「それぞれの卒婚」ここ数年は結婚20年以上の「離婚」が急増しているし、亡き夫の親族と「死後離婚」する人も倍増している。人生100年時代、「やり直したい」「これまでとは違う人生を送りたい」と望む人がいるのは当然だろう。ただ、思い立った時が必ずしもグッドタイミングとは限らない。離婚後、シングルマザーの多くが収入減やメンタル疲労で貧困レベルにあること、妻に去られた夫族の多くが食事やストレスの管理に失敗して寿命を縮めているのを見ても、人生の下り坂にかかってからの離婚がリスキーであることは明白だ。

そこで現在、有力な選択肢になっているのが「卒婚」だろう。離婚によるデメリットを回避して、時間と金と人間関係のロスを最小限に抑えて「各自、思い残しのないように人生の収穫期を楽しんだり、自分ワールドを作り上げる」策略をする、夫婦の頭脳戦のようなものである。photo by iStock百の結婚があれば、二百人が画策する卒婚スタイルがあるから、これこそ最善策とか王道とかいうものはない。あるのは人生の下り坂を「ストレスを最小限にして、最大限の心地よさで暮らしたい」という願望だ。「それぞれの卒婚」を見れば、同居していても部屋や階を住み分けて「個を取り戻して」暮らす夫婦もいれば、違う家に住んで時々協力し合う夫婦もいる。さらに仕事や実家の都合によって物理的に別居を続けて歳を重ね、気がつけば夫婦でも束縛し合わない暮らし方に慣れるケースもある。要は「開き直って、我が道をいく」確固とした心境に辿り着けるか否かだろう。夫婦の実体験を元に、卒婚のヒントを紹介していこう。海外単身赴任の夫吉岡正雄さん(仮名)は入社早々上司から使い勝手のいい駒として狙われていたようである。学生時代から成績優秀だが、ちょっとネジが外れている。よく言えば「おおらかで動じない」、悪く言えば「鈍感で、マイペースな」性格である。本人は職場の同僚に一目惚れして恋愛したつもりだったらしいが、相手の瑠美さん(仮名)は懇親会で紹介されたきり音沙汰無しだったから、吉岡さんの顔も忘れていたという。2回目に会ったのは彼の海外転勤が決まった時のこと。会議室に呼ばれ、上司を交えてのいきなりの結婚話だった。吉岡さんは「僕、英語話せません!」と外勤を断ったのだが、「海外支店にはバイリンガルがいるから仕事は日本語でいい。お前のことより英語力と度胸のある奥さんが必要だから、急いで求婚しろ」と上司の至上命令である。慌ただしく挙式、入籍と続き、翌月には吉岡さんはアメリカへ直行。半年遅れで瑠美さんが追いついたが、初めての海外暮らしでアタフタしているところに赤ちゃんも産まれ、あっという間に3年が経って、駐在員生活が終わった。瑠美さんは喜び勇んで先に帰国したのだが、急な仕事で他の支社に派遣された吉岡さんはそのまま残留させられ、2度目の単身赴任となった。少しも落ち込む様子なくせっせと働き、週末はのんびりとゴルフや釣りのカントリーライフを楽しんでいたらしい。単身赴任が5年目になっても帰国する気配がないため、子どもらの成長に父親不在はよろしくないと判断した瑠美さんも再渡米した。さぞ感激するかと思えば「よう、元気?」と、まるで先月会ったようなのんきで朗らかな挨拶に、賢妻はあきれたという。ワンオペで子育て&姑の介護をこなした妻お受験のために妻子は2年ほどで帰国したが、彼はその後もN Yに転勤。都合15年に及ぶアメリカ生活の半分は単身赴任だったが、吉岡さんの強靭なる鈍感さで、全然こたえていなかったようだ。帰国して本社勤務になり、いよいよ出世街道と思った頃に「すまないが、代替要員が決まるまで南米の支社のトップを頼む」と専務に頭を下げられた。それも強盗、誘拐が頻発するカオスのような大都会なので、当然のように妻子は社宅に残留することになり、吉岡さん、またまた単身赴任することになった。当人は、小銃を持った警備員に守られた日系企業が集中するビルに出勤し、居酒屋、カラオケ、雀荘、映画館まであって、日本人コックが常駐する邦人専門の高級アパートに住まい、ほぼ日本にいるような生活に満足していたらしい。