人生100年時代を生き抜く最大の武器は「家事」だった。「老後と家事」にはどのような関係があるのだろうか(写真:Ushico/PIXTA)
不安の時代を生き抜く最大の武器は「お金」じゃなくて「家事」だった!? インフレ、疫病、災害、老後不安……不安の種が山積みな時代に備えようと誰もが必死にお金を貯めようと頑張っている。でも50歳で会社を辞め、都内で夫なし、子なし、冷蔵庫なし、ガス契約なしで暮らす稲垣えみ子氏は、必要なのはお金ではなく「家事力」と言い切る。
1人一家事。それで全員が救われる? 稲垣氏がたどり着いた「老後不安がいっさいなくなる」人生100年時代の出口戦略を、自著『家事か地獄か 最期まですっくと生き抜く唯一の選択』より紹介する。
これから書くことは、そもそも家事が得意でもなんでもないズボラな私が、このような公の場にて恥を忍んでも家事の話を書かねばならぬと思った最大の動機であり、是非とも1人でも多くの人に考えてもらいたいことであります。
それは、「老後と家事」について。
ナニ、老後と……家事? いったいそこに何の関係が……? ハイもちろん私もずっとそう思っていた。
わが母の老いに直面するまでは。
母は、亡くなる3年前から認知症を患った。それは家族にとって、そしてきっと誰より母自身にとっても、暗中模索の3年間だった。何しろこの病は治らないのである。昨日できていたことが今日はできなくなっていくことの永遠の連続なのである。つまりは日を重ねるごとに「母がどんどん母じゃなくなっていく」のである。その希望のなさが、何よりつらかった。
中でも、母を苦しめたのが「家事」だった。
専業主婦で頑張り屋だった母は、完璧に家事をこなす人だった。毎日家中をピカピカに掃除し、大量の洗濯物を洗って干して、あれこれレシピ本を見ては凝った料理を作ってテーブルいっぱいに並べるのが母の当たり前の日常であり、プライドでもあったと思う。
だが病を得た途端、それは一気に、途方もない難事業と化した。
朝起きて、布団を上げ、着替えて、ご飯を作り、盛り付けて、食べて、後片付けをして、洗濯機を回し、干し、たたみ、掃除機をかけ……という当たり前の家事を前に、母はいちいち立ち尽くすようになった。それまでは普通だと思っていたあらゆることが、「できない」という容赦ない事実に直面してみれば、それを側で見ていた私も、すべてが実は複雑な思考と判断と行動の連続で成り立っていたことに改めて気づかざるをえなかった。
例えば「ご飯を作る」と一言でいっても、それは超マルチタスクの連続なのである。
まず、前日に食べたものや残った食材や家族の好物などを勘案しつつその日の献立を考え決断するところから始まって、あちこちの食材庫をチェックして足りない材料を調べ上げ、それをメモして買い物に行き、広大なスーパーで目指す食材を的確に探し出し、帰宅してようやく調理開始。
さらにここからがまた実にヤヤコシイ作業の連続。ご飯を炊き、その間に複数のおかずを並行して作るには、切ったりゆでたり焼いたり味付けしたりというバリエーションに富みすぎた膨大な作業を、すべての進行具合に的確に目を配りつつ、状況に応じて頭を切り替えながらサクサクと行わなければならない。
なのに、週に一度の訪問のたびに、母の「できないこと」は1つ、また1つと増えているのだった。
買いに行く食材のメモは取るけれど、取ったことを忘れてしまう。調味料の何をどれだけ入れたか入れていないのか絶えず混乱する……想像したこともなかった混乱に直面するたびに、料理を作って食べて片付けるというただそれだけのことの途方もなさに眩暈がした。
料理だけじゃない。洗濯もまったく簡単な作業ではなかった。全自動洗濯機があったとて、干し終えた物を下着、靴下、タオル、ランチョンマット、シャツ、ハンカチなど、多種多様な種類別、持ち主別に分類し、たたみ、家の中のあちこちに分散したしかるべき置き場所に収めるにはかなりの記憶力を要する。
無類のオシャレ好きだった母が、部屋中に散乱した服の真ん中で敗北感いっぱいの顔をして首をかしげる姿は、なんともやるせない気持ちになる光景であった。
つまりは母はどこをどう頑張っても、それまでこなしてきた「完璧な家事」を、とてもじゃないがこなすことができなくなっていった。精一杯トライはしていたのだ。でも母がやってきたことのハードルはあまりに高かった。母はそのうち、1日中探し物をするようになった。でもいくらひっくり返しても目当てのものは決して見つからず、家はくちゃくちゃになり、週に一度私が行くたびに母は「ごめんね、くちゃくちゃでごめんね」と寂しそうに笑うようになった。別によかったのだ。家がくちゃくちゃだって、母が元気でいてくれたらそれでよかった。
