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「最悪の日」のその後はどうなったのか。あわや実の母親から絞殺されそうになった“15歳の夜”のことを東海地方在住の奈良弥生さん(仮名・30代)は静かにこう語り出した。
「あの日まで、私には自殺願望がありました。毎日(DV被害が)つらかったので、終わらせたら楽になるんじゃないかと思っていたものありますが、私がいなくなれば、『両親は自分たちがやったことを後悔してくれる』『謝ってくれる』と思っていました。それと同時に、物騒な話ですが、親を殺すことでも頭がいっぱいになっていました。『家ごと燃やしてやろうか』とか、『寝ているところを……』など、毎日のように考えていました」
しかし最悪の日をきっかけに、考え方が180度変わった。
「もしも親を殺してしてしまったら、何年も少年院や刑務所に入らないといけない。出たあともろくな仕事には就けないだろう。親を殺した罪を一生背負うのは自分だ。自殺したとしても、両親に反省してもらえたとして一体何になる? そもそもあの母が反省するわけがない。むしろ“子に先立たれた可哀そうな私”に全力で酔うに決まっている。ろくでもない親のために、大切な自分の人生を棒にふるのはバカバカしい」
そう考えるようになったのだ。幸い、あの母親は自分の見栄のためなら、子どもの学費は惜しまない。
「だったら、親のお金で学歴を積めるだけ積み、親と完全に縁を切れるだけの収入を得る術を身に付け、経済的に自立してから確実に縁を切ってやろうと思いました」
たった15歳で、将来家を出るための長期的な計画を立て、親を利用できるだけして絶縁してやろうと思える奈良さんの頭の良さに感服する。
奈良さんが通っていた学校は中高一貫校だった。卒業後は、母親が「地元国公立しか認めない。それ以下は恥ずかしい」と言うため、地元国公立大学に入学。選択の余地は学部しかなかった。
「自由に大学を選べる友人がうらやましくはあったのですが、親の金を利用して大学卒を勝ち取ることだけが目標でした。母は最後まで私を医者にしたかったようで、理系学部の合格を報告すると、『医学部じゃないのか』と半笑いで言われました。ただ、少し満足そうな様子ではあり、大学の入学式についてきました」
大学の学費は、最初は出してくれたが、母親は気に食わないことがある度に学費を盾に奈良さんを脅し、だんだんと出し渋るようになった。そのため、奈良さんは奨学金をもらいながらアルバイトもしていたが、なるべく親と顔を合わせないように、朝早く家を出て夜遅くに帰宅。稼ぎは食費や被服費などに消えた。
大学卒業後は、地元の企業に就職。就職に関してはもう、親の意見など聞かなかった。
「社会人になってからは半年で40万円ほど貯め、引越し先の家賃や引越し代、家具・家電を一通りそろえたらすっからかんになりました」
15歳のあの日をきっかけに、着々と脱出計画を進めてきた奈良さんだが、すぐに頭を切り替えられたわけではなかった。
「逃げようと画策している傍らで、『もしかしたら関係改善できないかな』『何度も何度も訴えれば、過ちに気づいてくれないかな』と淡い希望を抱き、親とのコミュニケーションの取り方を模索していました」
努力の甲斐あって20歳目前の頃、一時的に普通の母娘として会話ができるようになった。このまま関係が改善するのではないかと思った奈良さんは、母親をテーマパークや飲み屋に誘う。しかし毎回、「なんでお前なんかと一緒に行かなきゃならないんだ」と文句を言われ、再び前触れなくキレられるようになり、奇跡は約3カ月しか続かなかった。
「ああもうこの人とはだめなんだな」と悟った奈良さんは、完全に諦めた。
社会人1年目の秋頃、奈良さんは家を出た。あの「最悪の日」から7年の月日が流れていた。引っ越し後、奈良さんはすぐに分籍を実行。分籍とは、親の戸籍から自分だけを抜き、新たに自分が筆頭者の戸籍を作ることで、法律的に親との縁が切れるわけではなく、相続などにも影響はない。
「ずっと家という牢獄に縛られていたので、親の籍から抜けることで、『これで毒親とは他人になった、これからは絶対に親と関わらない』という強い決意が持てて、精神的な自由を感じることができました」
さらに、親からの連絡を断つために、携帯電話の番号も変えた。
「友だちに新しい電話番号を伝えたり、会社や公的なものに登録している番号を変更しなければならなかったりでけっこう手間ですが、親から一切の連絡を断ちたい人にはおすすめです」
そこまでやり終えた奈良さんは、しばらくは、「解放された! 最高! 超自由! 誰も怒鳴り込んでこない!」という達成感や高揚感でいっぱいだった。
