのため山内さんのような短期刑の受刑者のみならず、長期刑の受刑者も収容されている。
その中の一人に、あの市橋達也受刑者(44)がいたという。
市橋受刑者は2007年3月、千葉県市川市の自宅マンションで、英会話学校の外国人講師リンゼイ・アン・ホーカーさん(当時22)を絞殺する事件を起こした。警察の制止を振り切って裸足のまま逃走した、市橋容疑者の逃亡劇は約2年7ヵ月におよび、社会を震撼させた。各地を転々とし、整形を繰り返したり、沖縄の無人島で自給自足生活をしたりしながら逃げ回るなど、過酷な逃亡生活を送って、2009年11月に通報を受けた警察によって大阪南港フェリーターミナルで逮捕された。2012年、一連の事件の裁判が終わり、市橋受刑者は無期懲役囚となり現在、長野刑務所に収監されているのだ。
「市橋くんは10工場にいた。そこが何をする工場かは定かではないけど、その10工場にいた奴が転業で俺のいた洗濯工場に来たんです。詐欺で懲役4年のそいつの話だと、市橋くんは他の人間とはあまり関わりを持たないように注意していたらしい。気を許した人とだけ付き合っていたという。同じ10工場でも、話しかけても気を許していない人間だと返事もしない状態だったんだって」
ここ数年はコロナの影響で中止になっているが、刑務所内では年1回の運動会が開催される。
「俺がいるとき運動会はなかったけど、市橋くんは、足がバカ速いんだって。リレーなんかも無茶苦茶速くて他を寄せつけずごぼう抜きにするくらいだそうだよ。市橋くんが走るときなんか、“市橋、頑張れ”なんて声援がたくさん飛ぶくらい」
刑務所には食事を作る炊場(すいじょう)工場、刑務所内を掃除する内掃工場など、受刑者が生活するために必要な作業をする「経理工場」がある。洗濯工場もそのひとつで、洗濯の他にボタンを付けたりする裁縫といった作業も行っている。山内さんは洗濯工場で、受刑者の下着、シャツ、靴下、工場着の洗濯、裁縫などを担当していた。
「自分の洗濯ものに、ワッカ(札)のようなものをつけ、そこに自分のロッカー番号を書く。そのワッカを衣類に縫い付けることも俺らがやっていた。そこに市橋くんの称呼番号の衣類が来ると、みんな意地悪だから物凄く雑に、適当に縫う。あるとき、俺が市橋くんの衣類のワッカを丁寧に縫ってあげたんだ、それからずっと。すると、2ヵ月くらいしてから市橋くんの洗濯ものの袋に書いてある称呼番号の上に、丁寧な字で『市橋』って書くようになったんだよ。“丁寧に縫ってあるなあ”っていうのが多分、彼にはわかってるんだと思うな。それで、自分をアピールする意味と感謝の気持ちを込めて苗字を書くようになったと俺は思ってる。きれいに縫ってあれば誰でもうれしいからさ」
市橋受刑者の居室は、山内さんとは棟が異なったためほとんど顔を合わせることはなかったが、「市橋くんは多分、独居房にいたと思う」。ただ、荷物を運んだときなどに見かけたことがあり、
「特徴があるからすぐにわかったよ」
マスクをしているため表情まではわからなかったが、もさっとして下を向いていたという。
下獄する際、山内さんは10万円を持参し、領置金として刑務所側に預け、出所する際に残金は約3万6000円。使ったのは、筆記用具、便箋、ノート、パンツ、シャツ、靴下などの日用品だった。洗濯工場での報奨金は、およそ1年半で1万9669円だった。これは使わずに出所の際に受け取ったそうだ。
山内さんがいた洗濯工場の中には計算室があり、通常5人のパソコンに強い受刑者がいた。受刑者の報奨金(給与)の計算や、差し入れ金がいくら入り、残金がどのくらいあるかなどの計算を行う。
「おカネの話はご法度なんだけど、仲良くなった計算室の奴によると、市橋くんは物凄くカネを持っているというんだ」
金額の詳細までは不明だが、支援者らが数万円単位を頻繁に差し入れるので、恐らく100万円ほど貯まっているのではないか、という。
「相模原の障害者施設の殺傷事件でも、安倍首相暗殺事件でも、犯人を熱烈に崇拝する支援者がいて、同じように差し入れをしているという 。市橋くんにもそうしたファンのような人がたくさんにいるようだよ」
そして市橋受刑者には、毎月必ず、両親が揃って面会に訪れているという。その際にも差し入れがあったようだ。
「たとえば、面会時間の30分は仕事の時間にはカウントされず給与から差し引かれるんだけど、市橋くんはカネがあるから、そんなことは意に介さない様子だそうだよ。そればかりか、パンツや靴下など、しょっちゅう新品を購入し、ほとんど使い捨てのように使っているらしいよ。だいたい1週間分の7セットの衣類を持っていて、それが1ヵ月か2ヵ月で全部新品に入れ替わっているようだった」
刑務所内では称呼番号が使われる。懲役10年以上は「1000」番台。山内さんは懲役2年だったので「200」番台だったという。だから市橋受刑者は「1000」番台だった。
無期懲役は、仮釈放が認められると社会に復帰して通常の生活に復帰することも可能である。しかし、無期懲役囚の仮釈放はそう簡単に認められるわけではない。刑法28条によれば、刑の起算日から10年が経過し、受刑者に改悛の状があれば仮釈放が認められることになっている。しかし、実際の運用では、10年で仮釈放が許されるケースは事実上ない。
現在、有期懲役の上限が30年であるため(刑法14条2項)、それより重い刑罰である無期懲役の受刑者を30年以内に仮釈放することは適当でないと考えられているため、法務省保護局長の「無期刑受刑者に係る仮釈放審理に関する事務の運用について」という通達によれば、無期懲役の受刑者の仮釈放については、刑の執行開始から30年が経過した時点で初回の審理を開始するものとされている。2021年に仮釈放が許可された無期懲役の受刑者数はわずか9人で、同年末には1725人が無期懲役刑で服役していた。従って1年間に無期懲役からの仮釈放が許可される人の割合は、わずか0.5%でしかない。その平均収容期間は32年10ヵ月だ。
市橋受刑者がもし仮釈放されるとしても、まだまだ遠き道だ。
山内さんは釈放され、日常を取り戻した。明らかな濡れ衣だった。怒りは収まらないが、現在は収監前の仕事に戻ることができ、
「いまは目の前の仕事に集中したい」
と、失われた1年半を必死で取り戻している。
ノンフィクションライター 青柳雄介
デイリー新潮編集部

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