核兵器が世界を脅かす中、各国のトップは一体何を見て、何を感じるのだろうか。主要7カ国首脳会議(G7サミット)に出席する各国の首脳らが19日、被爆者の慰霊のため、広島市の平和記念公園を訪れた。平和記念公園や、園内にある原爆資料館と関わりの深い被爆少女の肉親も、特別な思いでこの日を迎えた。
【写真】G7サミット会場の広島、空から見た様子 原爆資料館の本館入り口には、原爆投下から3日後の焼け野原となった広島にたたずむ少女の写真が掲げられている。うつろな表情、右腕には包帯。1977年に42歳で亡くなった藤井幸子(ゆきこ)さんだ。毎日新聞記者(故人)が取材中に撮影し、幸子さんの長男哲伸(てつのぶ)さん(62)=東京都調布市=が2017年8月に「母ではないか」と名乗り出た。専門家の鑑定を経て、同年末に身元が特定された。

哲伸さんは広島を訪れる各国首脳に対し「十分に時間を取って(原爆資料館の)展示に向き合ってほしい。核兵器が長期間にわたって人体に影響を及ぼす、未来に対して無責任な兵器であることを認識してもらいたい」と願っている。 幸子さんは10歳の時、爆心地から約1・2キロの自宅で被爆し、右腕に大やけどを負った。24歳で結婚し、2人の子どもに恵まれたが、30代半ばで被爆の影響とみられるがんを患い、入退院を繰り返した末に亡くなった。 哲伸さんは小学生の頃から、学校帰りに幸子さんを見舞うのが日課だった。「病室にいても、『早く帰って勉強しんさい』と言われた。苦しむ姿を見せたくなかったのだろう」と母の気持ちを推し量る。 幸子さんはがんを発症してから、ラジオで英語の勉強をしていたという。家族には「アメリカに行ってみたい」と言うこともあった。「母がアメリカの悪口を言うことはなかった。それよりも、前を向いて生きることに必死だったのだと思う」 G7サミット開幕を控えた17、18両日には広島市内で朗読劇「蛍火」が学生や社会人ら市民の手で上演された。幸子さんをモデルにした少女が被爆後、一人の米兵との出会いを経て憎しみを乗り越え、和解への道筋を探る姿を描く物語だ。哲伸さんが「戦後も被爆者が苦しみ続けたことを世界に伝えたい」と高校演劇部時代の仲間に呼びかけて実現し、自身も医者役などで出演した。 17日の終演後、哲伸さんは「登場人物は次々に『戦争はいけない』と口にする。母も同じ思いだったのだろうと感じた。各国の首脳には核兵器の非人道性を自国で伝えてほしい」と力を込めた。【中村清雅】
原爆資料館の本館入り口には、原爆投下から3日後の焼け野原となった広島にたたずむ少女の写真が掲げられている。うつろな表情、右腕には包帯。1977年に42歳で亡くなった藤井幸子(ゆきこ)さんだ。毎日新聞記者(故人)が取材中に撮影し、幸子さんの長男哲伸(てつのぶ)さん(62)=東京都調布市=が2017年8月に「母ではないか」と名乗り出た。専門家の鑑定を経て、同年末に身元が特定された。
哲伸さんは広島を訪れる各国首脳に対し「十分に時間を取って(原爆資料館の)展示に向き合ってほしい。核兵器が長期間にわたって人体に影響を及ぼす、未来に対して無責任な兵器であることを認識してもらいたい」と願っている。
幸子さんは10歳の時、爆心地から約1・2キロの自宅で被爆し、右腕に大やけどを負った。24歳で結婚し、2人の子どもに恵まれたが、30代半ばで被爆の影響とみられるがんを患い、入退院を繰り返した末に亡くなった。
哲伸さんは小学生の頃から、学校帰りに幸子さんを見舞うのが日課だった。「病室にいても、『早く帰って勉強しんさい』と言われた。苦しむ姿を見せたくなかったのだろう」と母の気持ちを推し量る。
幸子さんはがんを発症してから、ラジオで英語の勉強をしていたという。家族には「アメリカに行ってみたい」と言うこともあった。「母がアメリカの悪口を言うことはなかった。それよりも、前を向いて生きることに必死だったのだと思う」
G7サミット開幕を控えた17、18両日には広島市内で朗読劇「蛍火」が学生や社会人ら市民の手で上演された。幸子さんをモデルにした少女が被爆後、一人の米兵との出会いを経て憎しみを乗り越え、和解への道筋を探る姿を描く物語だ。哲伸さんが「戦後も被爆者が苦しみ続けたことを世界に伝えたい」と高校演劇部時代の仲間に呼びかけて実現し、自身も医者役などで出演した。
17日の終演後、哲伸さんは「登場人物は次々に『戦争はいけない』と口にする。母も同じ思いだったのだろうと感じた。各国の首脳には核兵器の非人道性を自国で伝えてほしい」と力を込めた。【中村清雅】