23歳のシングルマザー、下村早苗は2010年7月30日、大阪市内のワンルームマンションに長女の桜子(当時3)と長男の楓(当時1)を50日間にわたって放置し死亡させたとして、大阪府警に死体遺棄容疑で逮捕された(後に殺人罪で起訴)。発見当時、二児の死体は腐敗が進んだ状態だったという。世間を震撼させたネグレクト死事件の裁判では、下村被告(当時)の解離性障害が争点の一つだった。
【画像】ゴミがあふれた現場のマンション
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解離とは通常の意識から自分の意識を切り離した状態のことで、過酷な体験のダメージから自分を守る防御反応だ。記憶が抜け落ちたり、知覚や感情が麻痺したり、失踪したり、多重人格になったりと体験から意識をどう切り離すかで様々な表れ方をする。厚労省のサイトは、解離性障害を「(解離の)症状が深刻で、日常の生活に支障をきたすような状態」とし、「ストレスや心的外傷が関係している」とされると解説している。
後述するが、早苗は10代の頃にも解離性障害を疑われている。
下村早苗受刑者
早苗の実父、克也(仮名)は事件後、初めてこの障害について調べる中で、早苗の2つの過去に思い当たったという。
一つは、早苗自身が実母から受けたネグレクトだ。
早苗の実母は、早苗が6歳の頃に家を出た。浮気現場を克也に押さえられ、一番下の娘を連れて飛び出したという。やがて実母の実家から「うちで面倒を見る」と連絡があり、早苗と真ん中の娘も引き取られた。しかし半年ほどたったある日の深夜、克也へ電話がかかってきた。早苗からで「お母さんがいない」と泣いていた。駆けつけると、母親は夜間や週末、子どもを置いて出かけているらしい。克也は週に1~2回様子を見に行き、子どもたちと食事を取るうち、早苗の異変が目についたという。
「早苗の表情がどんどん暗くなって、死んだ魚のような目になったんです。ぼーっとして、人の目を見ないし、話も聞いていない。大人を信用できなくなっている感じでした。後々、桜子と楓が亡くなる直前の写真を見た時、あの頃の早苗と同じ表情だと思いました」
明るかった早苗は、たった半年で別人のようになった。風呂に入れてもらえず頭は脂ぎっており、服も着替えていなかった。母から500円を渡されて「これで何か食べとき」と妹の世話を任されるなど、長女の早苗は特にストレスがかかっていた。「これでは子どもたちがだめになる」と察した克也は、早苗たちを引き取り、離婚した。
もう一つ、克也が思い至ったのは、早苗が中学時代から家出を繰り返したことだ。
早苗は小学生の頃、地域のミニバスケットの活動で主将を務め、学校のマラソン大会は優勝、成績もまずまずの「自慢の娘」だった。ところが中学生になると暴走族の子たちと付き合うようになり、頻繁に家出するようになった。
父の克也は、早苗が小学5年生の年から7年連続で自校のラグビー部を花園出場に導いた時期だった。当時の生活をこう自省する。
「僕が親として足りなかったから早苗がグレたのかなと思う部分はあります。小さなうちはできるだけ早く帰って一緒に過ごして、中学生になる頃には帰りが遅くなっても大丈夫かと思ったけれど、寂しかったり嫌なことがあったりしたのかなと。でも、毎日授業をして生徒指導もして、部活では全国大会出場を維持して、大きくなった子どもの世話を四六時中するのは物理的にできなかった。結局、早苗が家出しては夜中に探しに行くことを繰り返して、対応が後手後手になった感じでした」
事件後、こうした克也の育児がネグレクトだったとする声があった。事件から3年以上たっても「宮崎勤(元死刑囚)の父親のように早く自殺しろ」といった電話がかかってきたという。ただ、シングルファザーにはシングルマザー以上にロールモデルがない。家にゴミが溢れることがあっても、克也もまた独力で何とかしようとしていた。
高圧的な父親だったのではないかと指摘する声もあったが、これには克也自身は首を傾げる。
「叱る時は叱りましたが、手は上げないし怒りを引きずらないように心がけていましたし、家では怖いお父さんではなかったような気がします。普通に会話して、一緒にトランプやゲームもしました」
だからこそ、早苗の家出が解せなかったという。
「すぐ見つかる日もあれば数日かかる時もありましたが、『あ、お父さん』とホッとした様子で一緒に帰るんです。僕が『頼むから家出だけはせんといて。心配だし事件に巻き込まれたら困る』と言うと、ケロッとした顔で『わかった』と約束する。それなのに翌日にはいなくなったりする。その繰り返しでした。しまいに『あなたが考えていることは分からん。嫌なことがあるなら言うてみい』と問いただしましたが、嫌なことはないと話していた直後に、突然違う人格になるようにまた家出するんです」
実は早苗は中学2年生の時、集団レイプに遭っていた。山中で男たちから殴る蹴るの暴行を受けたうえ、代わる代わる性暴力を受けたという。克也は後年の早苗の逮捕後、警察から聞かされて初めて知った。解離性障害は性犯罪被害者に多い症状とも言われている。(本文敬称略)
※本記事の全文は、月刊文藝春秋のウェブメディア「文藝春秋PLUS」に掲載されています(秋山千佳「大阪二児放置死 祖父は『十年前に戻りたい』」)。
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(秋山 千佳/文藝春秋 2021年6月号)