娘は母親に「私は奴隷です」という誓約書を書かせていた──。全国に衝撃が走ったと表現しても大げさではないだろう。2023年7月に札幌市・ススキノのホテルで男性が殺害され、頭部を切断された事件では、同市の親子3人が逮捕されたことは記憶に新しい。
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【写真】瑠奈容疑者とも「女装姿」で会ったとされる被害者のセクシーな衣装 容疑者の父の“奇抜すぎる写真”も
3人のうち母親である田村浩子被告の初公判が6月4日、札幌地裁で開かれた。浩子被告は死体遺棄と死体損壊の各ほう助罪に問われている。
昨年7月、娘の瑠奈被告は男性を殺害し、その頭部を3人が暮らす自宅に持ち帰ってきた。浩子被告は頭部を隠す手助けと(死体遺棄ほう助)、瑠奈被告が頭部を損壊し、その様子を父親の修被告がビデオに撮影するのを手伝った(死体損壊ほう助)──これが検察側の主張だ。
検察だけでなく弁護側も冒頭陳述を行い、3人家族の異常な日常生活を指摘した。これは異例の展開だろう。担当記者が言う。
「父親の修被告と母親の浩子被告は、瑠奈被告が幼い頃から溺愛。娘がほしいものは何でも買い与えていたそうです。瑠奈被告は中学で不登校となり、18歳頃からは精神的に不安定な言動を繰り返すようになりました。しかし両親は瑠奈被告を刺激しないよう、娘の言いなりでした。例えば瑠奈被告の持ち物やゴミで家の中が足の踏み場もない状態になっても、片付けようとすると『触るな』と言われるのです。修被告はネットカフェで寝泊まりし、浩子被告は2階の僅かなスペースで生活していました」
最も衝撃的だったのは「誓約書」の存在だろう。瑠奈被告は母親の浩子被告に、「お嬢さんの時間を無駄にするな。私は奴隷です。オーダーファースト」「奴隷の立場をわきまえて無駄なガソリン、お金を使うな」といった誓約書を書かされ、これがリビングに掲示されていたという。
娘が暴君として君臨し、父母が無条件に従うという「瑠奈ファースト」の親子関係。言葉を失うほどの衝撃だが、多くの家族問題の相談に乗ってきた「東京家族ラボ」の池内ひろ美さんは「確かに報道には驚きましたが、実のところ似たケースは以前から起きており、その数も少なくないというのが実情です」と指摘する。
「親が子供の言いなりになる原因は、大半が子供の家庭内暴力です。暴君と化す子供に多く見られるパターンとして、成人しても働いたり、学校に通ったりしません。基本は家にいますが、引きこもりかというとそうでもなく、遊びには行きます。つまり“社会生活”から切り離された状態だと言えます。家では常識外れの暴君でも、外出先では普通の人間というケースも珍しくありません」
子供の家庭内暴力に耐えかね、父親が子供を殺害するという事件を思いだした方も多いだろう。1977年の「開成高校生殺人事件」、1996年の「東京湯島・金属バット殺人事件」、2019年の「元農水事務次官長男殺害事件」といった事件は大きく報道され、当時の世相を象徴したものと受けとめられた。
ちなみにススキノの事件と東京湯島の事件は、父親が子供のあらゆる“命令”に従っていたという共通点がある。
湯島の事件で息子を殺害した父親は家庭内暴力の被害者だっただけでなく、衣服の買い物やビデオ録画など、様々な“雑用”を強制されていた。息子に服従することの是非を精神科医に問うと、「一つの技術と考えればいい」とアドバイスされ、息子の暴力や要求に耐え続けたという。
「暴君と化した子供が両親に君臨するという家族のあり方が社会的問題として認識されるようになったのは1980年代ぐらいからだと思います。人間は昔から親類縁者だけでなく、近隣住民の援助を得て子供を育てていました。ところが80年代ごろから日本各地で都市化が一気に進み、父母は血縁や地域社会と隔絶するようになったのです。つまり、子育てのトラブルは両親だけで解決する必要に迫られました」(同・池内さん)
池内さんによると、暴君と化して父母に君臨する子供の性別は、男性だけだった時代が長く続いたという。
