まず、つぎの名前をざっと見てほしい。
「あ、平成の時代のキラキラネームか」と思う人も多いかもしれない。でも、これらは昭和のはじめにつけられた名前である。こうした奇抜な名前というのは、平成の新しいトレンドのように言われていたが、じつは古い名づけのひとつなのである。
有名なところでは、森鴎外や与謝野晶子が子につけた名前も当時としては珍名だった。奇抜な名前は古くからあちこちで見られたが、大勢の人がマネをして流行になることもなかった。
戦後になってから、1950年代~80年代あたりまでは、奇抜な名前はあまりつけられなかった。その時の親たちは、慢性的な貧困と飢餓の時代に育ったうえ、日中戦争や第2次世界大戦というすさまじい体験をした人たちだった。
ところが平成になってから、1990年代以後、奇抜な名前は再び増えはじめた。
などといった名前がTVや雑誌で紹介され、キラキラネームと呼ばれ、今度はマネをする人が増えてひとつの流れになった。つけた親たちはおおむね1960年代なかば以後、高度成長からバブル期にかけて成長した人たちである。
令和になってからは、平成の時に見られた極端なギャグのような名前は下火になった。そんな名前を見ても誰も驚かず、陳腐にさえなっている。
今、名づけをしている親たちは、平成の世に育っている。平成は経済が低迷し、雇用も安定せず、災害も多発した時期である。
このように奇抜な名前というのは、多かった時期と少なかった時期とを比較するとわかってくる。先の見えない、緊迫した社会にいた人はあまり奇抜な名前はつけず、安定した環境の中で計画的な生き方をしてきた人たちが奇抜な名前が好きになる、という対称的な傾向が見えてくるのである。
キラキラネームは、背景にある社会をぬきには語れない。
戦争のあった時代は、多くの若者が人生なかばで亡くなっただけでなく、生き残った人たちも、一人ひとりにみな違う苦難のドラマがあり、将来のことをあれこれ案じながら必死に生きる道を模索した。そんな時代は、人によって生き方が違うのはあたりまえだった。
しかし戦後、経済成長が続く時代になると、日本中に仕事人間、会社人間があふれ、地位や高収入を得るための競争の時代になった。競争社会ではみなが同じ目標に向かって同じ努力をする。会社は何をやっても順調にいき、社員の実力の違いはわかりにくくなり、人はペーパーテストや学歴で分類され、受験競争が激化する。
そして多くの家庭では、「勉強して有名校へ行け。エリートの道を進め」と子供を受験勉強に駆り立てることが子供の教育だということになった。
みなが小学校から大学まで通ったあとサラリーマンになる、という似た生き方になり、それが安定した模範的な生き方だとされた。こうして競争ばかりさせられた人たちは、「自分なりに努力した。成果はあった」とは思えても、自分自身で人生を作ったという実感はなかった。
1990年代から増えた、キラキラネームとよばれた奇抜な名前は、こうした社会を背景に生まれたのである。
そうした名前をつける親たちは、「個性」「自由」をさかんに口にし、人に読めない、男女不明の名前を好んだが、それでいて「本や雑誌に出ている」「TVでとりあげられた」「みんながやっている」「平凡な名前だと思われたくない」「人のつけない名前を」などと、他人にばかり目を向けていた。
これに対して批判的な人たちもいた。何てアホな親だ、と思う人も多かった。
どちらも誤解である。
キラキラネームは個性とも、知能とも関係はないのである。つける親たちに共通していたのは過剰適応である。人に逆らって自分で道を切り開いたような体験は無く、仲間はずれになること、取り残されることを恐れ、器用に流れに乗ってきた。
そうした人たちの心の奥には、「もう指示されるのはたくさんだ」という叫びがある。そしてわが子の名づけが「人との違い」を示せる場になってしまっていた。そう見ればかわいそうなことなのである。
名づけは社会の鏡である。名づけの傾向から、どういう社会なのかが見えてくるのである。
