水商売の母親に“軟禁”されて小・中学校は登校ゼロ、病院にも行けなかった女性(30)が「一番キツかった」と語る“地獄の痛み”とは

「私にとって学校は『テレビの中の世界』。現実生活に存在しないものでした」
【写真】”育児放棄”状態の母親と、「くさい」「何もできん」と人格否定を続ける姉に囲まれた苦しすぎる幼少期を過ごした川口佳奈枝さん(30)
母親に学校へ通うことを許されず、自宅に閉じ込められ、小学校と中学校に1日も通わないまま社会に出た川口佳奈枝さん(30)は、学校という“遠い世界”についてそう語った。
なぜ、母親は川口さんの通学を阻んだのか。15歳までの凄惨な日々を聞いた。(全4本の1本目/2本目を読む)
現在の川口さん(本人提供)
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──川口さんは母親から事実上の自宅軟禁におかれ、小学校と中学校に1日も通わなかったそうですね。何が起きたのでしょう。
川口 私は1995年に滋賀県で生まれました。もともとは両親と姉の4人家族でしたが、父は酒癖が悪く、私が生まれてすぐに両親が離婚したので記憶にありません。
母はずっと水商売で生きてきた人です。うちは誕生日を祝う習慣がなかったので、母と姉の年齢をよく知らないのですが、30代後半で私を産んだようです。姉は私より8、9歳くらい上で、私は5歳まで姉と一緒に大阪の母方の祖母に預けられて育ちました。母とはその間、ほぼ会いませんでした。
祖母はいわゆる“普通”の人だったので、姉は小学校と中学校に通い、私も5歳頃から保育園に通わせてもらいました。「来年は小学校やな」と言われて、姉のお下がりのランドセルを背負って喜んだ記憶があります。
──そこまでは普通の子ども生活だったのですね。
川口 でも6歳のときに祖母が亡くなると、母は私を引き取って福井に引っ越し、旅館の仲居として働き始めました。そのとき、住民票を移さなかったんです。のちに母は「借金を背負って逃げた実兄の保証人になっていて、取り立てから逃げるために役所で手続きをしなかった」と言っていましたが……。
私と母は旅館の従業員向けの集合住宅で暮らしました。そして気づいたら春を過ぎ、小学校入学のタイミングを過ぎていました。

──子どもながらに「何かおかしい」と感じていましたか?
川口 当時は義務教育という言葉を知りませんから、ただ「小学校には行かないのかな?」ぐらい。でも、母に学校の話をすると「お金がないから行けん」と、あからさまに不機嫌になるんですよ。話はいつもそこで終わりました。
ただ、登下校の時間に窓の外から子どもたちの声が聞こえるんです。「他の子は学校に行けるのに、なんで私だけダメなんだろう」と思いましたが、母の言葉を信じて、お金がないから仕方ないと納得していました。
──日中はどう過ごしていたのですか。
川口 ひとりで留守番するか、集合住宅の敷地内の公園で遊んでいました。その後、大阪と神戸に短期間住み、8歳頃にまた福井に戻りました。でも住民票は大阪のままだったので、私は完全に行政の目からこぼれた「いない存在」でした。
福井に戻ったときから、高校を中退した姉も一緒に住むことになりました。姉は炊事、洗濯、掃除、買い物など、すべての家事の担当です。私は相変わらず公園で遊んでたんですが、平日の昼間に小学校2、3年生ぐらいの子が公園にいたら、周りはだんだん「おかしいな」と思いますよね。
──たしかにそうですね。
川口 あるとき近所の子に学校のことを聞かれたので、行ってないことを素直に話したら、あとで母が「言ったやろ!」と大激怒して。あまりに怒られたので、その日を境に「家族以外の人と話しちゃダメなんだ」と思うようになりました。
──数少ない社会との接点が封じられたのですね。
川口 母は周囲に「娘は大阪の実家に預けていて、向こうの小学校に通っている」と話していたんです。母は怠惰なうえにプライドが高く、他人から注意されるのをすごく嫌う人でした。だから、義務教育を受けさせていないのを隠すためにウソをついたんです。
この頃から母はパチンコにのめり込み、時間があれば繁華街へ。養う家族が増えたうえ、水商売時代より収入が減ったので、取り返したかったんだと思います。役所に行って私の就学手続きをするくらいなら、パチンコに行くのを選ぶ人でした。とはいえパチンコでますますお金が減り、家には食べ物もろくにありませんでした。
──辛いですね。
川口 何よりも辛かったのは、学校に行ってないことが近所にバレて母に怒られたあと、家から出るのを禁止されたことです。
私は「大阪の小学校に通っている」設定なので、平日も週末も24時間外出禁止になりました。例外は、学校の夏休みなどの長期休暇中だけ。そのときは「大阪から福井に遊びに来た子」として外に出られました。それ以外の時期は、部屋で窓のそばに立つのも禁止です。