「性別の偏りも時代を反映しています。戦前の家制度は戸主に絶対的な権力を与え、その大半は父親でした。出産して男児が生まれると両親や親類だけでなく、社会全体が『跡取りが生まれた』と認識し、大切にしました。そうした“男児優位の常識”が80年代まで残っていたのです。両親や親類だけでなく、ある意味で社会からも甘やかされて育った息子が、家庭内暴力で両親を支配するというケースだけが繰り返されてきたのです」(同・池内さん)
ところが近年、家庭内暴力を起こす子供の性差に変化が生じてきたという。ススキノの事件で明らかになったように、娘も暴君と化し、父母に君臨するケースが増加しているのだ。
「戦前の家制度などの記憶が日本人から完全に忘れ去られ、代わりにジェンダーレス社会が浸透したのが原因でしょう。80年代や90年代までは、『女の子は女の子らしくしなさい。暴力なんてもってのほかです』という社会的圧力が良くも悪くも機能していました。不当な性差別をなくすことで得られた社会的メリットはたくさんありますが、残念なことに暴力を振るって両親を支配する娘も増えてしまったのです」(同・池内さん)
どういう子育てをすると、両親を暴力で支配するような子供が誕生してしまうのか。池内さんは「修被告と浩子被告の子育てを把握していませんので、あくまで一般論になりますが、大別すると2タイプの子育てが挙げられます」と言う。
「1つ目は、精神的なものも含めて子供を虐待し続けた場合です。親が子供を幼児の頃から虐待するうちに、子供が成長して体格が大きくなると力関係が逆転します。ある日突然、子供は反撃を開始し、これまで虐待されてきた親を虐待するようになります。被害者と加害者が入れ替わるのが1つ目のタイプの特徴です。2つ目のタイプは、親が子供に“育てづらさ”を感じている場合です。理由は精神的な疾患など、様々なケースがあり、両親は『うちの子は、他の子と何かが違う』という違和感を常に抱えています」(同・池内さん)
扱いにくい子供だと思っていても、もちろん親としては愛情を注ぎたい。試行錯誤を重ねるが上手くいかず、次第に腫れ物に触るような子育てになってしまう。さらに子供が大きくなると、気がつけば子供の言うことに何でも従っている──。
時計の針は元に戻せないとはいえ、修被告と浩子被告に解決策はなかったのだろうか。瑠奈被告の理不尽な要求に従うより他に方法はなかったのだろうか。
「唯一の解決策は少しでも早く、第三者に相談することでした。同じ家族で顔を突き合わせても問題が解決できるはずがありません。警察、児童相談所、専門のカウンセラー、どんな人でもいいので、とにかく外部の人を呼ぶのが大原則です。そして私が過去に対応してきたケースを振り返ると、地元の病院で精神科医長を務めていたという修被告のような“地元社会の名士”は、外部の人間にSOSを出さないという傾向が認められます」
医師、市議、県議、弁護士──こうした人々は地域社会のエリートとして、地域の中で暮らす必要がある。その結果、自分たち家族のプライバシーを必要以上に重視してしまうのだ。
同じエリート層でも、転勤の多い大企業の会社員だと話は違う。家族で転勤し、縁もゆかりもない街で子供が問題行動を起こしたのなら、何の迷いもなく地元の専門家に相談できる。
「転勤先の場合、学校の先生も子供の問題行動にフラットな視線で対処してくれるでしょう。私が気にしているのは、瑠璃被告の通学した小学校や中学校の先生が、『あの生徒は有名なお医者さんの娘さんだ』などと必要以上に忖度しなかったかという点です。もはや地域社会で濃密な人間関係は失われているにもかかわらず、地元で生きるエリートは他人の目を気にし、周囲の人間は必要以上にエリートに忖度するという状況は日本各地で認められます。皮肉なものだと言わざるを得ません」(同・池内さん)
母親の浩子被告は「犯罪を手助けするつもりはありませんでした」と起訴内容を否認し、無罪を訴えた。
「浩子被告は今、深い安堵を得ているのではないでしょうか。娘が逮捕され、娘の支配からようやく解放されました。さらに逮捕前の日常生活では『家族はこのままでいいのだろうか』という罪悪感も常に持っていたはずです。瑠奈被告が逮捕されたことで、浩子被告は罪悪感からも解放されたと思います。久しぶりに精神の安定を得た浩子被告が無罪を主張したということは、非常に興味深く受けとめました」(同・池内さん)
デイリー新潮編集部