「子どもを産むつもりはなかった」、そう考えていた女性が出産。その心境の変化と、子育てを取り巻く状況はどうだったのかについてインタビューしました(写真:buritora / PIXTA)
多様な角度から子どもを「産む・産まない」「持つ・持たない」論に迫る本連載。
子どもを産もうか、産むまいか――今回はこの問題に悩んだ末に子どもを産んだ2人の女性の例を紹介する。境遇も住む地域も異なる2人の葛藤には、少子化問題を理解するヒントになりそうな共通点があった。
【この連載の記事をあわせて読む↓】*「社会から取り残される焦りが半端なかった」。「母親になって後悔」した彼女のこれまでと現在地*「子どもの熱で休む同僚が悪いわけではないが…」”子持ち様”論争はなぜ起きるのか 職場に潜む分断の“根っこ”とは?
39歳の会社員、Hさんは3歳上の公務員の夫、3歳の息子と暮らす。Hさんは以前、子どもを産みたくなかったという。その主な原因は、三世代家族で地方在住の実家にあった。
「家父長制の雰囲気が強い家で、父はいつも高圧的。母は魚の端っこしか食べられず、風呂も残り湯。嫁いびりもある。結婚して子どもを持ったら、人権がなくなる気がしていました」と語る。
しかしHさんの夫は、リベラルな両親から家父長制への問題意識を教わり、大学でフェミニズムと政治を学んでいた。自立志向が強かった70歳の義母は、元教員でデモに参加したこともある。義父も労働組合で働き、権利を確立する大切さを学んでいた。
「実家=一般的な家族」という刷り込みがある人は多い。Hさんも29歳で結婚したときは、「夫も子どもができれば、自分の父のようになるかもしれない」「結婚したらいろいろ我慢しなければならないのでは」という懸念が拭えなかったという。
そのため結婚当初は「家や結婚なんて破綻するに決まっている、みたいな気持ちで無意識に夫を試していた」というHさん。
連日飲みに行って早朝、タクシーで帰る日もあったが、Hさんの夫は怒るどころか、「今から朝ご飯のパンを買いに行くけど、何かいるものある?」と自然体で接した。
「怒らないどころかケアまでしてもらって、びっくりしました。尊重してくれるこの人となら、私が思っていたのとは違う家族ができるかな、と考え始めました」
子どもを産むかどうか迷い続けて35歳になった頃、人生の転機がやってきた。2020年の12月、長年の友人たちと開いた忘年会で「やっぱり産まない」と言ったHさんは翌年3月、同じメンバーに「やっぱり産むわ」と宣言していたのだ。
気持ちが急変した理由は2つ。1つは勤務先の中小企業で管理職となったものの、飲みに行く社長に同伴させられる機会が増えたことだ。
「『うちには女性管理職がいます』とアピールするパンダみたいに使われ、空虚な時間を過ごしている感覚がありました。コロナ禍で在宅勤務が増えたこともあり、何か変えなければいけないタイミングだ、と強く思ったんです」
2つ目は、実家に顔を出してすぐ父親と口論になり、5分で家を出てビジネスホテルに泊まったときの出来事。翌日、ホテルに訪ねてきた母と話すうち、母が周りから孫のことを尋ねられるのが嫌で、楽しみにしていた華道教室に行かなくなったことを知った。
「母をかわいそうと思ったときに、『私は何を恨んでいるんだろう』と考えたんです。家父長制度を再生産したくない、と頭で捉えてきたけれど、夫の実家のような家もある。実家と違う形の子育てができるかな、と思い始めたんです」
病院で検査を受けて妊娠可能とわかると、妊活をして2021年7月に妊娠。そこから夫婦で子育て情報を調べ、経験者に話を聞き、陥りがちな失敗や突発的なできごとへの対応策を練り、「お互いにオーナーシップを持って臨む」と約束する。
職場には1年育休を取ったのち復帰し、半年働いたあと転職した。夫も半年間育休を取り、その間、一緒に子育てするベースを築いていった。
オーナーシップ体制には、亡くなった義父を除く3人の親たちも参加。自分の父については心配したが、子どもの前では高圧的に振る舞わないので、車の運転を頼むようになった。通える距離に住む義母は週に1度、実の母もときどき来る。料理が得意な実母には料理を、掃除が得意な義母には掃除を手伝ってもらう。
おかげでHさんは月に1度の出張に行き、友人とも会えている。夫は好きなサッカーの試合に行き、義母も海外旅行をする。
