“史上最悪の少年犯罪”とも呼ばれる「女子高生コンクリート詰め事件」。当時16歳~18歳だった7人の少年たちが逮捕された。
【写真】ボストンバッグに詰められ、コンクリートで固められた女子高生の遺体が見つかった現場写真
カズキ(当時16歳。仮名、以下本文中の名前は同)は主犯格のAが女子高生を拉致した3日後の1988年11月28日、女性がいる部屋に呼びつけられた。そこで、「ボールペンや栄養ドリンクの瓶、マッチ棒を性器に突っ込み、カミソリで陰毛を剃るなどの目を疑う凌辱行為」が行われた。その後、カズキは他の少年たちとともに彼女を輪姦。Aに対して絶対的恐怖があり、命令に逆らいきれなかったという。
少なからず監禁に関わったことに恐れをなしたカズキはAらと距離をおき、住み込みで働いていた時、女性が殺されたとニュースで知った。監禁殺人に関与した一人として逮捕されたカズキは、少年院での生活で何を考えていたのか──。
少年犯罪を中心に40年以上ルポライター・ノンフィクション作家として活躍する藤井誠二氏は、事件から10年近く経過した1998年、カズキに取材している。彼が語った懺悔とは。同氏の著書『少年が人を殺した街を歩く 君たちはなぜ残酷になれたのか』(論創社)より一部抜粋して再構成。【全4回中の第2回。第1回から読む】
* * * 少年院での生活はどんなものだったのか。
「短期の少年院送致となりましたが、家裁ではどこの少年院かは言われませんでした。そのとき、少年院は刑務所みたいなイメージがありましたから、やっぱり自分のしてきたことの重大さを改めて認識しました。でも、仕方のないことだと思いました。少年院に送られ、初めは個室に入れられ、少年院での生活の仕方のマニュアルをもらいました。少年院の生活に慣れるための個室という感じでした。その部屋には鍵がかかります。
一人だけで、とにかくいちばん考えたのは、被害者の方のことばかりです。少年院に送られてしまったことのショックよりも、自分のしてきたことのショックが大きかったです。個室で一人でいる状態は、鑑別所でも一人だったので初めてではないですが、鑑別所と比べてぜんぜん違います。自分がいるところは少年院だという頭もあるんでしょうけど、そういう意味も含めて考えることがたくさんあって、時間が経ち、日にちが経つにつれ、本当に自分がそういう所に送られたんだということを実感できるようになりました。
最初は、あまりにも自分のしてきたことがすごすぎたんで、どうしてそこに自分が関係してしまったのかを認識するまでに時間がかかりましたが、まわりになにもない少年院の中で一人で考え抜くうちにわかるようになりました。ひとりで考え抜くのはつらいことではありませんでした。被害者に与えてしまった苦痛を考えれば、僕のつらさなんてたいしたことないと思いましたから……」
カズキが少年院を出院したとき、彼は17歳になっていた。カズキが卒院後すぐにおこなったことは、被害者の供養だという。
「被害者の女性については、少年院にいるとき以外でも忘れたことはないので、すぐお寺に行って供養しました。そういうことだけが気掛かりだったので、まず最初にやらなくてはいけないと思っていました。やってどうなると人に言われればそれまでですが、僕ができるのはそれくらいしかなかったんです。お寺は被害者のお墓のあるお寺ではありません。被害者のお墓はわからないのはもちろんですが、きっと行けないと思います。だからといってなにもしないわけにはいかないので、自分なりに考えて自分なりにしたんです。
供養の時、被害者の女性に対して僕は謝りました……。助けてあげられなかったことを、少なくとも助けられるいちばん近い位置にいたのですが、にもかかわらずそれをしなかったことを……。僕に“いつ帰れるの?”と彼女が聞いたときに、答えられなかったことに当時の僕がすべて象徴されていると思うんです。あそこで答えられるだけの勇気があったら、おそらく警察に行っていたと思います。ですが、自分だけを守ることしか考えていなかった。
いま、口では助けてあげたかったとか、警察に行こうと思っていたとか言えますけど、実際に行動に移していなければなんの意味もないことです。とにかく、僕がこれから生きていく上で、いちばん大事なことは自分がやってしまったことを忘れてはいけないということです。事件を起こしてきたような自分であってはいけないということです。供養したときにそれを約束しました。どんなことをしても供養にはならないかもしれませんけど、それを守るしかないんです。それだけです。いままでしてきたことの悪いことの分、一生懸命やっていくしかないと思っています」
被害者のことを思わない日はない、とカズキは言う。いつも脳裏の真ん中あたりに重くのしかかるように、被害者の言葉と表情が蘇る。
「“わたしはいつ帰れるの?”と聞いたときの被害者の方の口調と顔が……忘れられないです。それに、彼女はものすごい暴力を受けていましたんで、そういったときの側面もいまだに忘れられないです。この8年間片時も忘れていないです。忘れたことは一度もないです。忘れてはいけないことですし、忘れようと思っても忘れられないことだと思います。毎日仕事をしていて、不意に思いだすときもあります。やっぱりドラマなんかで似たようなシーンを見たりすると、自分にとって彼女の言葉の響きは衝撃的なことだったので、瞬時に昔に引き戻されます。
あと、似たような事件が起きたときとか、若い人の犯罪を聞いたときも思いだします。思いだすことは……変な言い方ですが、思いだすということは悪いことではないと思います。それによって僕の原点に戻ることができて、自分ががんばって生きなければいけないと思うことができますから、もちろん、それは苦しいことですが、自分がしてきたことの苦しみだし、被害者の方はそれに比べられない苦しみを味わっているわけですから、それに比べたらたいしたことないと思うのです」
カズキは現在、事件当時の友人や知人とは一切連絡を絶っている。親とも絶縁に近い状態だ。住んでいた街に立ち寄ることもしない。そうでなくとも、忌まわしい自身の過去はカズキをぜったいに解放することはない。そう願いたい。
(第3回を読む)
【著者プロフィール】藤井誠二(ふじい・せいじ)1965年愛知県生まれ。高校時代より社会運動にかかわりながら、取材者の道へ。著書に、 『殺された側の論理』(講談社プラスアルファ文庫)、『光市母子殺害事件』(本村洋氏、宮崎哲弥氏と共著・文庫ぎんが堂)、人物ルポ集として、『「壁」を越えていく力』(講談社)、『路上の熱量』(風媒社)、『「少年A」被害者遺族の慟哭』(小学館新書)、『体罰はなぜなくならないのか』(幻冬舎新書)、『死刑のある国ニッポン』(森達也氏との対話・河出文庫)、『沖縄アンダーグラウンド―売春街を生きた者たち』(集英社文庫)など著書・対談等50 冊以上。愛知淑徳大学非常勤講師として「ノンフィクション論」等を語る。ラジオのパーソナリティやテレビのコメンテーターもつとめてきた。