ところが交代要員のエリート社員は到着して早々にハニートラップで退社し、次の候補もストレスで即、帰国。結局、「鈍感な」吉岡さんが10年近く、のほほんと単身赴任を続けることになった。瑠美さんがワンオペで、髪振り乱して2人の帰国子女の子育て、高校・大学受験、ついでに姑の介護を乗り切った時分に、夫の長い不在が終わる。成田空港で「ただいまぁ」とのどかな声を聞いた時は脳裏に殺意が走ったと、だいぶ後で瑠美さんは打ち明けている。「今度は私が単身赴任します!」帰国直後にやっと東京にマイホームを建てたが、すぐに関西支社の幹部としてまたまた単身赴任。そのうち札幌に住む瑠美さんの実母が突然、くも膜下出血で亡くなった。現役の会長職だった80歳の父親は茫然自失。葬儀が済んでも、娘を愛妻の名前で呼びかける姿に涙した瑠美さんは決意した。「今度は私が単身赴任します!」この時、瑠美さんは55歳だった。夫の単身赴任が続き、家族がないがしろにされていると感じるなかで「離婚」という選択肢もゼロではなかっただろう。しかし瑠美さんは結婚関係を持続させたまま子供を独立させ、自身は実家で父を支えて暮らす「卒婚」を決断した。定年後の夫が家に残り、妻が実家にひとりで移る──「単身赴任婚」を実践しているのだ。夫の吉岡さんは定年後も顧問として会社勤務を続けている。長い単身赴任歴の後、好きに設計したマイホームで気ままにくつろげるのが嬉しくて、8年目に入った単身生活をエンジョイしているという。一方、瑠美さんは父親の世話をしながら、故郷の旧友たちと交流を復活させて毎日が楽しく、忙しい。家元だった母親のお弟子さんたちも家に出入りして、茶の湯を本格的に学び直している。盆と正月には夫が合流し、3人でカラオケ三昧して過ごすのが恒例らしい。単身赴任婚のコツは「相手に対して愚直なまでに両目をつぶること。各自の極秘事項は墓場まで持っていくこと」だそうである。『「これからは僕の世話だけして」という夫に59歳妻がブチギレ!離婚寸前の夫婦が辿り着いた「卒婚」という選択肢』に続く…
ここ数年は結婚20年以上の「離婚」が急増しているし、亡き夫の親族と「死後離婚」する人も倍増している。人生100年時代、「やり直したい」「これまでとは違う人生を送りたい」と望む人がいるのは当然だろう。
ただ、思い立った時が必ずしもグッドタイミングとは限らない。離婚後、シングルマザーの多くが収入減やメンタル疲労で貧困レベルにあること、妻に去られた夫族の多くが食事やストレスの管理に失敗して寿命を縮めているのを見ても、人生の下り坂にかかってからの離婚がリスキーであることは明白だ。
photo by iStock
百の結婚があれば、二百人が画策する卒婚スタイルがあるから、これこそ最善策とか王道とかいうものはない。あるのは人生の下り坂を「ストレスを最小限にして、最大限の心地よさで暮らしたい」という願望だ。
「それぞれの卒婚」を見れば、同居していても部屋や階を住み分けて「個を取り戻して」暮らす夫婦もいれば、違う家に住んで時々協力し合う夫婦もいる。さらに仕事や実家の都合によって物理的に別居を続けて歳を重ね、気がつけば夫婦でも束縛し合わない暮らし方に慣れるケースもある。要は「開き直って、我が道をいく」確固とした心境に辿り着けるか否かだろう。
夫婦の実体験を元に、卒婚のヒントを紹介していこう。
吉岡正雄さん(仮名)は入社早々上司から使い勝手のいい駒として狙われていたようである。学生時代から成績優秀だが、ちょっとネジが外れている。よく言えば「おおらかで動じない」、悪く言えば「鈍感で、マイペースな」性格である。
本人は職場の同僚に一目惚れして恋愛したつもりだったらしいが、相手の瑠美さん(仮名)は懇親会で紹介されたきり音沙汰無しだったから、吉岡さんの顔も忘れていたという。2回目に会ったのは彼の海外転勤が決まった時のこと。会議室に呼ばれ、上司を交えてのいきなりの結婚話だった。
