【前後編の前編/後編を読む】親の介護は妻に丸投げ、自分は絶賛不倫中… 「向き合うべきですか?」44歳夫の身勝手さ
二世帯住宅にはメリットもデメリットもある。夫と妻、どちらの親との住宅なのか、新たに建てるのか、改築するのか。完全に二世帯仕様で食事等は別なのか、あるいは一部共有空間を作るのか。そして二世帯住宅にするための費用は、誰がどうやって出すのか。それらの状況によっては、夫婦関係にも大きな影響があるだろう。
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「うちの場合、あんまり深く考えなかったんですよ」
情けない声を出すのは、佐野恭幸さん(44歳・仮名=以下同)だ。4年前、自身の両親の勧めで実家を二世帯住宅に改築し、一家で移り住んだ。
「実はコロナでほとんど仕事がなくなってしまって……。給料が減って、家賃を払って賃貸に住み続けることがむずかしくなっていたんです。まだぎりぎり30代だったから転職も考えましたが、妻は大反対。それを見ていた親が、うちに来ればいいと助け船を出してくれたんです」
恭幸さんは、昔から父親と折り合いが悪かった。父は教員で、昔気質の実直で厳格なタイプだった。半面、子煩悩なところもあったから、子どものころは父に肩車をしてもらったり、3歳違いの妹と3人で近くの公園で遊んだりした記憶もある。だが高校時代、バンドを組んで音楽に熱中したり、大学時代に自主映画を撮ることに夢中になったりした息子を、父は突き放した。
「父は芸術なんていうものは無駄だと思っている。エンタテインメントに関しては、もっといらないものだと考えている。だから僕がエンタテインメント関係の業界に職を得ていることが腹立たしくてたまらないみたいです。おまえも教員になれというのが口癖だったから。妹は教員なんですけどね」
母は、そんな父に逆らうことなく、家族のために尽くすのが自分の人生だと割り切っているような人だという。恭幸さんが子どものころ、母はせっせと内職をしていた。外にパートに出たほうがお金になったはずだが、父が望む“専業主婦”であることを選んだ。内職は父に隠れてやっていたのだ。
「母もかつては教員だったのに、結婚と同時に退職したそうです。父は暴君ではなかったけど、ときには母に無茶なことを言ったりしていましたよ。朝の忙しいときにワイシャツにシワがあるとアイロンをかけさせたり。他のシャツを着ればいいのに、どうしてもこれを着ると言い張る。同じ白いワイシャツなのに。母は黙ってアイロンをかけていました。なんだかああいう理不尽な場面を見るのが僕はすごく嫌で、そのころから父への反発を感じていたんです。音楽や映像が好きだったのはもちろんですが、父が嫌がることをやってやりたいという気持ちもあったのかもしれません」
大学を出て父が嫌うエンタメ業界に入り、同時に家を出てひとり暮らしを始めた。もう実家に戻って生活することはないと思っていた。20代のころは女性の家に転がり込んだり、同棲したりと好きなように暮らしていた。
「自分が家庭をもって落ち着くことなんてないと思っていたんですよ。でも30歳になって周りを見渡すと、自由に暮らしていたヤツが結婚して、仲間が集まるときに子どもを連れてきたりして。そういうのもありかもと思うようになりました」
勤務先に出入りしていたフリーランスの女性とつきあい始めて2年ほどたったころ、「子どもができた」と知らされた。結婚するべきときが来たと感じて、すんなり結婚したのが33歳のときだ。相手は5歳年下の美和さんという女性で、まじめに仕事をしてはいたが、キャリアを積んでいきたいというタイプではなかった。ふたりきりになると、甘えて自分の弱さをさらけ出す。当時は、それがかわいかった。だが、結婚して一緒に暮らすうち、美和さんはどんどん強くなっていった。妻となり、母となれば当然のことだが、彼は「短期間にこんなに女性は変わるのか」と恐ろしさを感じたという。
「結婚すると妻はあまり仕事をしなくなりました。まあ、つわりも苦しそうだったし、まずは家庭をととのえたいという気持ちもわかったので、僕から仕事をしてほしいとは言わなかったけど、オレの給料で親子3人、食べていけるのかという不安はありましたね」
恭幸さんは進んで残業や休日出勤を引き受けた。「働き方改革」の前の時代である。人手不足のイベントには積極的に参加し、社内のいくつものプロジェクトを買ってでた。給料にはインセンティブがプラスされるシステムだったので、稼ごうと思えば稼げたが、体はきつかったという。
必死に働いているうちに美和さんのお腹はどんどん大きくなり、「気づいたら娘が産まれていた」と恭幸さんは言う。当時は本当に多忙で、今日明日にも生まれるかもというときでさえ彼は仕事をしていた。陣痛の間隔が近くなったとき、美和さんは自分でタクシーを呼んで病院に行ったそうだ。
「僕が病院に行ったのは、生まれてから数時間たってからでした。美和は僕の顔を見ると、『今ごろ来るなんて』とむくれていました。うちの母も美和のおかあさんも来ていて……。微妙な空気でしたね。『仕事しないと食っていけないから』と冗談交じりに言ったんですが、それもよくなかったみたいで」
子どもを抱いたときは胸に迫るものがあったが、女性3人の少し冷たい視線に耐えかねて、彼はすぐに病院をあとにした。
「子どもとなると男は居場所がないなという感じでした。この分だと時間がなくて、子育てもろくにできないから、それもあとから恨まれるんだろうなと思った。せっかく子どもが産まれたというのに、僕はあまりうれしくはなかったというのが正直なところです」