でも、人とはやはりそんな状況では元気じゃいられないのだ。自分のあるべき自分でいたいのだ。そして確かに家事が滞り生活が崩れていくと、母が母ではなくなっていくようで、それを見ている家族もつらかった。
でもその一方で、母は果敢にチャレンジを続けてもいたのだ。
ほぼ1日中万年床に横になる生活になってからも、何かの拍子に起きてきては、広告の紙をチリトリ代わりにして床の小さなゴミを集めようと(これはナイスアイデア! さすがわが母!)頑張り、料理をしていると弱々しい声で「手伝おうか?」と声をかけてきた。母にとって、家事をすることは人生そのものだったのだと思う。いろんなことがうまくいかなくなっても、やるべきことであり、そしてやりたいことでもあったのだ。
それは、日に日に縮んで消極的になっていく母にとっては、貴重な「生きる動機」だった。
そうなのだ家事って実はすごいことなんである。どんな小さなことでも、自分で自分のことができるということ。そして何かの役割を担っているということ。それは誰にとってもものすごく大事なことだ。というか、それがなければ人は本当の意味で生きていくことはできないのかもしれない。
出口のないつらい病を得た母に「家事」という生きる動機があることに、私は心から感謝した。でも一方では、それがうまくできないことが母を苦しめ、情けない思いをさせていたのだった。
いったいどうすればよかったのだろう。
っていうか、そもそももっと簡単に家事をすることはできないのだろうか?
私は母に、そんな凝った料理を作らなくたっていいじゃない、ご飯と味噌汁と焼き魚で十分ごちそうだよと何度も提案した。母は「うん……」と頷いていたが、決して納得はしていなかったし、実行しようともしてなかった。
母の万年床の横には母が大好きだったレシピ本が置いてあり、昔よく作っていた凝った料理のページをいつも見ているのだった。でもそれを作ることは、母にはもう多分できないのだ。それでも頑張り屋の母にとっては、その凝った料理を作ることこそが「料理をする」ということだった。毎日ご飯と味噌汁と焼き魚なんて、それは母にとっては「料理」とは言えないものだった。
母はいつだって、もっとおしゃれな、気の利いた、日々違う料理を作ろうと頑張ってきた。それを否定することは母を否定することだったのだと、今になってわかる。
なるほど問題はここにあるんじゃないだろうか。
真面目で頑張り屋の母は、家事をあまりにも大変なものにしすぎていた。それはもちろん、われら家族のせいでもある。われらはそんな母の「完璧な家事」をいつも期待していた。日々ごちそうを食べること、膨大なものがいつも収まるべきところにきちんと収まっていることを、当たり前のように受け止めてきた。
つまりは、問題は家事そのものじゃなくて、肥大化したわれらが欲望なんじゃないだろうか。
もしもわれらの暮らしがもっと質素なものであったなら。必要最低限のものを持ち、必要最低限のものを食べ、必要最低限のスペースで暮らしていたならば、家事はもっとずっと単純で楽なものだったに違いない。毎日同じ基本的な料理を作り、毎日最低限のものを洗い、毎日小さなスペースをホウキでさっと掃くだけで、家の中がちゃんと整うような質素な暮らしをしていたならば、母はもっと長い間、それを無理なくこなし、自分の人生を自分の力で生きているのだ、やるべきことをやっているのだという誇りと充実感を持って暮らすことができたんじゃないだろうか。
そして、これは認知症という特定の病気に限った問題ではないのだと思う。われらは誰もがいつかは老いて、それまでできていたことが1つひとつできなくなっていくのだ。そんな中で、悲しみや情けなさに押しつぶされることなく、前を向いて最後までどうやって明るく元気に生きていくのかを、懸命に考えなければならないのが「人生100年時代」の大きな宿題ではないか。そう、母の問題は私の問題でもあった。母は私の老いの先輩であり先生でもあったのだ。私はいったいどうやって老いていけばいいのだろう?私は自分のこれからの暮らしについて、家事について、改めて考えることになった。(稲垣 えみ子 : フリーランサー)
そして、これは認知症という特定の病気に限った問題ではないのだと思う。われらは誰もがいつかは老いて、それまでできていたことが1つひとつできなくなっていくのだ。そんな中で、悲しみや情けなさに押しつぶされることなく、前を向いて最後までどうやって明るく元気に生きていくのかを、懸命に考えなければならないのが「人生100年時代」の大きな宿題ではないか。
そう、母の問題は私の問題でもあった。母は私の老いの先輩であり先生でもあったのだ。私はいったいどうやって老いていけばいいのだろう?
私は自分のこれからの暮らしについて、家事について、改めて考えることになった。
(稲垣 えみ子 : フリーランサー)