中部地方在住の白馬吉子さん(仮名・40代)は、メーカーに勤める父親と服飾関係の仕事をする母親の元に生まれた。両親はもともと同じ職場で出会い、24歳で結婚。白馬さんは、父親が39歳、母親が38歳の時の子で、2歳下に弟がいる。
父親は5人兄弟の次男。白馬さんいわく、堅物で友だちが一人もいない変人で、真面目を絵に書いたような人だが仕事はできず、神経質で凝り性だった。
なかなか子どもに恵まれなかった両親は、不妊治療を受けながら毎年神社に子宝祈願もしていた。そこまで熱心に子どもを望むとは、さぞかし子煩悩な父親なのかと思えばそうでもない。父親は子育てには関心を持たなかった。
成長してから、両親は子どもができるまでは夫婦で日本各地を旅していたと聞いた白馬さんは、母親に「お父さんとの旅行、楽しかった?」とたずねると、「全然。美味しいもの食べるわけじゃないし、お土産も買わないし、何しに行ったか覚えてない」と答えた。
お金や時間を使ってわざわざ遠くまで旅行に行き、美味しいものも食べずお土産も買わないとなれば、確かに何しに行ったのかわからなくなる。
白馬さんが小学校に上がると、父親がリストラに遭い、無職に。代わりに母親が早朝から働き、家のことは父親がするようになる。
「その頃、朝食は父が準備してくれたのですが、毎日毎日ひたすらウインナー数本と目玉焼きでした。面倒という感じではなく、父には同じもので飽きるとか、違うものを出すという発想自体が無かったのかと思います」
父親は、約半年後に配送業の仕事が決まった。
「父は、たまに自分の実家に帰ると饒舌になるんですが、父にとっての楽しい話は人をばかにした話で、自分の娘である私の失敗談などを私の前で親戚中に話していました。もちろん父から褒められたことはありません。子どもの頃はいつも『お前はバカだ。ろくでもない』と言われていました」
他人をバカにする割には、父親は自分の言動にケチを付けられるとすぐにキレ、自分の思い通りにいかないと怒った。
白馬さんは中学に上がると、巻爪の悪化のため手術を受け、しばらくギプスをはめ、松葉杖をついて登校していた。そんな頃、一度だけ雨の日に「車で送って行ってくれない?」と父親に頼んだところ、意外にも「7時半までに準備しろ!」と面倒臭そうに答えた。
しかし、たった1分遅れただけで手が付けられないほど大激怒。それでも何とかなだめて車で送ってもらった。
また、父親は食事のときにクチャクチャ音を立てて食べる“クチャラー”。たまりかねた白馬さんが、「お願いだからやめてくれない?」と頼むと、案の定「うるせー!」と憤慨し、激昂。それ以来、毎日食事のたびにわざとクチャクチャ音を立てて食べるという子どもじみた嫌がらせをされ続けた。
一方母親は、忍耐強く、バイタリティに溢れ、おおらかで愛情深い人だった。
「母は中卒で、家も貧乏だったため、父方の祖母に蔑まれていたそうです。農業をしている父方の祖父母は、自分の娘たちには農作業をさせないのに、嫁である母は四六時中呼びつけてはこき使い、父はそれを咎(とが)めなかったようで……。子どもが生まれてもそれは変わらず、母は幼い私を背負って、朝から晩まで奴隷のように働かされたと、大人になってから聞きました」
父親は自分のルーティンにはこだわりがあり、それを崩されると激怒した。米の炊き方1つにもうるさく、銘柄、何合炊くか、水の分量、炊飯後の蒸らし時間などまで細かく指定し、母親はその通りに炊いていた。
子どもが小さいうちは、家事・育児・農作業の合間に内職をし、子どもたちが小学校に上がるとパートに出始めた。
「安い給料で、夏も冬も暑い過酷な環境であるクリーニング工場でパートをしていた母は、『私は学がないからこういう仕事しかない』と言いつつも、『絶対見返してやる!』という気概を持ち、私たち子どもには愚痴を言うこともなくずっと働き詰めでした。私が中学生の頃、母はもう50代でしたが、フルタイムで働いてヘトヘトになって帰ってきてもキチンと家事をしてくれるしっかり者でした」
父親は50歳手前の頃、父親は下腹部の痛みを訴えながら数日間寝込んでいた。母親が何度「病院へ行こう」と言っても聞かず、激しい痛みに冷や汗を流しながら耐えていた。しかしついに、「救急車を呼んでくれ」と言う。
ただし、「近所に知られたらみっともないから、絶対にサイレンを鳴らさずに来るように言え」と念を押す。母親はその通りに伝え、救急車もその通りに来てくれた。
結果、父親は尿路結石だった。
父親は、50代を過ぎたあたりの頃から、腰から足にかけての痛みをたびたび漏らすようになっていたが、やはり病院には行きたがらなかった。
「父は、家での調理中、誤って足の上に包丁を落として大怪我をしたこともありました。母と私が病院へ行くよう言いましたが、父は大の病院嫌い。自力で自然治癒させました。自分が一番偉くて正しいと思っているので、人の忠告なんか聞くわけないのです」
しかし60歳になったとき、父親は腰から足にかけての痛みがひどくなり、歩けない状態に陥る。何とか母親が介助して病院を受診すると、脊柱管狭窄症と診断された。脊柱管狭窄症とは、神経の背中側にある黄色靭帯(じんたい)が分厚くなったり、椎体と椎体の間にある椎間板が突出してヘルニアとなったり、骨そのものが変形突出したりすることで脊柱管が狭くなった状態だ。脊柱管が狭窄すると中を走る神経が圧迫され、歩行時や立っているときに臀部(でんぶ)から下肢にかけての痛みやしびれが出る。