──なぜでしょう?
川口 「外からガラス越しに姿が見えるといけないから」です。カーテンはいつも締めきりで、太陽を浴びたことはほとんどありませんでした。日常の買い物は姉の担当だったので、私は15歳になるまで家族以外の人とほぼ話したことがありませんでした。
──家の中ではどう過ごしていたのですか。
川口 母は仕事が終わるのが遅く、飲みに行くことも多かったので、いつも夜中に帰り昼まで寝ていました。私と姉も自然と昼夜逆転の生活になりました。母がいない時間はずっとテレビとゲームでした。PS2やDSの時代だったので『キングダムハーツ』や『nintendogs』はよく覚えています。
──テレビドラマだと、学園物などもありますよね。
川口 『キッズ・ウォー』というホームドラマの再放送を見て「学校ってこんな感じなんだ」と思っていました。あと、母がときどきパチンコの景品でリカちゃん人形をくれたので、先生や生徒役に見立てて学校ごっこをしたり。私にとっての学校は、現実生活にない「画面の中のもの」。ファンタジーや空想上の存在に近い感覚でした。
──小学校には通わないまま、中学校も?
川口 「なんで自分だけ学校に行けないのか。他の子がうらやましい」とはずっと思っていました。すると、小6か中1ぐらいの年齢の頃、母の知人から中学の制服をもらったんです。「来年から通えばいい」と言われて、すごく嬉しくて。
でも翌年の春がきても、4月になり5月が過ぎても、母は入学手続きをしませんでした。そしていつの間にか、その制服はなくなっていたんです。「あ、捨てられた。中学にも行けないんだな」と思いました。それから、家で中学の話は完全に禁句になりました。
──では、勉強をする機会もなかったのでしょうか。
川口 市販の国語と算数ドリルを与えられていました。ただ、姉が横でずっとテレビを見ているので、気が散って間違えることが多くて。そうすると「バカ! なんでこんな簡単なのもわからんの?」と姉にペンを投げつけられたり、頭を叩かれるのが日常でした。
だから勉強は恐怖体験に近く、大嫌いでした。漢字は小3くらいまで、計算はわり算の途中くらいまでで諦めました。

──姉からは暴言、暴力があったのですね。
川口 今振り返ると、姉も母の虐待の被害者だったと思うんです。16歳ごろから幼い私の世話と家事を全て任され、ヤングケアラーに近い状態。余裕なんてなかったはずです。
でも、当時の私はただ姉を恨みました。母は不在が多かったぶん、怒られることも少なく、あまり「怖い」とは思わなかったんです。でも姉はほぼ家にいたので、関わる時間が濃密で……。姉との思い出のほうが辛い記憶が多いです。
──母親がいなければ、姉を頼るしかないですよね。
川口 そうなんです。姉はスタイルがよく、顔が小さくて細身のかわいらしいタイプでしたが、私は小さい頃から体格がよく、10代はぽっちゃり気味だったので、容姿を徹底的に否定されました。「デブ」「くさい」「死ね」などの暴言は日常で、頭を叩かれたり足で蹴られたり。おもちゃのバットでお腹を強く殴られたときは痛みでうずくまり、しばらく動けませんでした。今、もう一度10代からやり直せと言われても、生きていける気がしません。
──妹に対して攻撃的すぎる気がしますが……。
川口 姉は私のことを恨んでいたんです。というのは、母は姉を産むとすぐ大阪の祖母に預けたので、姉は16歳頃まで母と離れ離れでした。でも私は5歳から母と一緒に暮らしたので、それを根に持ち「私だけ置いていかれた!」と恨み節でした。
だから姉は私に対して、絶対的優位に立てる「小学校と中学校を卒業した」という点をいつも強調していました。「学校に行ったこともないおまえが人と仲良くできるわけない、好かれるわけない」 「おまえみたいな奴が学校にいたら、みんないじめる。私だっていじめるもん」とよく言われました。
──学校に行かないことも母親と暮らすことも、川口さんが選んだわけじゃないのに理不尽ですね。
川口 でも家から出られない私は、姉を怒らせるとごはんを食べさせてもらえないので、ご機嫌を取るのに必死でした。どんな罵声を浴びても謝るしかなく、何度「ごめんなさい」と言ってもダメなときは、ひたすら土下座でした。
──子ども2人で、体調が悪くなったときはどうしていたのですか。
川口 母は行政手続きをほとんど放置していたので、国保も年金も未加入でした。だから私も姉も、保険証というものを知らないまま育ちました。病院に行ったことはありません。
──1回も?
川口 はい。物心ついてから15歳まで、病院には1回も行きませんでした。ケガをしたらオキシドールとオロナイン、病気になったら寝て治す。一度、飼い猫に腕を噛まれて3週間くらい腫れたことがありましたが、そのときも消毒とオロナインで乗り切りました。高熱が出ても寝るだけです。

──ひとつ間違えば、重篤な状態になってもおかしくないです。
川口 中でも一番キツかったのは虫歯の痛みでした。私、歯磨きを教わらなかったんですよ。学校に行ってないから歯科検診の機会もなく、虫歯がどんどん増えて。
虫歯が進行して歯の神経が死ぬと、痛みはいったん楽になるんです。でもさらに放置すると、歯の根が炎症を起こして“膿みの袋”ができます。そうなると頬まで腫れて、地獄の痛みでした。
──聞いてるだけで痛そうです……。
川口 その膿みが破裂するまでただ我慢するんですが、耐えがたい激痛でした。食事ができないだけじゃなく、空気があたるだけでも痛い。バファリンは効かず、薬局の一番強いロキソニンを飲みまくってました。
──壮絶です。
川口 歯を磨かなかった理由は、姉からの暴言のせいもありました。私が洗顔したり歯磨きすると「おまえなんか顔洗っても意味ない」「歯を磨いたからってキレイになったと思うな」と。だからおかしな話ですが、私の中では「姉に怒られないために、できるだけ汚いままでいよう」という思考になっちゃったんですよね。
唯一の希望は「15歳になったら働ける」と母に言われていたことです。10歳を過ぎた頃からは「15歳になったらバイトして、その給料で歯医者に行こう」とずっと思っていました。
〈「下心しかないとしても男性に求められると…」姉に“恥ずかしい存在”と責められ続けた女性(30)が出会い系にハマった切なすぎる理由〉へ続く
(前島 環夏)