しかし、それは一時的なものだった。
一人暮らしを始めて3カ月ほど経つと、奈良さんは親への怒りに震え始め、その一方で、「自分には優しい親は2度と存在しない」という事実に悲しみ、「どうしてあんな仕打ちをされなきければならなかったんだろう」「あの時私が耐えていたら違ったのかな……」と、一人になると泣いていた。
奈良さんは、物理的に親と離れても親に囚われ、苦しみ続ける自分に気付く。そんな中、これまでの自分の経験や本、インターネットなどで調べたことと併せて、毒親から自由になるための方法を考えた。それが以下だ。
ステップ1:まずは自分の毒親のタイプを知るステップ2:悪いのは自分ではないことに気づくステップ3:自分のなかの怒りや悲しみを認めるステップ4:親が毒親となってしまった理由を考えるステップ5:親にできること・できないことの線引きをするステップ6:今後の親との付き合いかたを考えるステップ7:自分の人生から親を切り離す
まず、自分の毒親のタイプを把握し、悪いのは自分ではないということに気付く。
「子どもにとって親は絶対的な存在なので、『おかしい』と思うことは勇気のいることです。また、毒親を持つ子どもは、毒親のおかしさに毎日触れていると、『親がこんなことをするのは自分が悪いからだ』と思ってしまうケースがほとんどです。子どもは親のことを好きになろうとするものなので、親のことが憎くて憎くて殺してやろうと思っていた私も、最初は親のことが嫌いになれなくて、できれば普通の母娘になりたかった。結局だめでしたけど……」
この段階では、「親は正しい」という思い込みや、「親は敬うべきだ」という刷り込みを取り払い、「自分は悪くなかった」と思えるようになることが大切だ。
自分が親からされてきたことに向き合い、自分は悪くなかったと思えるようになると、「親への怒り」や「自分がされたことへの悲しみ」に向き合わなくてはならなくなる。それはいわば、「毒親育ちの自分」に向き合う作業だ。奈良さんはその作業を、「絶縁前よりつらかった気がします」と話す。
「親から言われ続けてきた『お前が悪い』という言葉が嘘だったと認識できると、ものすごい悲しみが襲います。それがとてつもなくつらかったです。しかし毒親への怒りや悲しみは、解毒につながる重要な一歩だと思います」
一方で、親の良い面や苦労してきた面を見せられてきた毒親育ちにとっては、「親に対してこんな気持ちを抱いてもいいんだろうか……」と混乱する場合もあるだろう。その場合は、毒親の良い面と悪い面を切り分けて考え、感情を整理することが大切だ。
「毒親育ちの自分」に向き合い、感情の整理が終わったら、次は親が毒親になってしまった理由を考えてみる。奈良さんは、「この作業は、親の事情を受け入れるためにするのではなく、客観的に毒親と子どもの現状を理解するために必要であり、『自分は悪くなかった』をより深めるためのステップだと思ってほしい」と言う。
例えば、実は親の両親も毒親だったとか、親が発達障害だったとか、一方の親にハラスメントを受けていたなど、親が毒親になってしまった理由が分かれば、自分のせいではなかったことが明確になる。
親のバックグラウンドを理解できたら、今後、自分が親に対してできること・できないことの線引きをし、自分の人生から親を切り離す仕上げに入る。
「私の母のように、子どもを一人の人間として尊重することは無理でも、自分の世間体を保つためならお金は出すという親もいます。大事なのは、自分の親の傾向を理解し、対策することです。『自分の親はこのタイプだからこんな行動をとってしまうんだな』と理解することで、精神的に適切な距離を置き、親の人生から自分を切り離すことができるようになるのです」
毒親の多くは子どもとの共依存関係を構築している。共存関係にある両者は、相手との間に境界線がないため、子どもを所有物のように扱う。だから子ども側から線引きし、共依存関係を断ち切ってしまうのだ。
奈良さんは、つらい境遇にありながらも自分を客観視し、この「毒親から自由になるための7つのステップ」を考え出した。
実家を出てから約4年。27歳になった奈良さんは、社会人サークルで知り合った男性と交際に発展。その2年後、結婚することになった。
「親と絶縁したことを話すと、多くの人は『親と喧嘩してるの? 大人になりなよ~』と理解されないか、『えっ! 可哀そうに。気付いてあげられなくてごめん……』と大げさに哀れまれるかのどちらかでしたが、夫は事実をフラットに聞いてくれて、『この人はなんか違うな』と思いました」
しかし、結婚までの道のりは決して平坦ではなかった。
