最高裁判所「司法統計年報」によると、遺産分割事件の数は毎年1万件を超えています。日本で相続トラブルが絶えない背景にはどのような要因があるのか、故人の“衝撃的な事実”が発覚した事例をもとに、相続トラブルに陥る原因と回避するポイントをみていきましょう。ゆめプランニング代表の大竹麻佐子CFPが解説します。※プライバシー保護のため登場人物の情報を一部変更しています。
「……本当にいいお医者さんでしたねえ」
―――葬儀場の真ん中にあるのは、90歳で大往生を迎えた父・Aさんの遺影です。
Aさんは生前開業医として地域に根づいた医療を行い、人望の厚い人物でした。葬儀には親族一同のほか、かつての患者やその家族も詰めかけ、皆がAさんの死を偲んでいます。
そのとき、入口のドアがガラッと開きました。
「すみません、遅れました」
そこには、ゼエゼエと荒い息を吐く、中年男性が立っていました。受付を担当していた親族のみならず、会場にいる誰もがその男性のことを知らず、会場は静まりかえります。
「あなた、誰……?」
親族の女性が尋ねると、その男性(Xさん)は言いました。
「私はAさんの息子です。今年55歳になります。信じてもらえないかもしれませんが……」
喪主の長男Bさんをはじめ、会場にいる親族は理解に苦しみましたが、葬儀を進行させなければなりません。なんとか葬儀を終えると、改めてその男性を呼び出し、事情を聞くことにしました。
「実は、私も父がAさんだということは、最近知ったばかりなんです。母は私を育てるために幼いころから働き詰めでしたから、ゆっくり話を聞く機会もなく……。ただ、私も家庭をもち、子どもが大きくなってきたときにふと、『父に会ってみたい』と思ったんです。私なりに調べたら、どうやら亡くなったばかりで、ここで今日葬儀があると聞いたもんですから」
Xさんは、父の存在を知ってからさまざまな葛藤があり、葬儀に来るかどうかも非常に悩んだそうです。しかし、「いまの人生があるのは父のおかげでもあり、感謝の気持ちを込めて手を合わせるべきだ」と思い訪れたと、淡々と話しました。
その男性の落ち着いた様子とは裏腹に、なにも知らない親族一同は、「A家に過去なにがあったのか」と疑問や不安が渦巻き、混乱状態に陥っていました。
葬儀終了後、相続人である長男Bさんと次男Cさんは、重い心持ちで家に帰りました。
遺産分割協議の準備に取りかからなければなりませんが、“自称息子”が現れたいま、協議は難航することが目にみえています。
B「Xさんが本当に息子かどうかもわからないのに、親父の3億円をどうやって分ければいいんだ?」
C「あいつ、親父の遺産目当てなんじゃないか?」
困り果てていた兄弟でしたが、覚悟した“修羅場”は生まれませんでした。協議は驚くほどスムーズに進み、すべての相続人が納得のいく形で終結したのです。
遺産分割協議当日、Xさんは弁護士とともにやってきました。
その弁護士は、XさんがAさんの実子であるという事実を冷静に伝えると、持参した遺言書を兄弟に見せました。
その遺言書には、Aさんの直筆で、過去の過ちを深く悔いるとともに、Xさんにも遺留分相当を相続させるよう明記されていました。
X「僕はただAさんに感謝を伝えたかっただけで、遺産を強引に奪い取ろうなんてそんなつもりはありません。もしもBさんやCさんがこの内容に納得いかない場合、1円もいただかなくったって私は構いません」
Xさんは、落ち着いた物腰で言いました。
遺言書を預かっていた弁護士は父の生前からの知り合いで、Xさんのことも知っていたとのこと。父の遺志を伝えるとともに、その後も相続人全員が納得のいくよう、遺産分割協議の調整役を担ってくれました。
兄弟は初めて知る父の事実に当初戸惑いましたが、X氏の終始穏やかな態度と弁護士の助言もあり、最終的には遺言書どおりに相続することにしたそうです。
最高裁判所「司法統計年報」によると、遺産分割事件の数は毎年1万件を超えています。単純に考えて1日27件以上発生している計算です。つまり、今回紹介したような事例も決してドラマの世界だけの出来事ではありません。相続人調査により知らない異母・異父兄弟が見つかるケースは実際に存在し、その多くが深刻な相続トラブルに発展しています。
そして、こうしたトラブルの“泥沼化”を避けるために有効なのが「遺言書」です。
たとえば、相続人が2人の子である場合、法定相続分は、2分の1ずつ均等となっていますが、献身的に介護をしてくれたなどとして片方の子に多くのこしたいと思うこともあるでしょう。
こうした場合、要件を満たしている遺言書であれば法的効力を有するため、原則遺言書どおりの相続が可能です。
また、遺言書には「付言事項」を記すことができます。この付言事項には法的効力はありませんが、生前の感謝の気持ちや自分亡きあとの希望など「想い」をのこすことが可能です。
たとえば前述のように相続人間で不平等な内容にしたい場合、取り分が少ない子(相続人)には不満が生じやすくなります。そんなとき、遺言を作成した経緯を付言事項に記すことで、相続人の不満が解消されることも少なくありません。
また葬儀や納骨の方法についても、遺言書に書いておくことで本人の希望が明確になり、相続人はその意を尊重して進めやすくなります。
今回の事例では、これまで知らなかった父の過去を葬儀の場で知るという衝撃的な事実があったものの、遺言書の存在と付言事項がこれを緩和してくれました。
相続に関わる立場からしても、たしかに遺言書を作成し付言事項を残すことはトラブル回避につながるため、おすすめしています。
しかし、正直なことをいうと、やはり亡くなってから知るよりも、生前に直接伝えられるよう日頃からコミュニケーションをとっておくことが大切だと感じます。
また実際には、付言事項が相続人間のトラブルの火種となるケースも存在します。そのため、遺言書を準備する際には、あとに残される人のことを想い、入念に準備することを心がけてほしいです。
「どうして……と思ったのが正直なところですが、まあ、言えなかったんでしょうね……。父も、長いあいだ後悔とともに悩み続けてきたんだと、遺言書を読んで思いました。いまは安らかに休んでほしいと思います。
私ももう60近いですし、家族に伝えたいメッセージと一緒に遺言書を準備しておこうと思います」
長男のBさんはのちに、今回の出来事を振り返ってそう話してくれました。
大竹 麻佐子ゆめプランニング 代表ファイナンシャルプランナー(CFP)相続診断士