吉岡さんは「僕、英語話せません!」と外勤を断ったのだが、「海外支店にはバイリンガルがいるから仕事は日本語でいい。お前のことより英語力と度胸のある奥さんが必要だから、急いで求婚しろ」と上司の至上命令である。
慌ただしく挙式、入籍と続き、翌月には吉岡さんはアメリカへ直行。半年遅れで瑠美さんが追いついたが、初めての海外暮らしでアタフタしているところに赤ちゃんも産まれ、あっという間に3年が経って、駐在員生活が終わった。
瑠美さんは喜び勇んで先に帰国したのだが、急な仕事で他の支社に派遣された吉岡さんはそのまま残留させられ、2度目の単身赴任となった。少しも落ち込む様子なくせっせと働き、週末はのんびりとゴルフや釣りのカントリーライフを楽しんでいたらしい。
単身赴任が5年目になっても帰国する気配がないため、子どもらの成長に父親不在はよろしくないと判断した瑠美さんも再渡米した。さぞ感激するかと思えば「よう、元気?」と、まるで先月会ったようなのんきで朗らかな挨拶に、賢妻はあきれたという。
お受験のために妻子は2年ほどで帰国したが、彼はその後もN Yに転勤。都合15年に及ぶアメリカ生活の半分は単身赴任だったが、吉岡さんの強靭なる鈍感さで、全然こたえていなかったようだ。
帰国して本社勤務になり、いよいよ出世街道と思った頃に「すまないが、代替要員が決まるまで南米の支社のトップを頼む」と専務に頭を下げられた。それも強盗、誘拐が頻発するカオスのような大都会なので、当然のように妻子は社宅に残留することになり、吉岡さん、またまた単身赴任することになった。
当人は、小銃を持った警備員に守られた日系企業が集中するビルに出勤し、居酒屋、カラオケ、雀荘、映画館まであって、日本人コックが常駐する邦人専門の高級アパートに住まい、ほぼ日本にいるような生活に満足していたらしい。
ところが交代要員のエリート社員は到着して早々にハニートラップで退社し、次の候補もストレスで即、帰国。結局、「鈍感な」吉岡さんが10年近く、のほほんと単身赴任を続けることになった。
瑠美さんがワンオペで、髪振り乱して2人の帰国子女の子育て、高校・大学受験、ついでに姑の介護を乗り切った時分に、夫の長い不在が終わる。成田空港で「ただいまぁ」とのどかな声を聞いた時は脳裏に殺意が走ったと、だいぶ後で瑠美さんは打ち明けている。
帰国直後にやっと東京にマイホームを建てたが、すぐに関西支社の幹部としてまたまた単身赴任。そのうち札幌に住む瑠美さんの実母が突然、くも膜下出血で亡くなった。現役の会長職だった80歳の父親は茫然自失。葬儀が済んでも、娘を愛妻の名前で呼びかける姿に涙した瑠美さんは決意した。「今度は私が単身赴任します!」この時、瑠美さんは55歳だった。
夫の単身赴任が続き、家族がないがしろにされていると感じるなかで「離婚」という選択肢もゼロではなかっただろう。しかし瑠美さんは結婚関係を持続させたまま子供を独立させ、自身は実家で父を支えて暮らす「卒婚」を決断した。定年後の夫が家に残り、妻が実家にひとりで移る──「単身赴任婚」を実践しているのだ。
夫の吉岡さんは定年後も顧問として会社勤務を続けている。長い単身赴任歴の後、好きに設計したマイホームで気ままにくつろげるのが嬉しくて、8年目に入った単身生活をエンジョイしているという。
一方、瑠美さんは父親の世話をしながら、故郷の旧友たちと交流を復活させて毎日が楽しく、忙しい。家元だった母親のお弟子さんたちも家に出入りして、茶の湯を本格的に学び直している。盆と正月には夫が合流し、3人でカラオケ三昧して過ごすのが恒例らしい。
単身赴任婚のコツは「相手に対して愚直なまでに両目をつぶること。各自の極秘事項は墓場まで持っていくこと」だそうである。
『「これからは僕の世話だけして」という夫に59歳妻がブチギレ!離婚寸前の夫婦が辿り着いた「卒婚」という選択肢』に続く…