憂鬱な朝の通勤ラッシュ。すし詰め状態でも、時には乗客の怒号が飛び交いながらでも、電車は定刻通りに出発する。そんな日本の鉄道の「定時性」は世界一とも称される。それに一役買っているのが「押し屋」の存在だ。
【画像】押し屋が「ちゅうちょなく押して」と指導されるのは…
乗り切れそうもない乗客を中に押し込み、なんとかドアを閉める。その多くは学生アルバイトで、人気の理由は「朝のスキマ時間にちょうどいい。時給もいい」からだという。誕生は1955年の国鉄時代と歴史は古く、満員電車が姿を消したコロナ禍を経てもなお存在し続ける「押し屋」。その実像を経験者に聞いた。(全2本の1本目/後編を読む)
令和の時代も残る珍バイト「押し屋」の実像とは?(写真:bennymarty/iStock.com)
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JR東日本はホームページ上で「駅係員アルバイト」を駅ごとに随時募集している。正式名称は「テンポラリースタッフ」といい、通称は「TS」や「テンポさん」。仕事紹介では「通勤・通学時間帯にお客さまにスムーズに乗り降りいただくためのご案内や誘導を行っていただきます」と案内している。これが押し屋の正体だ。
時給は新規採用時点で1500円。契約更新ごとに50円ずつ上がっていく。もちろん、鉄道に詳しい必要はない。なかなかの好待遇だが、勤務時間は平日朝7時から10時ごろに限られる。
コロナ禍の2021年に押し屋を始めた佐藤遥香さん(仮名、20代)によると、採用当時の時給は現在よりも250円安い1250円だったという。さすがJR東日本だけあって、物価高に対応して時給を上げたということか。
佐藤さんは応募の理由をこう話す。
「1限のない日に最寄り駅で押し屋をして、そのまま2限に間に合う。学生にはちょうどいいバイトです」
現役押し屋の大学生、岡野ケンジさん(仮名、20代)も「早朝バイトは他にコンビニや新聞配達くらい。雇い主が大企業だけあって、労災などの補償もしっかりしているので安心感があります」と明かす。
「応募すると駅に呼ばれ、志望動機や通勤経路、あとは早起きできるかを聞かれただけで、30分もかからずにその場で採用が決まりました。
初出勤の日は制服を受け取って着替えると、すぐさまホームに立ちました。先輩の押し屋から基本的な業務の流れや駅構内の案内を受けたくらいです」(岡野さん)
勤務時間は短いが、「押し」だけが仕事ではない。メインの業務は大きく三つ。電車の監視とホーム上の安全確保、そして押し。
基本動作はこうだ。まずはホームで電車を待つ客の列を整理し、「危ないのでホームの端を歩かないでください」などと声をかける。
電車が駅に近づくと、線路上を指さしながら異変がないかをチェック。停車してドアが開いたタイミングでドア横に移動し、客の乗降が終わったら「ドアが閉まりまーす」と言いながら無事に閉まるのを見届ける。乗り切れなそうな場合には押しが必要となる。
ドア横にある「側灯」と呼ばれるランプが消えたかどうかを指さし確認し、電車が離れたら再び線路上を指さし確認。再びホームの列を整理する。
混み具合によっては2、3人がかりで押し込み役とドアを押さえて閉める役をこなす。「痛い痛い」「押すなよ」「(他の客に)もっと下がれ」などといった怒号が飛び交うこともざら。「どう考えてももう乗れないだろ」というタイミングで駆け込もうとする“猛者”もおり、その場合は「がし屋」になるという。
大変なのは押しだけではない。ラッシュ時に人身事故などでダイヤが乱れた際は一気に過酷さが増す。目的地に急ぐ人たちから「いつ動くんだ」「どうやって行けばいいんだ」と詰められる。答えられなければ「なんで分からないんだ」とさらに責められる。間違っても「スマホで調べれば分かるでしょ」などと口にしてはならない。