奈良さんは何よりも、夫の両親に「親と仲が悪いなんて問題のある娘さんなのでは?」と思われることが怖かった。だが隠し通すことはできない。そこで正直に、「親と仲が悪く、しばらく連絡を取っていない」とだけ伝えたところ、それ以上聞かれることはなかった。
ところが無事に籍を入れ、ほっとしたのも束の間。夫の両親が、「せめて一回は会っておきたい」と言うため、奈良さんは、6年ぶりに両親と会わなければならなくなってしまう。
「ものすごく嫌でしたが、覚悟を決めて電話をしました。母が出たので、『結婚したので相手のご両親と顔合わせをしてほしい』と切り出すと、『わかった』と言い、日取りを決めました」
顔合わせ当日。奈良さんは震えや吐き気が止まらず、内心パニック状態だったが、夫の両親の手前、平静を装い通した。
「私は真顔以外の顔を作ることができず、態度も最悪で、とてもぎこちない時間が流れました。母は終始こわばった表情で、お祝いの言葉は一言もなし。一度だけ父が何かの話の流れで、『俺は定年前、次長だったんだぞ。お前は興味なかったから知らないだろ?』と私に話をふってきたのですが、『子どもに興味がなかったお前が言うのか?』と呆れました」
時間が過ぎ、「やっと苦行が終わった」と奈良さんが思ったその瞬間、突然母親が夫に話しかけた。新居の住所と夫の連絡先を聞き出したのだ。
事情を知っていた夫もさすがに断ることはできず、奈良さんが必死で守ってきた砦はあっさりと破られてしまう。以降、母親はときどき奈良さんの夫に連絡をして来たが、夫はブロック。新居宛に荷物が送られてきたこともあったが、すべて受け取り拒否。幸い両親が新居に突撃して来ることはなく、奈良さん夫婦はその3年後に引っ越した。
それでも奈良さんにとって結婚は、悪いことばかりではなかった。
「毒親育ちが結婚する最大のメリットは、何かあったときの緊急連絡先が配偶者になるという点だと思います。自分に何かあっても親に連絡が行かない。緊急連絡先に親の名前を書かなくていい。私には親以外に緊急連絡先欄に書けるような親戚がいなかったので、とても重要なことでした」
名字を変更できるというのも大きなポイントだった。奈良さんは両親と同じ名字を捨てられて感無量だった。
筆者は家庭にタブーが生まれるとき、「短絡的思考」「断絶・孤立」「羞恥心」の3つが揃うと考えている。
「短絡的思考」は、焦って結婚したという母親と、愛がない結婚を受け入れた父親両者に見られる。
現在30代の奈良さんの親世代やそれ以前の世代の人たちは、結婚適齢期や世間体を気にするあまり、慌ててお見合いをしたり友人知人に紹介をしてもらうなどし、出会って数カ月で結婚するカップルが少なくなかった。
『29歳のクリスマス』というドラマや「売れ残り」などという言葉が流行ったのは、筆者がまだ10代の頃だったが、私たちの世代が20代半ばを過ぎる頃には、結婚適齢期や世間体を気にする風潮がおさまっていたのは幸いだった。
私たち世代からすれば、ろくに相手を知らないまま結婚できてしまう上の世代の短絡的さに驚愕する。20代で慌てて結婚し、平均寿命である80代後半まで生きるとしたら、結婚後の人生のほうがはるかに長い。そんな長い時間をともに生きる生涯の伴侶を、たった数カ月で決めてしまっていいのだろうか。
案の定、奈良さんの両親の仲は良いとは言えず、見栄のために散財し、子どもを虐待する母親と、家族に無関心な父親が出来上がる。奈良さんの知る限り両親に親しい友だちはいない。パートをして暮らしているのに、外車を2台も持つほどの見栄っ張りということは、近所や親戚に対する競争心も強かったに違いない。まともな人なら、愚痴や悪口ばかりで、誰彼構わず競争心むき出しの人とわざわざ親しくなろうとは思わない。
連日奈良さんと母親が口論する声や物が壊れる大きな音が近所にも響いていたはずだが、誰も助けに来ず、警察を呼ばれることもなかったのは、それだけ奈良さんの両親が近所で“浮いた存在”だったということが想像できる。親戚さえ疎遠だった様子からして、奈良さん一家は社会から断絶・孤立していた。
そして“最悪の日”に、奈良さんは両親を見限った。
「両親に対して、恥ずかしいという感情は持ったことはないと思います。外面は良かったですし。どちらかと言えば、『ここまで話が通じないのは頭がおかしいんだろうな』とか、『私には真っ当に愛してくれるまともな両親はいないんだな』と思っていました」
現在奈良さんは、夫と娘の3人で平穏に暮らしている。
30歳で出産した奈良さんはこう話す。
「子どもを持つことがとても怖かったのですが、毒が連鎖することはありませんでした。毎日『自分の子どもが世界一可愛い』『一生この子の味方でいたい』と強く思いながら生活しています」