「私は『誰かのために生きる』状態になりたくないし、家族にもそうなってほしくない。子育ても分割し、得意なことを得意な人がやれば楽しみにもなり、余裕が生まれると自分の子も『かわいい』と思えます」
しっかり研究したうえで徹底させた協力体制が、充実した今につながっているのだ。
45歳の会社員で1歳下の会社員の夫、2歳半の息子と暮らすTさんは、仕事の枷(かせ)になりそうな子育てをしたいとは思わなかった。しかし、夫が子どもを欲しいなら、その気持ちは尊重したいと考えていた。
35歳で結婚後、夫には折に触れ「どうしても欲しいなら、当事者という覚悟をして」と伝えてきた。Tさんが41歳になった頃、いざ欲しくなっても可能性がないと困る、と夫婦で不妊の検査を受けたところ、2人とも問題がなかった。
その直後、夫から「やっぱり子どもを育ててみたい」と言われた。Tさんも覚悟を決めて体外受精に臨み、2回目の挑戦で妊娠。
実家と折り合いがよくなかったTさんは、親に頼れば口出しもされると警戒していたが、「イタリアのゴッドマザーみたいな義母」のもとで育った夫は、自分の実家の近所に引っ越そうと言っていた。
中学生と小学生の子どもがいてフルタイム勤務の義姉、小学生から保育園生まで3人の子がいる時短勤務の義妹は、徒歩圏内に住む義母によく子どもを預けており、義実家が保育園のようになっていた。10年で義実家に馴染んできたTさんは夫の意向を受け入れ、近くへ転居する。
一番大変だったのは、出産後の痛みだ。無痛分娩を選んだが、会陰切開した傷の回復に時間がかかり、3カ月間はまともに歩けなかった。その際、あらかじめ母乳とミルクの混合授乳、新生児の頃も夜中は夫がミルクを与えると決めていたことを、心からよかったと思ったそうだ。
夫は「できるだけ自分で子どもの面倒を見たい」と、職場でも例がない1年3カ月も育休を取得した。Tさんの育休は半年間。夫は地域の保育クラブに毎日通ってママ友を作り、しばしば実家で息抜きも楽しみ、職場復帰する際「こんなに楽しい1年はなかった」と述懐していたという。
Tさんが職場復帰後、息子は父によくなついていた。「保育園に入れた直後は、夫を求めて泣きましたし、義母は『母性とか性別に関係ないことがよくわかった』と言っていました」とTさん。
しかし夫が職場に戻ると、どちらへも同じようになつくようになった。夜の会食が多い夫婦は、日常の育児を交代制にしている。保育園へ送った親が迎えに行き、その後寝つくまで世話をする。その日、もう1人は残業も会食もできる。
息子に対しては、「自由に楽しく生きてほしい。寂しがらない程度に介入しすぎないようにしよう」と考えているそうだ。「話し合ってきた蓄積で今があるので、その時間は必要だった。産んだ後悔はしていません」と振り返るTさん。
2人の経験談から、大きく分けて2つのことが見えてきた。
1つは、彼女たちが母親に自己犠牲を求めすぎる社会に疑問を持っていたことだ。
私たちの社会は、母親は何でも受け入れる「神聖な存在」と特別視しがちだ。その影響を彼女たちの両親も受けていたことが、結果的に娘との関係を難しくしたように思える。しかし、個人が主体性を持って生きる時代に、もはやその価値観は通用しない。
もう1つは、子育てに何人もが関わる古来の習慣を取り戻した点だ。サラリーマン社会になって母親のワンオペ育児が浸透するまで、子育てには多彩な人が関わってきた。幼い子どもの世話を、本当は1人でできるはずがないのだ。
少子化の大きな要因は、母親頼みの価値観ではないか。
母親が自分自身でいられる時間を確保できれば、仕事や社交もできる。他の家族も子育てに関われば、子どもとの絆も深まり、子どもを通して他の家族とつながれる。そして、子どもも多彩な価値観を知って柔軟に育つだろう。
それでもさらに「女性が子どもを産みたがらない」と責任を”母親予備軍”に押し付け続けるなら、少子化が改善する日は来ないのではないだろうか。
【この連載の記事をあわせて読む↓】*「社会から取り残される焦りが半端なかった」。「母親になって後悔」した彼女のこれまでと現在地*「子どもの熱で休む同僚が悪いわけではないが…」”子持ち様”論争はなぜ起きるのか 職場に潜む分断の“根っこ”とは?
連載の一覧はこちら
(阿古 真理 : 作家・生活史研究家)