16歳で交通事故にあい、両脚切断を余儀なくされたモデル・インフルエンサーの葦原みゅうさん。事故直後はICUに運ばれ、ようやく自身の体の状態に気づいたのは、事故から実に2か月後のことでした。医師から「脚を切断した」と説明を受けたみゅうさんですが、落ち込むどころか「いつ退院できますか?」とすぐに切り替えたそう。当時の思いや、モデルとして活動を始めた経緯について伺いました。(全3回中の1回)
【写真】「人形のように美しい」東京2020パラリンピック開会式に登場した葦原みゅうさん ほか(全14枚)
── 事故後、いつごろご自身の体の状態に気づいたのでしょうか。
みゅうさん:目が覚めてすぐに「脚がない」とは気づきませんでした。ICUで目覚めたんですが、事故の直後は、麻酔が効いていたので数分しか起きていられなくて。母親の泣き顔が視界に入った記憶はあるんですけど、すぐに眠ってしまう状態でした。そのうち起きられる時間が少しずつ伸びていったんですが、そのときも指先まで脚がある感覚が残っているんですよ。ちなみに、今もあるんです。
ベッドに寝ているときは寝転がって脚を伸ばしている感覚があるし、いすに座っているときは地面に脚をついている感覚があるんですね。不思議なんですけど。切断者あるあるって言われていて、脚や腕があった時間が長ければ長いほど、その感覚が残っているようです。
事故当時は今よりもその感覚が強かったので、自分の脚がなくなっていることに自分では気づきませんでした。当時は私が16歳という多感な時期ということもあって、家族や主治医の先生も私に両脚を切断したというのを言えずにいたそうなんです。なので、2か月くらいは気づかなかったんじゃないかと思います。
── ご自身の脚がない、と気づいたきっかけはあったのでしょうか。
みゅうさん:骨盤が折れていたので、体を動かさないでと言われていました。ただ、起きられる時間が少しずつ長くなると、体勢を変えたくてもぞもぞ動くので、ベッドのシーツがよれちゃったんです。それを直そうと、寝転がりながら背中から手を入れてシーツを直したときに、お尻のあたりまで触ったら、上半身は病院着を着ているのに下は病院着じゃないことに気づいて、「あれ?」と。
感触は、包帯がぐるぐる巻きになっていて、さらに上からビニールを巻かれたような感じ。ビニール素材なんだけど、ふかふかしてる…みたいな。「上は病院着を着ているのに、なんで下はそんな感じなんだろう、脚が悪いのかな」とはそこで気づきました。
そもそも事故から2か月くらいたっていたので、早く退院したいのに、なぜリハビリが始まらないのか不思議に思っていたんです。でも自分の姿を鏡で確認できるわけじゃないので、何かが起こっているかもわからない。「リハビリが始まらないってことは、何かが起こってはいるはずだ」とは思っていたので、「もしかしたら脚を切断しているのかな」と気づきました。
ただ、そのときは包帯がぐるぐる巻きの状態だったから、どれくらい脚の長さが残っているかもわからなくて。それで主治医の先生が回診に来てくださったタイミングで「脚を切断したんですか?」と自分から聞きました。ただ、先生としては、親と一緒に私に伝える日を考えてくれていたみたいで。後日、親が面会に来たタイミングで「脚を切断した」と説明を受けました。
── そうだったんですね…。そのときはどんなお気持ちでしたか?