しかしその恐怖が完全に消えることはなかった。
「私が子どもの頃は、母に髪をつかまれて引きずり倒されたり殴られたり、よくわからない暴言で黙らせられたりと、決してまともな対応はされませんでした。だから娘に対して、『あなたは私という母親に冷静に何が悪かったのかを諭され、何が不満なのかを聞いてもらえ、抱きしめて不安を解消してもらえてずるい……』と思ってしまう自分と、『でも、自分の子にはあんな思いはさせたくない』という2つの気持ちが、ずっと心の中を錯綜しています」
筆者はこれまで毒親に育てられた人を50人近く取材してきたが、自分の親を毒親だと認識できているうえで子どもを持った人の多くが、「『自分の子どもに嫉妬する』が、『自分は親にされて嫌だったことは絶対にしない』」と口にしている。
「子どもがいたずらしたとき、言うことをきかないとき、暴れているとき。毎回親としてちゃんとした対応ができているか、自分が毒親化しないか、愛情を持って子どもに接しているかを、過去の傷ついた子どもの自分が常に見張っていて、ずっとジャッジされているような感覚です。毒親育ちの子育てにかかるプレッシャーは半端なものではないと思います」
そんな中奈良さんは、「子どもを1人の人間として接することができればOK!」とだけ考えることで、プレッシャーを軽減した。
「つい私たち親は、『もっと頑張らなきゃ!』と自分で自分を追い詰めてしまいがちですが、そもそも親に正解なんてありません。明らかに間違っている親(=自分の親)を見てきたので正解があるような気がしてしまいますが、明らかに間違わなければいいのだと思うことにしました」
筆者も子育てを始めてから自分の子どもの頃のことを頻繁に思い出すようになったが、毒親育ちの人の場合、過去のつらい出来事がフラッシュバックすることも少なくない。
「毒親育ちには、『親にしてもらって嬉しかったことを子どもに返そう』という“正の子育ての連鎖”がありません。なので、自分で1から適切な子育てを身に付けていかないといけないんです。人格否定や罵倒で育ったので、正しい叱り方がわからない。過干渉で育ったので、どこまで手助けしてあげたらいいかわからない。遊んでもらったことがないから、子どもが喜ぶ遊び方がわからない。これはやりすぎなのか? 適正な範囲内なのか? と悩むことが多いです」
例えば、子どもが気に入った服を毛玉になっても着続けているとき。学校でいじられたりしないか心配になった奈良さんは、「もうその服捨てたら? みっともないよ」と言うのは過干渉かどうか迷ったという。
旦木瑞穂『毒母は連鎖する 子どもを「所有物扱い」する母親たち』(光文社新書)※刊行記念として漫画家・ライターの田房永子さん、漫画家・イラストレーターの尾添椿さんとのトークイベントを24年1月18日に開催。
奈良さんは、本やTV番組、ネットなどから知識をつけたり、義両親を頼ったり、先に子育てを始めた友人に相談したり、支援センターで保健師に話を聞いたりした。子どもが話せるようになれば、子ども自身が何が好きで何を大切にしているかを、子どもとの対話によって徐々に知っていき、過干渉ではないレベルを測っていった。
12月13日に上梓した拙著『毒母は連鎖する 子どもを「所有物扱い」する母親たち』(光文社新書)の中でも書いたが、大切なのは、その子ども自身と向き合い、一人の人間として対等に扱うことだ。奈良さんの母親にとっての子どもは、見栄を張り体裁を保つ外車や家と同じ“所有物”に過ぎなかった。
「毒親育ちは、決して子育てができないわけでも、向いていないわけでもありません。子どもを育てることで、傷ついた自分も育て直すことができます。自分が子どもに愛情を与えることによって子どもから返ってくる愛情が、私たち自身を癒し、悪い記憶を塗り替えてくれるのです」
奈良さんは現在、1人でも多くの毒親育ちが安心した毎日を送れるようにと、『なやログ。』というブログや、Xで、毒親から自由になるための情報を発信している。自らの経験から導き出した言葉やアドバイスは、きっと多くの毒親育ちの人に刺さることだろう。
———-旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)ライター・グラフィックデザイナー愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。———-
(ライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)