歩行障害が出ていた父親は、神経の圧迫を解消するため脊柱管を拡げる手術を受け、2カ月ほど入院した。
「病院へ行った時はすでに痛みで歩けなくなっていたので、発症から10年以上経っていたのだと思います。早く病院へ行って対処療法などを受けておけばここまで苦しまずにすんだと思うのですが、とにかく父はバカが付くくらい病院嫌いでした」
高校を出た白馬さんは、流通系の会社に事務として就職。そこで24歳の時に、管理職の28歳の男性と交際に発展。25歳で結婚し、実家から公共交通機関で1時間ほどのところで生活を始めた。結婚後は、年に数回実家を訪れ、母親とは年に数回旅行をしていた。
両親は65歳になると、定年退職する。父親は趣味のガーデニングやDIYなどをして過ごし、母親はそんな父親の手伝いや後始末をして過ごしていた。
一方、結婚して10年経過し、35歳になった白馬さんは家庭内別居状態に陥っていた。
「お互いのことをよく知りもせず結婚してしまったため、割と早い時点お互いに、『違うかも』と思ったのですが、同じ会社に勤めていたこともありズルズルと……。夫は私が家にいると不機嫌になるため家庭内別居状態に陥り、会社では別部署に異動に。私は家でも職場でも居場所がなく、疲れきっていました」
家庭内別居生活も10年……。白馬さんは突発性難聴を発症。「もう精神的に限界だ」と思った白馬さんは、思い切って退職と離婚を切り出した。
「仕事を辞めれば生活が苦しくなることは分かっていましたが、このつらい状況が続くよりはマシだと思いました」
離婚を切り出すと夫は、「自分の貯金を全部持って行っていいから出て行って」と言った。
「結婚費用や自宅購入時の頭金は私が払ったんですし、子どももおらず共働きだったんですから、私の貯金は私のものですよね?」
2021年3月。45歳の白馬さんは、20年間の婚姻生活に別れを告げると同時に27年間正社員として勤めていた流通系の会社を退職した。
約20年の結婚生活の間に老後資金を貯めていた白馬さんは、これまでの自分の生活スタイルが崩される恐れがあるうえ、娯楽施設が何もない田舎で両親との同居はしたくなかったため、実家には戻らず、中古マンションを購入しようと考えていた。
ところが、その計画を聞いた父親は、「お前はバカか。中古マンションなんてばかげてる」と言い、猛反対。白馬さんが購入しようとしていたマンションを管理する不動産屋へ勝手に電話し、「そのマンションの資産価値はどうなんだ? 地震対策はちゃんとしているのか? 住人の年齢層はどうなんだ?」などと問い合わせ、白馬さんが購入を躊躇うような情報を引き出し、実家へ帰ってくるよう誘導。
結局、父親の策略にはまり、実家に帰ることにした。
ところが、コロナ禍になってからは電話のみで、実家には帰っていなかった白馬さんは、約2年ぶりの実家に仰天する。家の中も庭もゴミで埋め尽くされ、ゴミ屋敷状態になっていたからだ。
DIYが趣味の父親(当時84歳)は木材を買っては使わず放置。部屋のみならず廊下まで木材で埋め尽くされていた。もともと母親(当時83歳)の部屋だった場所には、缶詰、食器用洗剤、衣料用洗剤などをケース買いしたものが山積みで足の踏み場もない。
ダイニングルームの床、キッチンの収納庫、食器棚の上、パントリーの棚すべてに大量の新品のフライパンや鍋が置かれており、その数合計50個以上。両親2人暮らしなのに大型冷蔵庫が2台、冷凍庫が1台あり、5年前の日付が書かれた食材がぎゅうぎゅうに詰め込まれている。
キッチンやダイニングには、肉や魚が入っていた空のトレイが100トレイ以上、空の2リットルのペットボトルが10本以上、空の段ボールが10個以上積まれており、食事をするスペースもない。
父親は、斜めになったまま動かない壊れた電動ベッドをリビングに置いて寝起きしていたようだが、黄ばんだ寝具からはひどい臭いがしていた。
浴室は換気扇が壊れており、壁も床も天井もカビで真っ黒なうえ、触るとぬるぬるする。庭には放置されたプランター、肥料、ゴミ。庭木は伸び放題、雑草は生え放題。
白馬さんは、きれい好きで常に家も庭もピカピカにしていた母親の変貌ぶりに戸惑った。
「私が戻るも何も、私が生活するスペースがないだろうと驚愕しました。父は昔から、自分が好きなことだけやって放置の人。母が元気な頃は母が後始末をしていましたが、約2年ぶりに会った母は、ぼんやりしており反応が薄く、両親とも何週間も入浴していないにもかかわらず、それを普通じゃないと認識していない様子でした」
「父はともかく、母を放っておけない!」と思った白馬さんは、両親が使っておらず、被害が少ない2階とキッチン以外の水周りをリフォームし、自分の生活スペースを作ることから取りかかった。(以下、後編へ続く)
———-旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。2023年12月に『毒母は連鎖する~子どもを「所有物扱い」する母親たち~』(光文社新書)刊行。———-
(ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)