渋谷の円山町と言えば、クラブやラブホテルが点在するエリアだ。かつては花街としても栄華を極め、芸妓が出入りする置屋が密集していたとか。ディープな雰囲気に包まれ、妖艶なネオンが光る円山町に、置屋の風情が残るお店がある。「ロガマステーキ アルカヌム」は、炉窯で焼く上質なステーキが食べられる、“裏渋”のステーキ専門店だ。
同店の店長兼料理長の鈴木慎也さんは以前、“日本一のステーキ屋”として名高い「皮(あらがわ)」のシェフを務めるなど、腕利きのシェフとして活躍していた一方、経営者としても“資産50億円”を築き上げた異色の人物である。
現在に至るまでは紆余曲折。10代の頃は鑑別所に2度も入るほどの“やんちゃ”ぶり。そんな中卒の元ヤンキーがシェフの道を志し、いかにして成り上がってきたのか。壮絶な人生について話を伺った。
◆“生死”をさまよった年末年始の「初日の出暴走」
幼い頃に父を亡くした鈴木さんは、小学1年の頃から少林寺拳法や極真空手を習っていたという。小学4年のときにはボクシングもやり始めたものの、「周りからいじめに遭っていたが、喧嘩をする度胸がなかった」と話す。 「当時はベビーブーム真っ盛りで、新しく中学校を新設するくらい、ひとクラス当たりの生徒数が多かったんですが、自分は中学1年に進学するまでいじめられっ子でした。そこで、人間関係の悩みを幼なじみのグレた先輩に相談したところ、『うちの仲間になれ』」と言われて。翌日から、ボンタン(変形学生服)を着て不良の仲間入りをしたんですよ」(鈴木さん、以下同) 中学2年からは湘南の暴走族に入り、集会(仲間同士が集う活動)があるたびに参加していた。鈴木さんの役割は最後尾を走る“けつ持ち”だったそう。 「実は暴走族時代に命拾いした出来事があったんですよ。なかでも、“初日の出暴走”は一年の中で盛大に行われるもので、大勢の仲間と海沿いを走っていたところ、不意にヤクザに襲われてしまって。後日、特攻服を着てヤクザの事務所へ仕返しにいったものの、本物のヤクザの強さを思い知らされたんです。 目はテープでふさがれ、手と足も縄で縛られた状態で、丹沢の山へ置き去りにされてしまい、6日間ほど生死をさまよう経験をしました。幸いにも、車で近くを通りかかったおじさんに助けてもらい、一命を取り留めましたが、今でも記憶に残っているほど壮絶な年末年始でしたね」
◆料理人人生のスタートは超絶過酷な職場だった

その後、2年目以降は野菜の仕事を担当し、揚げ物の担当を任されるようになると、北京ダックや胡麻団子などの料理も作るようになった。 鈴木さんの腕前は厨房内でも確実に評価され、頭角を現していく。そして、入社6年目で副料理長に昇格。月収は100万円を超え、ボーナスも400万円ほどもらっていたそうだ。 「若手だった頃、まかない料理を作らせてもらう機会があったんですが、7年目の先輩に『こんなもの食べられない』と全部捨てられてしまって。その時はトイレで号泣しましたね。そうした悔しさをバネに絶対に這い上がってみせるという一心で頑張ってきました」
◆料理人から経営者へ。手広くビジネスを展開して手にした20億円 華正樓でキャリアを築いた鈴木さんは、飲食業界大手のい志井グループへ転職する。 そこで興味を持ったのは、立ち飲み居酒屋やもつ焼き屋といった繁盛店をFC(フランチャイズ)で広げ、事業を成長させていくビジネスモデルだった。 料理人ではなく経営にも魅力を感じるようになり、メニュー作りや店舗展開を手がける飲食コンサルティングの会社を経て、2000年初頭に独立する。 新丸子に「味のしんや」をオープンし、軌道に乗ってきたタイミングでホルモン焼き屋、ラーメン屋や立ち飲みの串焼き屋を近隣に出店。