「老後は資産があれば安心」と考える人は少なくありません。住宅や金融資産、年金など、一定の蓄えがあることで、将来への不安が軽減されるのは事実でしょう。しかし一方で、財産の有無が新たな火種となることもあります。それが“相続”をめぐる家族内のトラブルです。ときに家族の関係に影を落とし、穏やかな老後を脅かす事態を招くこともあるのです。
東京都内で暮らす高橋利雄さん(仮名・78歳)は、大学卒業後に大手企業に勤め、役員として定年を迎えました。退職金は約4,000万円。もともと不動産収入もあり、都内に持ち家と賃貸マンションを所有。金融資産は株や投資信託を含め、約3億円にのぼります。
妻の美枝子さん(仮名・75歳)と2人暮らし。年金は夫婦で月33万円。病気や介護に備えて、都内の高級老人ホームの資料を取り寄せている段階でした。
そんな高橋さん夫婦にとって、唯一の心配の種は、長男・翔太さん(仮名・44歳)の存在でした。大学卒業後、就職はしたものの数年で退職し、その後はアルバイトを転々。現在も定職には就いていません。
「もともと勉強はできたんですが、人間関係があまり得意ではなかった。就職も一応有名企業だったけど、長くは続かなくて…」と、利雄さんはため息まじりに振り返ります。
実家で暮らす翔太さんは、家賃も生活費も両親に頼りきりでした。高橋さん夫婦は年金と資産収入で息子の生活を支えながらも、「いずれは自立してくれる」と信じてきました。
しかし、ある日、翔太さんが放った一言が、その期待を打ち砕きます。
「この家も、マンションも、全部俺のもんだよな?……今からいろいろ把握しといた方がいいと思ってさ」
冷静に、しかし明らかに“相続”を意識したその言葉に、夫婦は言葉を失いました。
国税庁『令和5年分 相続税の申告事績の概要』によれば、相続税の課税対象となる被相続人数は15万5,000人を超えており、課税割合は9.9%。特に都市部では、不動産評価額の高さから、想定以上の相続税が発生するケースも増えています。
また、相続をきっかけに、家族間の関係が悪化するケースも少なくありません。
「息子を責めたいわけじゃないんです。老後、どう生きるかを考えることと同じくらい、どんな形で“財産を遺すか”を考えないといけない年齢なんだと痛感しました」と利雄さん。
現在は、弁護士を交えて「家族信託」や「公正証書遺言」の作成を検討しているといいます。
一方で、美枝子さんはこうこぼします。
「子どもが家を継ぐのが当然、という時代ではなくなりました。うちは一人っ子だから、ゆくゆくは彼が相続するんでしょうけど、“いまの私たちの生活”をないがしろにされるような感覚があって…」
“老後資金は2,000万円必要”という言葉ばかりが独り歩きしがちですが、本当に大切なのは、そのお金をどう使うか――そして、“家族とどう向き合うか”かもしれません。
利雄さんは最後にこう語ります。
「財産なんて、ただの紙切れですよ。大事なのは“気持ちの通い合い”……でも、それが一番難しいのかもしれませんね」