奇抜な名前というのはほとんどの場合、ふりがながないと読めない。そして名前のふりがなは、これまでは住民台帳には書かれても、戸籍には書かれなかった。
ところが今後は戸籍にもふりがなを記載する、と政府は言い出し、3月には閣議決定もした。個人のよび名を確定することは、行政の効率化や犯罪防止のためには望ましいことではある。
ただ、ふりがなは戸籍にカタカナで記載するという。カタカナは「ユ」と「コ」、「シ」と「ツ」などを読み違えしやすい。カタカナに決めた理由は謎である。
そして私たち全国民は一定の期間内に、自分の名前の読み方を届けることになる。
それはどんな読み方でもいいのか。キラキラネームはどうなのか。そういったことが今あちこちで話題になっている。
これについては、「氏名に用いる文字の読み方として一般に認められているもの」というルールが設けられる。そして漢字と反対の意味になってしまうとか、読み違いみたいに見えるもの、例えば、高(ヒクシ)、太郎(サブロウ)などの読み方は認められなくなるという。
あまり知られていないことだが、以前にも希望した人には、戸籍の名前にふりがなを登録できる制度があった(昭和56年5537通達)。そのふりがなも、漢字と関連性のない非常識なもの(高をヒクと読む、など)はダメということになっていた。
今回も言っていることは同じようなことだが、今度は全国民が対象なので、これまで野放しだったキラキラネームも規制の対象になる、と受け取れる。
しかし、高(ヒクシ)、太郎(サブロウ)などという浮世ばなれした例ではなく、現に世の中に氾濫している奇抜な名前がどう線引きされるのか、私たちが知りたいのはそこである。キラキラネームに決まった定義もないし、「一般に認められている読み方」と言われても意味がよくわからない。今のところ雲をつかむような話である。
もし届けた読み方が辞典にのっていなかったら、届出人に説明を求めたうえで判断するそうであるが、例えばこんな届け出があったらどうするか?
などのふりがなは、漢字から連想できて一般に認められているのだろうか。そんなことに役所の職員が明確な答えをもっているわけでもない。もちろん一人ひとりと口論するつもりもないだろうから、「とにかく何とでも説明すりゃいい」ということになるのではないか。
戸籍法を改正する前の段階で作られる要綱案でも、「すでに使われている読み方は原則として認める」と述べている。あたりまえである。現にその名前で生活している人に、「法律が変わったからよび名を変えなさい」などと無茶なことを言えるはずはない。
つまりキラキラネームであろうがなかろうが、私たちの名前の読み方はそのまま認められる、と思っていいのではないか。
では新たに生まれた子の名前のふりがなはどうなるのか。すでにつけられた名前については何でもOKで、赤ん坊の名前にだけ条件をつける気なのか。
それは法律上、できないことではない。
これまでは名前の読み方について法律上の規定はなく、役所に審査義務もなかった。今回は「一般にみとめられているもの」という条件が出されたので、意味はよくわからなくても規制が生まれたことになり、役所の審査対象にもなる。
ただ規制をするならするで、具体的な基準がなければ個々の名前を判断できない。
「例えばこんなふりがなはダメですよ」というリストを配布する案もあるそうだが、名前というのは無数に作れるから、そのリストにない名前はいくらでも出生届に書かれて出てくる。つまりダメだという例を挙げても役には立たないのである。
基準というのは、出生届を出す前に誰もが調べられなければ意味がない。そういう全国一律の客観的な基準となれば、それは正式な辞典(名づけの本やサイトではない)に載せられている、「音・訓・名乗り」の3種類の読み方にするしかないのである。
その範囲ならよろしい、と決めれば、その後の日本人の名前はすべて正しい読み方になる。特別大変な作業もいらず、金もかからない、簡単なことである。
令和の時代は、かつてキラキラネームと呼ばれたような奇抜な名前の流行は去ったが、まだ残り火はくすぶっている状態ではある。例えば、
