雅子さまはかつて外交官として第一線でご活躍され、皇室に入られてからも、そのお力を遺憾なく発揮されてきた。愛子さまが選ばれた「就職」という進路からは、実務経験を皇室でのご活動に生かされてきた雅子さまへの憧憬、そして、母娘の強い絆が感じられる。
【写真】若かりし天皇皇后両陛下が細身のスキーウエア姿で雪上に立つ姿。他、雪だるまの横に立つ愛子さま、たこ焼きを持つ佳子さまも
「こういうふうに役立っているのはありがたいです」
雅子さまは、昭憲皇太后から歴代皇后が受け継いだ「ご養蚕」で採れた絹糸が使われている宝物をご覧になり、しみじみとご感想を述べられたという。1月23日、天皇皇后両陛下は、明治神宮の杜に佇む明治神宮ミュージアム(東京・渋谷)を訪問された。この日の雅子さまは、ベージュのパンツスーツに同系色のスカーフを合わせられており、いつになく穏やかな表情だった。
「依然として療養中ではあるものの、ご体調の波は安定しつつあるようです。加えて、愛子さまの就職内定も、雅子さまの好調を支える大きな要因でしょう。その日は、就職内定発表の翌日でした。愛子さまの就職が国民から好意的に受け止められたことに、雅子さまは安堵されていたのかもしれません」(宮内庁関係者)
学習院大学卒業後、愛子さまは4月から日本赤十字社(以下、日赤)で嘱託職員として働かれる。発表に際し、愛子さまは次のようなコメントを発表された。
「本年4月より日本赤十字社の嘱託職員として勤務することの内定をいただき、ありがたく思っております。日頃から関心を寄せている日赤の仕事に携われることをうれしく思うと同時に、身の引き締まる思いがいたします。これからもさまざまな学びを続け、一社会人としての自覚を持って仕事に励むことで、微力ではございますが、少しでも人々や社会のお役に立つことができればと考えております」
就職内定の発表は1月22日。大学ご卒業後は、大学院進学か海外留学をされるとみられていたなかでの、サプライズ発表だった。
「報道各社に対してこの日、愛子さまに関する何らかの報告があることは、事前に知らされていたそうです。大学院の願書提出の締め切りは11日でしたが、愛子さまが提出をされていないということを掴んでいる社もあり、彼らの間では就職か、もしかしたら結婚もありえるのではないかとささやかれていました。
さらに、就職と言っても、天皇家ご出身の方々で、研究職以外の就職先で、いわゆる会社員のような働き方を選ばれたのは、愛子さまが初めてです。そういった意味でも予想を裏切る展開でした」(皇室記者)
両陛下のさまざまなご活動や、大学で受講された福祉に関する授業などを通じて福祉活動全般にご関心をお持ちになられていた愛子さま。日赤への就職は、自ら希望されたといい、今後は、公務と仕事を両立される予定だという。
「愛子さまは成年に際する記者会見で、災害ボランティアなどの奉仕活動に興味があることを明かされました。日赤への就職は、もちろん愛子さまご本人のご興味もあるでしょう。ただ、このタイミングで就職という選択をされた背景には、過渡期にある“皇室の事情”もありそうです」(皇室ジャーナリスト)
岸田首相は昨年11月、皇室の抱える喫緊の課題である「皇族数の確保」と「安定的な皇位継承」を解決すべく、「安定的な皇位継承の確保に関する懇談会」を設立し、議論を本格化させた。
「懇談会は皇族数確保の方策として、『女性皇族が婚姻後も皇族の身分を保持する』などを提案する方向で調整に入ったそうです。つまり、愛子さまは、結婚後も皇室に残られる可能性が大きくなってきました。今後の議論の展開によっては、女性天皇として即位される可能性もあります。愛子さまは、天皇家の長子で、女性皇族でもある唯一無二の存在なのです」(前出・皇室ジャーナリスト)
公務を担う成年皇族の数は減少の一途をたどる。もし愛子さまが学業に集中されたり、海外で生活されたりという状況になれば、おのずとほかの成年皇族の負担が増すことになる。
「愛子さまには皇室のお力になりたいというお気持ちがおありですから、公務との両立が可能な就職という選択肢を選ばれたのでしょう。ただ、何よりも念頭にあったのは、母の雅子さまをお支えしたいというお気持ちではないでしょうか」(前出・宮内庁関係者)