みゅうさん:私からしたら、リハビリが始まらない理由がわかって、むしろすっきりしたというか、開放感のほうが大きかったです。自分ではよく覚えていないんですけど、説明を受けたあとの第一声は「退院はいつごろですか?」だったそうです。親は、それでめちゃくちゃびっくりしたみたいで(笑)。
「脚を切断したことをどう受け入れたんですか?」とよく聞かれるんですが、受け入れたも何も、主治医の先生に説明されてすぐ退院に気持ちを切り替えた感じです。これからどれくらいリハビリに時間がかかるのかわかったぶん、むしろうれしかった。目安がまったくない状態のほうがモヤモヤしていたので。現状がわからないと目標を立てられないじゃないですか。なので、そのときはすっきりした気持ちが大きかったです。
── 脚を失ったショックよりも、退院に向けたリハビリのほうに気持ちが集中していたんですね。
みゅうさん:そうですね。「車いすにはいつから乗れますか?」といったことのほうが気になっていました。リハビリも、最初は自分で車いすに乗れないので、リハビリの訓練士さんに抱っこされつつのスタートだったんです。でも、だんだん自分で乗れるようになって。車いすをこげるようになったら自分でナースステーションにも行けるようになり、できることがひとつずつ増えるワクワクのほうが大きかったです。
個室だったので、人とふれ合うことがなくて暇だったんですよ(笑)。ナースステーションで、看護師さんとお話ししたりするのがすごく楽しかった記憶があります。
── 退院後、すぐに大好きな「東京ディズニーランド」に行かれたとか。
みゅうさん:そうなんです。そもそもオーダーの車いすができあがる前に退院しちゃって。オーダーしてでき上がるまでに3か月くらいかかったんです。できるだけ早く外に出たくて、退院できる状態になるまで頑張ってリハビリしたのに、車いすが届かないせいで入院を延期しないといけないのが、すごくイヤで。
主治医と相談したうえで、車いすをレンタルすることにして、オーダーの車いすができあがる前に退院しました。今乗っているような自分でこぐ前提のものではなくて、病院の入り口などにある、自分でも動かせはするものの、人が押す前提で作られた大きな車いすでした。
── 私も家族が車いすユーザーなのですが、病院の入り口にあるような車いすと、オーダーの車いすとでは、操作性がかなり違いますよね。
みゅうさん:そうなんです。脚がないぶん、体の前方が軽くて浮きやすくて、最初は怖かったです。「東京ディズニーランド」には友人と一緒に行く約束をしていたし、ひとりでは移動が難しいところは友達に押してほしいと頼んで。気をつけなきゃいけない点は意識してましたけど、あとは気にせず満喫していました。めっちゃ楽しかったです(笑)。
── イヤなことを思い出させてしまったら申し訳ないのですが…、事故の恐怖を思い出したり「あんな場所に行かなければよかった」と後悔することってないですか?
みゅうさん:全然大丈夫ですよ!後悔することはないですね。考えないようにしているわけでもなくて、考える暇がないんです。今がすごく楽しいから。「あそこに行かなきゃよかった」とか「事故に遭わなかったらどういう生活していたのか」とかも、想像したことがないんです。質問されて、ようやく考えるみたいな感じですね。
── それほど今が充実しているんですね。専門学校在学中にモデルの活動を始めたそうですね。
みゅうさん:知人づたいでNHKの番組内で行われるファッションショーに呼ばれたのがきっかけです。パラリンピックの周知が目的のイベントで、私と同じように障がいがある方たちが出演するファッションショーでした。私はもともとテレビの大道具の仕事がしたかったので、裏方の仕事に興味があって。モデルに興味があったわけでないんですが、番組制作の裏側が見たくて参加しました。
── 参加してみていかがでしたか?
みゅうさん:ほかの出演者は、皆さんウォーキングの練習をしたり、モデルとしての見え方を気にしている人が多かったんですが、私は「どんなお客さんが来ているんだろう」と制作側の目線で見ていました。当時は東京オリンピック・パラリンピックの開催が決まっていたので、その番組もパラスポーツの認知拡大を目指していたんです。でも、お客さんは障がいがある当事者や、出演者のご家族など、元々福祉に関心がある方が多かったです。放送後、Xで感想をつぶやいてくれていたのも、福祉関係の人が多い印象でした。
せっかくパラスポーツを広める一環でファッションショーをやったのに、見てくれた人の大半はもともと福祉に興味がある人たちなんだって気づいて。認知拡大という意味では、やり遂げた感じがしませんでした。私はそういう現状を変えたいなと思ったんです。
私自身も正直、それまでパラスポーツに特に関心はなくて、自分が車いすユーザーになるまで車いすの方を意識して見たことがありませんでした。車いすユーザーになって初めて、今まで知らなかった視点をたくさん知ったんです。「今までなんで知らなかったんだろう」と考えたら、生活の中で知るきっかけがなかったからだと気づいて。それで、もっとフラットに車いすユーザーについて知ってもらう機会をつくりたいと考えました。
もともとはテレビの制作現場の大道具という、エンタメの作り手側に立つのが夢だったけれど、そもそも番組も出演者がいないと成り立たないじゃないですか。それで、自分が表現者として表に立とうと、モデルの仕事を始めることになりました。
PROFILE 葦原みゅうさん
あしはら・みゅう。車いすユーザーで、モデルやインフルエンサーとして活動。ミラノ、パリ、ニューヨークなど各国のファッションショーで活躍する。東京2020パラリンピック閉会式やMISIAデビュー25周年アリーナツアーではパフォーマーとしても出演。
取材・文/市岡ひかり 写真提供/葦原みゅう