〈伝統的に男性が支配する日本の寿司業界の常識を打ち破り、東京・銀座(中央区)で寿司店を開業した。彼女は寿司の技術を指導し、伝統的な日本料理の慣習を変革したいという願望を実現している。同時に、彼女の歩みは女性の権利へのコミットメントでもある――〉
社会的なドキュメンタリー映画を製作してきたフランス人女性のカルラ・キャッペロ監督は、東京で長年寿司職人として活躍し、今春、銀座6丁目に「鮨 千津井」をオープンさせた千津井由貴(本名・小瀧由貴)さんを映画の主演に抜擢し、その理由をこのように評した。【川本大吾/時事通信社水産部長】
【写真】穏やかな笑顔が印象的な千津井さん。ひとたび“つけ場”に立つと真剣な眼差しに
女性寿司職人・千津井由貴さんが、日本で「女性に不向き」といった偏見や差別を受けながら、プライドを持って寿司を握り続ける様子を描いたドキュメンタリー映画「CHEFFE」は5月17日、パリのミニシアターで公開され、盛況の内にいったん幕を閉じた。今後、この映画は同国内外の映画祭にも出品される予定という。
日本の文化は今、世界で注目され、代表的な和食文化である「寿司」はインバウンドからも大人気となっている。ただ、日本の寿司業界の根底には、家父長制を基にした考え方から、“女性ご法度”の職場とされてきた経緯がある。
女性は「体温が高く手が熱い」「月経中に味覚が変わる」「化粧や香水が寿司に移る」「長時間働けない」など、中には根拠のないネガティブな要因が、まことしやかにささやかれ、「今も寿司職人としての女性の求人はほとんどない」と、都内で職人を目指す女性は嘆く。
こうした逆風にも負けず、長年寿司を握り続けてきた千津井さんの奮闘ぶりは、2022年5月7日付のデイリー新潮で紹介した。その際は、女性職人をタブー視してきた前述の都市伝説とも言える俗説を覆す存在としてリポートしたが、銀座に寿司店を開業し、仏映画の主演を務めたのを機に、改めて千津井さんの生き方を振り返りたい。
美大を卒業後、百貨店勤務を経て、千津井さんが秋葉原(千代田区)の「なでしこ寿司」で寿司職人としてスタートを切ったのは2010年。3年後には店長を任され、後輩の女性職人を育てる役割も担った。
店の立地はアニメやアイドルの聖地として知られる「アキバ」のど真ん中。真面目に寿司を握っていても、“若い女性がかわいい衣装で握る”という店のコンセプトも相まって「まるでメイドカフェみたい」といった冷やかしや、否定的な声が少なくなかったという。
半面、若い女性のみが寿司を握る様子は、相当レアだったことから、メディアで注目され、取り上げられる機会は多かった。知名度は上がり、客が大勢訪れた時期もあった。ところが、「客は私たち職人にアイドル性を求めるようになり、本格的な寿司作りを目指す店の方針との間に大きなギャップが生じるようになってきた」(千津井さん)と振り返る。
次第に経営が厳しくなる中で、追い打ちをかけたのが新型コロナである。
政府の緊急事態宣言によって一時休業を余儀なくされただけでなく、外国人の来日を制限する水際対策(入国抑制)などもあって、店は一層の窮地に――。インバウド客が押し寄せる今では想像がつかないほど、コロナ禍によってアキバの街は閑散としてしまった。
ただ、持ち前のポジティブ思考で、千津井さんはこの時、決して落ち込んでなどいなかった。なでしこ寿司の営業が傾く以前の2021年1月、水産会社「BKTC」を立ち上げ、出張寿司職人として活動を開始。2022年末になでしこ寿司は惜しまれながら閉店したが、なでしこ寿司時代に発案した「薬膳寿司」の延長で、新たな養殖魚のプロデユースも手掛けた。
ちなみに、薬膳寿司とは、松の実やナツメグなど、体に良いとされる食材を調味料に使った創作寿司。さらに、こうした数種の薬膳食材を日本人が大好きなサーモンの餌に使って、寿司ネタを生産しようというのが、“薬膳サーモン”プロデュースのきっかけだった。北海道上川町と白老町の養殖業者の協力を得て、今年は昨年の10倍以上に当たる35トンの生産を目指すという。
薬膳サーモンは、尿酸値の上昇を抑える働きが報告されているアンセリンを豊富に含んでおり、消費者庁に届け出た上で機能性表示食品として各地に出荷している。
そうした仕事をこなしつつ、今春、遂に銀座6丁目に完全予約制の「鮨 千津井」をオープンさせた。薬膳サーモンのほか、築地や豊洲で仕入れた選りすぐりのネタを揃え、なかなかの人気ぶり。自慢の創作寿司「ミルフィーユ寿司」も提供するなど、自ら築いた城で「スシアート」の技術を披露する。
今でも「寿司ではなく、女性(が握ること)を売りにしている」など、批判されることも少なくないという千津井さん。今後は「サーモンだけでなく、ウナギやウニなどにも薬膳を与えて育てる『薬膳魚』を売りに、国内だけでなく欧米など海外進出も視野に、新たな女性職人の活躍の場を広げていきたい」と意欲をにじませる。
薬膳を活用した創作寿司を含めた寿司作りの「芸」を目一杯披露する千津井さん。彼女のパフォーマンスは、「ザギンのスーシー」のみならず、日本の寿司業界のジェンダー平等に新たなページを刻んだであろう。
川本大吾(かわもと・だいご)時事通信社水産部長。1967年、東京生まれ。専修大学を卒業後、91年に時事通信社に入社。長年にわたって、水産部で旧築地市場、豊洲市場の取引を取材し続けている。著書に『ルポ ザ・築地』(時事通信社)など。最新刊に『美味しいサンマはなぜ消えたのか?』(文春新書)。
デイリー新潮編集部