などのように、耳で聞いたら普通の名前でも、無理な漢字をあてたため読めない、という名前は依然として多く、減る気配はない。
なぜなのか。その背景には何があるのか。
今の時代は、個人情報をもらすと、どこで悪用されるかわからない。多くの人が社会そのものを警戒している。自分のことを人にくわしく知られたくない。だから友人知人にしか読めない名前のほうが何となく安心できる。そのことが読めない名前を増やしているのではないか。
だとすれば話はわかる。社会が安全な場所でないことは、もはや世界の常識である。
ただ、そうした個人の感情とか、また役所の事務がどうこうという話の前に、人の名前というのは、基本的に大切なことがある。
子供はやがて学校に通い、病気になれば医者の世話になる。今、読めない名前のために教育現場や医療現場は仕事の負担が大きくなっているが、医師や教師は我慢して苦情は言いたてないし、名づけをする親も見えない人たちには気をまわさない。
本人が社会へ出れば、厳粛な場で氏名を呼ばれることもある。読めない名前では読み間違いされたり、あまりに奇抜な名前は失笑を買ったりすることもある。
もし意識不明の状態で病院に搬送でもされたら、読めない名前のために混乱して処置が遅れたり、運悪く患者を取り違えたりしたら他人の命にまで関わる。
そういうことをあれこれ考えながらやるのが名づけである。でも実際は「人に読めなくても気になりません」「こう読ませりゃいいでしょ」と言う人も少なくない。それはその人の知能が低いのでも、性格がゆがんでいるのでもない。社会という言葉を聞いても知人の顔しか浮かばず、知らない人がひしめく広い社会のイメージが浮かばないのである。
「名前は本人の持ち物だ、どう扱おうが自由だ」と誤解されることもあるが、じつは名前というのは社会の共有物なのである。看板やポスターと同じで、作る時は個人の作品でも、公共の場に貼り出されたら社会の共有物である。自分が作るのだから何を描こうが自由だ、人に読めなくてもいい、というものではない。
もちろん名前によって本人の性格や生き方が決まるわけではないが、名づけをした時の親の感覚、姿勢というのは子に伝わりやすい。他人や社会に背を向けたような名づけをすれば、その感覚、姿勢が子に伝わってしまう心配はある。
文字というのは、読み方のルールがあってはじめて社会で機能するもので、漢字の読み方は個人が勝手に決めるものではない。そんなことをすれば漢字は文字として機能せず、名前も本人にしか読めなくなって名前として機能しなくなる。
筆者自身も恭仁雄(くにお)という誰にも読めない名前のため、人さまに散々迷惑をかけてきた。自分だって、読めない名前の人から手紙などいただけば、「カナくらいふってほしいよ」と言いたくなる。
そこで、ぜひとも世に広まってほしいのは、自分の人生体験、社会体験としての名づけなのである。自分自身の意志と感性で、量より「質」に目を向ける名づけである。
例えば他人のやっている名づけをキョロキョロ気にしたり、片手でスマホをいじったりしながら、どこかの誰かが大量にまいた名前をながめても、それは体験ではない。自分という人間がどこにも居ない。
名前をつける相手は、まぎれもない自分自身の子である。子供の名前は、何十年もの長い人生の中で、さまざまな場面で本人も他人も使う大切なものである。そのことを実感しながら、「この名前で本当に自分が納得できるか」と自問自答をくり返す。
それが自分を見失わない、自分ならではの体験である。このような名づけであれば、本人や他人が困るような名前にたどりつくことはないのである。
———-牧野 恭仁雄(まきの・くにお)命名研究家早稲田大学理工学部卒。一級建築士。名づけの研究を40年以上続ける。これまでに受けた命名相談は12万件、鑑定した名前の数は100万以上。著書に『赤ちゃんの名前辞典』(主婦の友社)、『子供の名前が危ない』(KKベストセラーズ)などがある。———-
(命名研究家 牧野 恭仁雄)