「ラブホの部屋で“人体骨格図”を調べて…」“地雷系メイク嬢”小原麗被告の壮絶な犯行全容と、芽生えた母の思い「この子であるモノを残したかった」《錦糸町・乳児遺棄事件》

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「最初は『流産してしまえばいい』とよぎることもありました。でも胎動を感じてから、『この子を産み切ろう』と考えるようになった」──死体遺棄などの罪に問われている小原麗被告は、裁判官の質問に対して涙ながらにこう話した。
【写真】〈21時半くらいから本格的に痛くなった。4時前に破水。5時すぎ出産。6時すぎに静かになった〉小原麗被告が出産の状況を綴った”裏アカ”、”地雷系メイク”のプロフィールなど
勤務先の風俗店の待機所内にある、たった1畳ほどのスペースで出産し、我が子を切り刻んだ彼女の心の内はどんなものだったのか──。法廷で語られた壮絶な経緯を、本人の証言をもとに振り返る。【前後編の後編。前編から読む】
陣痛が始まったのは昨年3月2日夜のこと。被告は同日17時まで働き、19~20時ごろに体調の変化に気づく。店に体調不良を伝え、いつも寝泊まりしていた待機所の「1番ブース」に寝転がって休もうとした。
「初めは『寝たら治るだろう』と思いましたが、21~22時ごろから腹痛が強まってきた。日が変わる頃には完全に陣痛だと気づき、トイレと休憩スペースを行き来しましたが、そのうち動けなくなった。当時は1人ということもあって『死ぬかも』と感じました。頭がいっぱいで、助けを求めるという選択肢はなく、1人で生むしかないと考えた」(小原被告)
赤ちゃんが生まれたのは翌3日の朝5時過ぎころだ。証言によれば、出産時にこの赤ちゃんはすでに亡くなっていたとみられる。
「目をつむり、人形みたいに動かなかった。生きて産んであげられなかったことを申し訳なく思った記憶があります。お腹のあたりに抱き寄せて、体調を確認しようとしましたが、その後に意識がなくなってしまいました。
次に起きたとき、赤ちゃんは青白く、冷たくなっていました。産んだ直後も死んでいると思いましたが、このとき改めて死を認識した。自分も体調が悪く動けず、頭がいっぱいで通報は考えられなかったです」(同前)
さらにわかったことがある。被告はXの鍵つきアカウントで、この出産までの様子を”記録”していたというのだ。被告人質問で本人はこのアカウントを「自分の考えたことを整理したり吐き出す場所だった」と説明している。
実際に綴られた文章は以下のとおりである。
〈21時半くらいから本格的に痛くなった。4時前に破水。5時すぎ出産。6時すぎに静かになった〉
“静かになった”という文言については、赤ちゃんの様子ではなく自身の耳鳴りを表したものだと被告は語っているが、真意は定かでない。
被告はその後、寝たり起きたりを繰り返した。次に被告の頭をよぎったのは、遺体をどう”保存”するかだ。
検察官の質問に小原被告が答える。
「亡くなっているが、火葬や遺棄もできない。そばに置きたい、この子であるモノを残したいと思った。最初は『頭部だけでも残したい』と考えて、手元に置いておける大きさに切ろうと決意しました。犯行前日には、すでに意思が固まっていた。切断するまではコンビニのロックアイスで冷やして腐敗を防ごうとしました」
3月6日、被告は錦糸町のコンビニ2軒に立ち寄り、カッターやビニール、紙袋などを購入。大きいバッグに遺体を詰め、風俗の仕事で馴染みがあったラブホテルへと向かう。
「部屋に入ってから、食事をしたり寝て体を休めたりしました。できる限り綺麗に、安全に切りたかったので、まずスマホで”人体骨格図”などを調べてから作業を始めた。両肩から切りました。なかなかすぐには切れず、大きいカッターに持ち替えるなどしましたが、すんなりとはいきませんでした。ぐちゃっとしないよう、刃を動かしすぎないなど工夫もした。解体中はなにか考えると(作業が)できなくなりそうで、顔も見ないようにした。
続けて太もも、首と切っていきました。タッパーに入り切らないとわかると、さらに肘と膝の関節を細かく切断もした。頭は入り切らず、紙皿に包んで冷凍庫に入れました。保存したのは頭と手足だけで、ほかは待機所のゴミ箱に捨てました」(同前)
被告は解体前、「この子がこの子であるのは今しかない」などと考えたことから、スマートフォンで遺体の撮影も複数回、行ったという。遺体が発見されるまで、何度か遺体の”確認”もしており、被告は当時の様子について「『あの子がいる』と確認にいった。安心感とも違います。そばにいると確かめたかったのだと思います」などとも明かした。
「いつか見つかるとは思っていました。私は考えることから逃げてしまった。”後回し”を続けた結果です。最初は『流産してしまえばいい』とよぎることもありましたが、故意ではないです。胎動を感じてから、『この子を産み切ろう』と考えるようになった。母親として、安全に子どもを産める環境を整えるべきだったと今は思います」
公判の最後には、裁判官からの質問もあった。被告は絞り出すように、自身の思いを語った。
「(人を頼るのが苦手なことに関して)まずは母親とコミュニケーションをとり、少しずつ幅を広げていけたらと思います。まず1つ相談できる場所をしっかり作りたい。
母親として資格がないと思い、赤ちゃんに名前はつけませんでした。生まれたのはひな祭りの日でした。生きて産んであげられたら、楽しいこともあっただろうと思ってしまいます」
検察側は拘禁刑2年を求刑し、弁護側は執行猶予付きの判決を求め、即日結審した。判決は3月23日に言い渡される予定だ。”愛ゆえ”の犯行が、どれほど酌量されるのかが争点になる。
(後編了。前編から読む)

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