さらに、セントラルキッチンを設け、各店舗の食材を使った通販商品を作り、楽天市場で販売するECビジネスも行った。 途中からは建築関係の知人も経営に参画し、食材の仕入れからメニュー開発、料理の技術指導、店舗デザインに至るまでトータルコーディネートするサービスを提供するまでに事業を拡大していく。程なくして、M&Aの話が舞い込み、事業立ち上げから6~7年で建築会社に「20億円」で売却が決まった。 「今までは、好きな料理をお客様に提供することで幸せを感じていました。でも、自分がゼロから一生懸命育てた会社を欲しいと言ってくれる人に売却するのも良いことだと思い、M&Aの話は好意的に受け止めることができました」
◆4度の会社売却で資産50億円、“飲食店ドリーム”を叶えられたワケ 2度目の起業は、当時“幻の和牛”と称される尾崎牛を使った焼肉屋を新丸子に出店。尾崎牛を一頭買いし、普通の焼肉屋にはない希少部位を味わえるとあって、一躍人気を得ていく。この店舗はオープンから2~3年後に「5億円」で売却したという。
3度目は中目黒の目黒川沿いにカフェ&バーを出店。朝6時から翌朝5時まで営業し、ハンバーグやビーフシチュー、オムライスといった洋食から、カフェやスイーツのメニューにも注力した業態だった。また、花見の季節は絶好のロケーションゆえに多くの客で賑わい、昼夜問わず若者が集うお店に成長。最終的には「12億円」で売却が成立した。 4度目は居酒屋とバーを中心に8店舗を運営する飲食事業を手がけ、コロナ禍に差し掛かる2020年3月に「13億円」で売却。実に4回の起業と売却を繰り返し、築いた資産は50億円に上った。 まさに不良から“飲食店ドリーム”を達成した鈴木さんだったが、飲食店経営が難しいと言われるなか、なぜ何度も繁盛店を生み出すことができたのだろうか。
「15歳から学んできた料理の『姿勢』、調理道具や食材に対しての『感謝』の気持ちをずっと忘れずに持ち続けたこと。
そして、それらをスタッフや役員にも伝えていたのが大きいと思います。あとは、スタッフの悩み事も個人面談を組んで、週1でやっていましたし、事業の目指す目標をチーム全体に浸透させることも徹底していましたね」

「何もしないよりも、料理の仕事と向き合っていた方がいい」 そう感じた鈴木さんは日本一高級な老舗ステーキ専門店「皮」の門を叩く。 高級料理店の勤務経験、肉に関する幅広い知識など、非常に難易度の高い採用要件をクリアし、皮のシェフに就任する。 「今まで固まりの肉を炉窯で焼くことはなかったので、とても新鮮な気持ちで仕事に取り組むことができました。また、客単価がものすごく高いため、市場に出回らない最高級の食材も扱える。このような、料理人冥利に尽きる環境で働けたのはもとより、企業の会長や、政界・財界のVIPを相手に料理を提供する貴重な経験ができたのは、自分にとって大きなプラスになりました」 2023年8月から渋谷の隠れ家ステーキ専門店「ロガマステーキ アルカヌム」の料理長を務める鈴木さん。 今後の展望は「この店でミシュランの星を本気で獲りにいく」と意気込む。 「田村牛の専門店として、炉窯ステーキの魅力やこだわりを伝えていき、お客様に『また来たい』と思ってもらえるような食体験を提供していきたい。渋谷の地で飲食店をやるのは初めてなので、まずは認知度を上げていき、多くのお客様に愛されるお店を目指していきます」 不良から料理人へ。そして、経営者としては50億円の資産を築くことに成功。まだ手にしていないのは、料理人としての栄誉であるミシュランの星だけだ。鈴木さんのさらなる挑戦が続く。 <取材・文・撮影(人物)/古田島大介>