一家の大黒柱を失ったとき、残された家族への公的な保障が遺族年金です。そのルールは何とも複雑。想定していた金額と大幅に違うということも珍しくありません。
60歳で定年退職したあとに関連会社に転籍。契約社員として働いていた西村浩さん(仮名・72歳)。月々の収入は約22万円、手取りにすると18万円ほど。妻・由美子さん(仮名・67歳)との暮らしを賄うのに十分な金額でした。ちょうど「そろそろ仕事を辞めて、ゆっくりしようかな」と夫婦で話していた矢先、浩さんが自宅で突然の心臓発作に見舞われ、帰らぬ人となってしまいました。長年連れ添った伴侶との突然の別れ。夫婦水入らずの穏やかな老後を当たり前のように想像していた由美子さんのショックは大きく、葬儀の間、ずっと放心状態。そのあと襲ってきたのは、言葉では言い表せないほどの深い悲しみでした。
心配した周囲の人たちは「しっかりしないと、浩さんに心配かけるよ」と励まします。徐々に落ち着きを取り戻す由美子さん。しかし、ふとした瞬間に、夫のいない現実が重くのしかかり、「私、これからどうやって生活していけばいいんだろう」という不安に襲われました。これまで浩さんの収入で生活してきたので、生活費が足りるのか心配になったのです。頼りにしてきた夫を失い、これから一人で生きていかなければならないという心細さが、由美子さんをさらに追い詰めます。
由美子さん自身は65歳から年金受給を開始。老齢基礎年金と老齢厚生年金を合わせて月10万円。これではとても生活できず、貯金を取り崩す必要があります。「どうしたものか」と途方に暮れる由美子さんに、親戚から様々なアドバイスが寄せられます。「浩さんは年金を繰り下げていたから、本来であれば結構な額の年金をもらえるのではないか」「由美子さんは遺族年金をもらえるはず。浩さんの年金の4分の3はもらえるはずだから」「早く年金事務所に手続きしに行ったほうがいい」と、親戚は口々に由美子さんを急かします。
年金の繰下げ受給は、本来65歳から受け取る老齢年金を、66~75歳の間で遅らせる制度。1ヵ月遅らせるごとに0.7%年金は増額され、浩さんの年金は60.2%(72歳2ヵ月)増える計算です。もし浩さんが65歳で年金を受け取っていれば、併給の基礎年金と合わせて19.7万円ほど。その1.62倍、約32万円の年金を受け取れた計算になります。「4分の3というと月24万円はもらえる」と親戚の言葉を鵜呑みにした由美子さんは、自身の年金と合わせると月34万円……十分すぎる金額だと思い、期待に胸を膨らませて年金事務所に向かいます。
どこか意気揚々と年金事務所に向かった由美子さんですが、そこで思わぬ現実に直面します。おおよその遺族年金額として告げられたのは、月額6万4,000円。想定していた金額の4分の1ほどになってしまった遺族年金に、思わず言葉を失くす由美子さん。親戚から聞いていた話とあまりにも違う金額に、頭の中が真っ白になります。ここで初めて、由美子さんは遺族年金の仕組みについて詳しく知ることになります。
子どもが成人している由美子さんが受け取れる遺族年金は、遺族厚生年金です。要件を満たしていれば、亡くなった人の老齢厚生年金の4分の3を受け取ることができます。ここで勘違いのひとつめ。「遺族年金は亡くなった人の年金の4分の3」と耳にすることがありますが、ここでいう年金は厚生年金のこと。基礎年金も含む金額と勘違いしている人が多くいます。
また基準とするのは65歳で受け取る場合の年金額。繰下げで増額されていても、遺族年金を計算する際にはさかのぼらないといけません。さらに65歳以上で遺族厚生年金と老齢厚生年金を受ける権利がある場合、老齢厚生年金は全額支給となり、遺族厚生年金は老齢厚生年金に相当する額の支給が停止になります。由美子さんの老齢厚生年金は3.2万円。遺族厚生年金からこの3.2万円を引いた金額、6.4万円が支給額となるのです。
何とも複雑な仕組みに、「あまりに理不尽では?」と感情的になる由美子さん。しかし、年金事務所の職員は「ルールですから」と繰り返すばかりです。由美子さんの怒りや落胆は、行き場のないものとなります。
一方で、年金の繰下げ受給中に受給者が亡くなった場合、それまで受給していなかった年金は「未支給年金」として遺族に支給される可能性があります。ただし、未支給年金においても繰下げ効果はありません。また年金には5年の時効があるので、由美子さんが受け取れるのは、浩さんが67歳~72歳までの間にもらうはずだった年金のみ。その額は12.9万円×60(ヵ月)で774万円になります。
700万円を超える未支給年金が受け取れることを知った由美子さん。複雑な思いが胸に去来します。
[参考資料]
日本年金機構『年金の繰下げ受給』
日本年金機構『遺族厚生年金(受給要件・対象者・年金額)』