好きな業界で好きな仕事をしているはずが、生活のための仕事になっていた。それも彼のストレスや不安につながっていった。結婚はやはり自由を奪われるものだと彼は言った。それなら結婚しなければいいと世間は言うのだろうが、してみなければわからないこともある。
「その後も妻はワンオペになっていましたから、たまには早く帰って手伝ったりはしましたよ。半年もたつと、うちの娘は世界でいちばんかわいいと思っていたし、僕は僕なりに家族を大事にしたいと感じていました」
美和さんとは子どもを間に挟んで、可もなく不可もなくという状態の関係だった。会話はほとんど娘のことだけだったが、それでも成立してしまうのが夫婦である。娘が3歳になったころ、美和さんは娘を保育園に預けて仕事を再開したが、ブランクがあるフリーランスという立場では、そう簡単に仕事は入ってこない。
「美和は少し苛立ちを見せましたね。自分なら、仕事をすると宣言したとたん舞い込んでくると思っていたみたい。それは甘いよと言ったら、ものすごく怖い目で睨まれました。彼女、いっぱしにキャリアがあると思いこんでいた。20代後半で仕事を辞めたのだから、もともとそれほどキャリアがあるわけじゃないのに。え、そういう“勘違い女”だったのと、ちょっと引きました。妻はそんな僕の様子をすぐに察知して、『あなたは私をバカにしてるでしょ』と言いだした。このころからですね、目に見えて妻との関係が冷えていったのは。でも娘のために結婚生活を続けるしかなかったような気がします」
離婚したとしても美和さんには収入がないし、恭幸さんひとりで子どもを育ててはいけない。利害関係は一致していた。だから離婚はふたりとも考えていなかった。
娘が来年から小学校入学というときになって、突然、コロナ禍が訪れた。エンタメ業界は大きな痛手を受け、恭幸さんの仕事はほとんどなくなった。自宅待機するしかない日々が続く。企画を立てても実現する見通しはなく、会社からも副業ができるならどんどんしてくださいとメールが来た。
「副業といっても、僕ができることなんてなかった。ミュージシャンの知り合いに連絡をとったら、僕らと同様、いや、もっとひどい状態だった。転職も考えたけど、『こんな時期に転職してもいいことはない』と妻は大反対。それもそうですよね。たまたま家の近所のコンビニでアルバイトを募集していたので、僕は働き始めました。学生時代にコンビニでバイトをしたことがあったのでなんとか仕事は飲み込めました」
そんなとき、両親から「うちに来ないか」という話があったのだ。
恥ずかしい話だけど、と恭幸さんは前置きしてこう言った。
「家賃さえ払わなくてすむなら、生活はかなり楽になる。それだけで僕はその話に飛びつきました。妻には相談もせず、ぜひぜひと言ったんです。すぐに二世帯住宅にリフォームするからと返事が来てから2ヶ月ほどでしたね、完成したって。そこで妻にようやく話をしたんです」
妻はずっと仏頂面で聞いていた。どうして相談してくれなかったのということだ。それはそうだろう。だが恭幸さんは「今は手段を選ばず、娘のためにもきちんと生活していくのが優先だ」と譲らなかった。これを受け入れてくれないなら離婚も辞さないとまで言った。美和さんは追いつめられたような顔をして「わかった」とつぶやいた。
実家が数年前に改築されたという話は、ときどき連絡をとっていた妹から聞いたが、下見に行ったとき、両親は彼か妹のどちらかと一緒に住むつもりで二世帯住宅にしたのだろうとわかった。彼との同居のためにリフォームしたのは内装だけで、もともと二世帯仕様にできていたのだ。
「騙されたかと一瞬、思ったけど、母親は『人に貸すつもりでいたから、あなたが入ってくれるならよかった』と穏やかに言うんです。父は多くは語らなかったものの、孫が来ることに関しては楽しみにしてると独り言みたいにつぶやいていました。あの時点で、僕は2階を貸してもらう感覚でいて、“同居”というイメージがなかった。美和と両親がうまくやれるかどうかなんてほとんど考えませんでした。両親もまだ70代初めで元気でしたし」
それだけ生活に切羽詰まっていたともいえる。
こうして一家3人は恭幸さんの実家へと越した。初日は母が腕をふるってくれ、階下でみんなで食事をした。娘はあまり口をきかなかったが、祖父母の存在が嫌ではなさそうに見えた。
「2階にもキッチンはあったんですが、お風呂が問題でした。シャワールームしかなかったんです。浴槽があるのは階下。気にせず使ってと言われたから僕は使っていたけど、気づくと美和はどうも階下には行ってない。シャワーだけで我慢していたようです。娘は母と入っていたようですが。美和に我慢を強いるのは心苦しかったから、夜中に入ればいいよと言ったけど、浮かない顔で『うん』と言うだけでした」
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恭幸さんの独断による“同居”によって、夫婦関係に不穏な空気が。やがて「家に帰りたくない」という思いを抱くようになった彼は、不倫をはじめ……。【後編】でそのてん末を紹介している。
亀山早苗(かめやま・さなえ)フリーライター。男女関係、特に不倫について20年以上取材を続け、『不倫の恋で苦しむ男たち』『夫の不倫で苦しむ妻たち』『人はなぜ不倫をするのか』『復讐手帖─愛が狂気に変わるとき─』など著書多数。
デイリー新潮編集部