愛子さまが物心つかれたときにはすでに、雅子さまは適応障害を患われていた。放送作家のつげのり子さんが分析する。
「雅子さまは適応障害に苦しまれながらも、愛子さまのことを全力でお守りされてきました。公務がままならないなかで自分を支えてくれた雅子さまに対し、今度は自分が雅子さまを支えたいと愛子さまが希望されるのは自然なことです。日赤の名誉総裁は、皇后にとって最も大事な任務であるといっても過言ではありません。愛子さまは、日赤関連の仕事と公務と両面から雅子さまのお力になりたいと願われたのかもしれません」
愛子さまと同じく天皇家の娘である黒田清子さん(紀宮さま)もまた、大学卒業後に就職し、仕事と公務を両立させるという形で、長年、美智子さまを支えてこられた。
「民間から初の皇太子妃となられた美智子さまは、時に孤立されることもあったといいます。皇室という特殊な環境のなかで、精神的に娘の清子さんの存在に支えられていた部分は大きかったでしょう。皇后としての母の苦しみを、清子さんも、愛子さまも誰より近くで見ていますから、娘の自分がお支えしたいという思いが芽生えるのかもしれません」(前出・宮内庁関係者)
それにしても、愛子さまの眼前には、大好きな日本の古典文学の研究に打ち込む道や、海外留学の選択肢もあったはずだ。幅広い可能性のなかで、「就職」という決断の背中を押されたのは、ほかならぬ雅子さまだったという。雅子さまと陛下は、愛子さまの就職内定にあたり、以下のようなコメントを出された。
「愛子が日本赤十字社の嘱託職員として受け入れていただくことになったことをありがたく思います。この春から日赤の一員として仕事に従事することにより、多くの人のお役に立てるよう努力を続けるとともに、社会人の1人として成長していってくれることを願っています」
「社会人の1人として成長」という言葉は、まさに雅子さまにしか伝えられないエールである。
「振り返れば、長い歴史を持つ日本の皇室において、“ビジネスマンのキャリアを持って天皇家の一員になられた方”は、雅子さまのほかにいらっしゃいません。美智子さまは大学ご卒業後に就職はされず、学業や研究を続けるなかで皇太子妃となられた。紀子さまは大学院に在学中に秋篠宮さまと結婚されました。
雅子さまは自らの経験から、これからの皇族には“社会人としての経験が必要”と痛感されているのに加え、自分自身の“仕事への強い思い入れ”もあり、愛子さまの実務職への就職を後押しされたのでしょう」(皇室関係者)
雅子さまは、ハーバード大学を卒業後、東京大学に学士入学し、外交官試験に合格。外務省に入省され、華々しいキャリアを積まれてきた。
「陛下は『外交官として働くのも、皇室の一員になるのも、国のために働くという意味では同じではないですか』と雅子さまにプロポーズされたそうです。一度は結婚を断られた雅子さまも、それならばとプロポーズを受けられた。雅子さまが結婚後に描いていたのは、『皇室外交』でご活躍される未来だったでしょう」(前出・皇室記者)
ところが雅子さまはお世継ぎ問題に対する過大なプレッシャーを受けられ、2004年、適応障害の診断を公表された。前出の宮内庁関係者が振り返る。
「当時、皇室の公務は要請に応える、いわば受動的なものとされてきました。しかし、雅子さまは能動的、自発的に皇室の仕事に向き合いたいと考えられていたといいます。雅子さまによって何よりも耐え難かったのは、“仕事をしたい”という意欲そのものが否定されたことだったのではないかと拝察しています」
2005年、当時皇太子だった陛下はお誕生日会見で、「時代に即した新たな公務を雅子さまと模索していきたい」という趣旨のご発言をされた。
「雅子さまのお気持ちをフォローされたのでしょう。仕事に対する熱意は、適応障害になられてからも変わらないはずです。ご体調が許さずとも、ご一家のなかでは“仕事に取り組みたい”という話をされていたのではないでしょうか。その姿勢はおのずと愛子さまに影響を与えられたでしょう」(前出・宮内庁関係者)
愛子さまの具体的な業務内容や勤務形態は、有給かどうかも含めて決まっておらず、一般の職員と同じようなフルタイムでの勤務は想定していないという。
