老後資金への不安から過度な節約に走るシニアが多いなか、貯金800万円・年金月18万円という決して潤沢とはいえない状況でも「まったく後悔していない」と笑顔で語るNさん(84歳・男性)。60歳の定年時に、退職金を使って妻と1ヵ月間のヨーロッパ旅行へ出かけました。その壮大な「無駄遣い」とも思える決断が、のちに病床の妻と交わした“ある涙の会話”につながります。お金をただ貯め込むのではなく「経験」に変えることで得られた、何にも代えられない一生モノの財産とは。
「安心できるような老後資金は残っていませんが、まったく後悔していません。あのとき妻と思い切って旅に出て、本当によかったです」
都内の持ち家で一人暮らしをしているNさん(84歳・男性)は、24年前のことを笑顔で振り返ります。Nさんは昨年、長年連れ添った妻(享年83)を病気で見送りました。
現在のNさんの預貯金は約800万円、年金は毎月約18万円もらっています。世間一般でいわれる「ゆとりある老後」を送るための資金としては、決して潤沢とはいえません。
しかし、Nさんの生活には悲壮感はなく、むしろ満ち足りた空気が漂っています。その理由は、24年前に夫婦で決断した「ある経験」にありました。
Nさんが60歳で長年勤めた会社を定年退職した年のこと。ずっと夢だった「ヨーロッパ1周旅行」に出ることを決意しました。退職金から思い切って予算を捻出し、約1ヵ月間かけて各地を巡るという壮大な計画です。
「退職金が入ったとはいえ、これからの長い老後を考えれば、貯金に回して少しでも安心感を得たいというのが本音でした。周りの友人たちからも『そんなにお金を使って大丈夫なのか』『老後破産するぞ』と心配されましたからね」
それでも、体力があって自由に動けるうちに行きたいところへ行こうと、夫婦は旅立ちました。日本とはまったく異なる美しい景色や歴史的建造物に感動したことはもちろんですが、今でもNさんの脳裏に鮮明に浮かぶのは、現地で遭遇したハプニングの数々だといいます。
「田舎道で突然、レンタカーのタイヤがパンクしてしまったんです。英語もろくに話せないなか、身振り手振りで地元の人に助けてもらいました。当時は冷や汗をかきましたが、あとになってみれば一番の笑い話です」
この1ヵ月間の旅は、ただの一過性の思い出づくりには留まりませんでした。帰国後、24年間にわたる夫婦の生活のなかで、ヨーロッパでの出来事は幾度となく会話のネタになりました。
「テレビで現地の風景が映るたびに、『あのとき道に迷って大喧嘩したわね』『パンクを直してくれた親切な人がいたね』と話していました。楽しいことも苦い経験も、すべてが私たち夫婦の24年間を彩る大切な宝物になったんです」
Nさんの妻が病床に伏してからも、二人は旅の思い出を語り合いました。そして、ベッドの上で、Nさんにこう微笑んだといいます。
「生まれ変わってまた夫婦になったら、今度はアメリカを横断しましょうね」
その言葉を聞いて、Nさんは涙が止まらなかったと振り返ります。もしあのとき、将来への漠然とした不安からお金を使わず貯め込んでいたら、これほど豊かな時間を共有し、笑顔で語り合える最期を迎えることはできなかったでしょう。
「確かにお金は大切です。でも、経験にお金を使ったからこそ、私たちは何にも代えられない素晴らしい時間を手に入れられました。だからこそ、同世代の人たちにも『元気なうちに旅に出てほしい』と伝えたいです」
Nさんの事例のように、お金をただ貯め込むだけでなく、有意義な経験に使うことで人生の満足度を高めるシニアが増えつつあります。
株式会社ハルメクホールディングスが発表した「お金に関する意識・実態調査」によると、今後のシニア層の消費動向として「お金も時間も(キャンセルせずに)自分に使うシニアが増加」していることが指摘されています。
物価高などによる将来の不安から節約志向が高まる一方で、「イマ活」や「ご自愛消費」といった言葉に代表されるように、今の自分の楽しみや経験に対しては積極的にお金を使うというメリハリのある消費行動が広がっているのです。
老後資金への不安は誰にでもあります。しかし、健康で体力があるうちに、旅行や趣味など、夫婦の絆を深める「思い出づくり」に投資することは、将来の豊かな会話や心の平穏という、目に見えない大きなリターンをもたらすでしょう。
お金を「使うべきタイミング」で見極め、かけがえのない経験に変えていくこと。それこそが、後悔のない老後を送るための一つの答えといえるのではないでしょうか。
[参考資料]株式会社ハルメクホールディングス「お金に関する意識・実態調査2025」
[参考資料]
株式会社ハルメクホールディングス「お金に関する意識・実態調査2025」