急患で「日航ジャンボ機」搭乗をキャンセルした医師が語った「生かされた命を役立てたい」

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急患への対応で日航ジャンボ機への搭乗を回避した医師。彼はその後、「いたたまれない思い」に突き動かされ、ある特別な任務に従事したという。医師自らがその後の人生を語った。【(1)~(3)の(3)】(「週刊新潮」2015年8月25日号別冊記事の再掲載です。文中の年齢等は掲載当時のものです)
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「緊急オペが入ったぞ」
【写真】墜落直後にカメラマンが撮影していた壮絶な事故現場写真
その一言で123便のチケットが反古になったのは、医師の脇山博之(56)だ。1年ぶりの帰省がかなわなくなった瞬間でもあった。
脇山は当時、研修医2年目の26歳。母校・防衛医科大学校の付属病院で、おもに消化器外科を担当していた。
しばしば「研修医は修業」と言われるように、仕事は過酷を極めていた。睡眠は3、4時間程度で泊まり勤務も多い。そんな中やっと取れた夏休みだった。
「8月12日は、実家のある福岡への直行便はとれず、まず123便で大阪へ飛び、さらに福岡行きに乗り換えるという面倒なルートでした。正直言って、あまり気が進まなかったですね」
当日はいつもと同様に、朝5時過ぎに病院に到着し、患者の採血、回診に同行した。8時頃に朝食を食べたあとだったろうか、前記の緊急オペの連絡を受けた。
研修医の場合、手術が終われば“放免”というわけにはいかない。というのも、患者の術後管理を何日にもわたって任されるからだ。
果たして、彼が墜落情報を聞いたのは病院の集中治療室の中でだった。
「驚きました。ただ、当時は、亡くなるかもしれない目の前の患者さんのことで精一杯。動揺するいとまさえなかったのです」
しかし時間がたつにつれ、「自分がキャンセルしたことで、代わりに誰かが乗って犠牲になっている。そう考えると、いたたまれない気持ちになった」という。
そんな思いがあったからだろう、事故から19年たった平成16年、自衛隊が、人道復興支援活動のためイラクに派遣されたとき、防衛庁所属だった脇山は、医官として現地に赴いている。
「危険を伴う任務ですから、断ることもできました。でも、生かされた命を役立てることができればと、お受けすることにしました」
宿営地はサマーワ。役職は、第一次イラク復興支援群衛生隊長。主な任務は、周辺病院に対して衛生指導することだった。車で移動中、現地の警官が地雷を見つけたり、地雷で大破した車を目撃したりした。
「死ぬかもしれない、という恐怖は常にありました。でも123便のときも難を逃れた。今回も“何とかなる”という気持ちがどこかにありました」
平成19年に防衛省を辞め、ある医療施設を引き継ぎ、「ひもんや外科内科クリニック」を開業したときも、内心かなり不安だった。けれど、このときも“何とかなる”という気持ちに支えられた。そしていまは地域医療に励む日々である──。
このように間一髪で助かった当事者たちは、巡り合わせとしかいえないものにかろうじて命を救われていた。キャンセル席が回ってこない、急用が入った……。吉凶は隣り合わせということが、これほど如実に表われた例はないだろう。もしかしたら自分も死んでいたかもしれない。それもあってか、問わず語りに「生かされた命」という言葉を口にする人が多かった。
日航機墜落事故で消えた、生きたくても生きられなかった520人の命。それを心のどこかに感じながら、助かった人たちはそれぞれの人生を今も生きている。
(文中敬称略・年齢は本誌掲載当時のものです)
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西所正道(にしどころ・まさみち)昭和36年、奈良県生まれ。著書に『五輪の十字架』『「上海東亜同文書院」風雲録』『そのツラさは、病気です』、近著に『絵描き 中島潔 地獄絵一〇〇〇日』がある。
デイリー新潮編集部

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