「愛子さまは当面、ご公務と皇族としてのご活動との兼ね合いを考慮しながら勤務されるとみられています。雅子さまには、社会人としてキャリアを積んでこられた自負と誇りがおありでしょうから、その誇りを愛子さまに託されたのではないでしょうか。
人生の岐路にあたり、天皇家の長子であればどのような選択肢でも実現できたはずです。それでもあえて実務職への就職という道を選ばれたのは、雅子さまが心を鬼にして“働きなさい”と激励されたからでしょう」(別の宮内庁関係者)
ご卒業後すぐに就職され、社会人経験を積まれることは、今後のご活動に生きるだろう。
「将来的に皇族数が減少し、愛子さまが皇室のご活動の中心を担われることは自明で、今後、仕事と公務の割合は変化することになるでしょう。早い段階で就職をされ、仕事に邁進されることは、むしろ愛子さまにとってプラスになります。外交官経験を海外訪問や海外の要人接遇に生かされてきた雅子さまのように、愛子さまも、日赤の経験を公務に生かされるでしょう」(前出・皇室記者)
日赤は、日本全国で赤十字病院など医療機関を運営するほか、大地震や台風などの自然災害が発生した際には救援活動も行う。
「愛子さまは日赤で、災害について研鑽を積まれるのではないでしょうか。被災地訪問は、上皇ご夫妻から連なる、皇室の重要なご活動のひとつ。愛子さまは実務にあたる側および皇室側、どちらの視点も持つことになります。被災地訪問の際、両陛下に的確な助言を出されるような場面も出てくるかもしれません」(前出・皇室記者)
母娘の仕事熱心な“DNA”は受け継がれていく。
※女性セブン2024年2月15日号
暖冬の今年も、ようやく本格的なスキーシーズンが到来した。真っ白なゲレンデでは、誰もが開放感あふれる表情を見せるもの。スキーに訪れた皇族方も普段とは違うリラックスした笑顔を見せられてきた。女性皇族方の、雪上のはじける笑顔をプレーバック。
●2005年1月 奥志賀高原スキー場にて 新潟県出身の実父にスキーを教わられていた雅子さま。ご自身も3才の愛子さまを優しくサポートされながら、熱心に教えられていた。
●2001年2月 奥志賀高原スキー場にて
愛子さまがお生まれになる前の最後の、おふたりでのスキーを楽しまれる両陛下。
●2005年1月 奥志賀高原スキー場にて
ご自身の身長ほどもある雪だるまと並ばれ、記念撮影される愛子さま。
●1988年3月 札幌のスキー場にて
ご結婚前、ご友人とスキーを楽しまれる雅子さま。スポーツ万能の雅子さまは、スキーの腕前もかなりのものだったとか。
●2019年3月 奥志賀高原スキー場にて
17才になられ、雅子さま同様見事な腕前を披露されるように。両陛下とともにエキスパートコースなどでスキーを楽しまれたという。
●2005年1月 奥志賀高原スキー場にて
愛子さまがお生まれになってからは、かまくらで写真撮影をされるなどスキー以外の楽しみ方も。
●2014年3月 志賀高原 焼額山スキー場にて
中学生らしく赤と青のビビッドな色合いのウエアで。急斜面を軽快に滑り降りるお姿も動画で公開された。
●1971年3月 苗場スキー場にて
ピンクのジャケットにスリムなグレーパンツをあわせた、可憐なスタイルが目を引く。美智子さまがスキーに行かれるたびに、そのファッションも注目を浴びた。
●1967年2月 苗場スキー場にて
上皇さまと笑顔でお話しされる一枚。ご一緒にスキーを楽しまれ、愛を育んでいった。
●1970年3月 苗場スキー場にて
天皇陛下がお生まれになると、陛下を導くように滑り、自らご指導。
●1965年2月 苗場スキー場にて
全身紺で統一されたスタイリッシュなコーデ。お帽子は美智子さまにとっての冬の定番ともいえる白のファーで。
●1993年2月 栂池高原スキー場にて
ご結婚から3年、注目を浴びながら一般客にまざってスキー旅行へ。「お上手ですね」と声をかけられ、笑顔を見せられる場面も。
●1993年2月 栂池高原スキー場にて
鮮やかなストックさばきで颯爽と滑り降りられる。真っ赤なウエアがより一層目を引いた。
写真/宮内庁提供 撮影/『女性セブン』写真部
※女性セブン2024年2月15日号