親の介護は、誰もが直面しうる人生の大きな課題です。「親の面倒を見るのは当然」という価値観が根強く残るなか、現実には仕事や自分の生活との両立に悩む人も少なくありません。
東京都内で働く鈴木美紀さん(55歳・仮名)。途中スーパーに立ち寄り、少し早足で帰宅するのが日課です。美紀さんの「ただいま」の声に、待ってましたとばかりに声をかけるのは母の良子さん(82歳・仮名)。
「今日は少し遅かったじゃないの。お夕飯はまだかしら」
悪気のない母の言葉が、美紀さんの疲れた心に重くのしかかります。
5年前に父が亡くなり、一人暮らしになった良子さん。年金は月15万円ほど。贅沢はできませんが、切り詰めれば何とか一人で暮らしていける金額ではありました。そして持病の膝の痛みが悪化し、足元がおぼつかなくなってきたのは1年ほど前。兄弟姉妹で話し合い、実家から比較的近い美紀さんが全面的に介護をすることに。当初、「親孝行できる最後のチャンスかもしれない」と美紀さんも介護に対して前向きに捉えていましたが、日々の疲労と共に少しずつ削られていきました。
美紀さんは1人娘で、自宅から車で15分ほどの距離に住んでいます。2人の子どもは社会人となり、夫と2人暮らし。実家に通いながらの介護は大変なので、夫と相談のうえ、実家に引っ越してきました。日中は仕事があるため、良子さんは1人で過ごすことになります。しかし、日を追うごとに「一人だと寂しい」「話し相手がいない」と訴えることが増えました。美紀さんの仕事中に、安否確認ではない、ただの世間話のための電話が何度もかかってくることも珍しくありません。
帰宅すれば、食事の支度、入浴の介助、翌日の準備と、息つく暇もありません。夜中にトイレに起きる母の手を引いて付き添うため、まとまった睡眠時間を確保することができないこともしばしば。親の介護が、働く現役世代に重くのしかかるケースは決して珍しいものではありません。総務省統計局『令和4年就業構造基本調査』によると、介護している人は628万人。そのうち、仕事をしている人は364万人で、正社員は156万人、非正規社員は141万人、パートは82万人……、また介護を理由に仕事を辞める人は、毎年7万~10万人で推移しています。
会社でも重要なポストに就く美紀さん。仕事をないがしろにすることはできません。
「このままでは、母だけでなく自分も共倒れになってしまう――」
日に日に憔悴していく美紀さんを見て、夫も心配を募らせていました。心身ともに限界を感じていたある週末の昼下がり、美紀さんは意を決して母と向き合いました。
「お母さん、大事な話があるの」
いつになく真剣な娘の表情に、良子さんは少し戸惑った様子を見せながらも、「なあに?」と促します。美紀さんは、震える声を抑えながら、ゆっくりと、しかしはっきりと伝えました。
「お母さん、もう家でみるのは限界なの。だから……施設を探そうと思う」
その言葉を聞いた瞬間、良子さんの顔から表情が消えました。「施設? 何を冗談を」。信じられないといった様子で、娘の顔を見つめます。
「冗談じゃないわ。毎日仕事から帰ってきて、家のことと、お母さんのことと……。もう私の体も心もボロボロなの。夜も眠れないし、仕事にも集中できない。このままじゃ、私が先に倒れちゃう」
良子さんは呆然としています。「私がいると、あなたは迷惑なの? 親の面倒をみるのは、子どもとして当然のことじゃない?」。母の言葉は、かつて美紀さん自身も「そうあるべきだ」と思っていた価値観そのものでした。しかし、今の美紀さんには、その「当然」が何よりも重く、そして残酷に響きます。
株式会社AZWAYが行った調査によると、「親の介護は誰がすべきか」の問いに対して、「自分」と回答したのが57.4%。「兄弟姉妹」30.2%、「施設」は10.2%と続きました。自分かどうかはさておき、「親の面倒は家族がみる」という風潮は、まだまだ根深いもの。そのようななか美紀さんが下した決断は、特に母・良子さんにとっては残酷な宣告に聞こえたかもしれません。しかし、これは美紀さん自身の人生を守るには、仕方がない決断だったのです。
「親の面倒をみたい」という気持ちと、「自分の生活を守りたい」という現実。その狭間で多くの人が悩み、苦しんでいます。
[参考資料]
総務省統計局『令和4年就業構造基本調査』
株式会社AZWAY『両親の介護に関する調査』