中には「なんとかしろ」とむちゃな要求をしてくる客もいるが、「申し訳ありません」とひたすら謝るしかない。
乗り継ぎや振り替え輸送などを正確に案内するため、押し屋はまず勤務する駅を走る路線すべての駅名を覚えさせられるという。いくら採用時に知識不問と言っても、東京駅や新宿駅は避けたいところだ。
佐藤さんは「人身事故に限らず、非常停止ボタンが押されれば周辺の路線が一斉に止まります。乗り換えを案内するために、周辺の路線も自習しました」と明かす。
ちなみに、ゴールデンウイークやお盆、年末年始の繁忙期には東京駅に派遣され、新幹線自由席の前に立つこともあるんだとか。佐藤さんは、列に並ぶ小さな子どもに新幹線のシールを配っていたという。
原則、押し屋の守備範囲はホーム上のみ。線路内は必ずJR社員が担当する。非常停止ボタンは「危ないと思ったら押して」「ちゅうちょなく電車を止めて」と指導され、警察や救急車を呼ぶかどうかの判断は社員がする。
押し屋を悩ませるのが、異性の体に接触せざるを得ないことだ。通称「ハクテ」と呼んでいる白手袋を着けているとはいえ、「わいせつ行為だ」と非難されるリスクはある。かと言って、押しを遠慮して電車を遅らせるわけにもいかない。
岡野さんがコツを解説する。
「女性の体には触らないように気をつけています。その上で、荷物を押すか、手ではなく肩で押します。これは先輩から教わりました」
さらに、緊張感を持ち続けなければならないこともあるという。
押し屋の立ち位置は基本、点字ブロックからはみ出ないぎりぎり。「いつ突き飛ばされて、線路に落下するか分からないという恐怖があります。そのため、常にホーム側の片足に重心を置き、いつでも踏ん張れるようにしているんです」と岡野さん。
ホームの端を歩く客に注意したところ、無言で体当たりされたことも複数回あったという。
「押し」でも思わぬ危険がつきまとう。
ドアを抑えながら押し込んでいる時に、別の場所でドアにものや人が挟まった際に、車掌が突然ドアを開ける操作をすることがある。もし指が戸袋方向を向いていると、手が吸い込まれてしまう。実際、他の駅では押し屋が指を骨折したケースもあったという。対策として、戸袋側には決して指を向けないようにしている。
佐藤さんがダイヤ乱れの次に大変だったと打ち明けるのが夏と冬だ。
地下鉄と違ってJRのホームは日差しをもろに浴びることが多い。持ち場が決まっている押し屋に逃げ場はない。しかも女性は夏場でもシャツの上にベスト着用が必須な上、腕時計を着けることが推奨されるため、日焼け跡が残ってしまう。
一方、冬はシャツの上にベスト、ブレザー、コートが貸与される。寒さ対策としては十分かと思いきや、「このコートが寒いし重いんです。白手袋だけでは指先が冷えるので、薄い手袋を仕込み、強力なカイロを常備していました」(佐藤さん)。
ちなみにネックウオーマーはOKだが、マフラーは禁止。佐藤さんによると、男性の同僚らは「どこまで耐えられるか」というくだらない勝負をして、真冬に半袖シャツ1枚の強者もいたという。
コロナ禍では駅から人が消え、通勤ラッシュという言葉も忘れそうになったほどだ。それでも押し屋は存在していた。ちょうどコロナ禍で押し屋を始めた佐藤さんがその理由を説明する。
「コロナが収束すればいずれ人は戻ってくる。JRはそのときのために人材育成を続けていたんです。通勤ラッシュが戻ってから慌てて押し屋を募集しても遅いので」
現在、リモートワークや時差出勤も浸透し、ホームドアの整備も進んでいる。押し屋の存在は時代とともに消えゆくものなのか、佐藤さんに尋ねると「なくなることはないでしょう」との答えが返ってきた。
「押し込む業務は減るかもしれませんが、いざ人身事故や災害が起きれば駅の混雑は大変なことになります。JR東日本は都心部の路線でもワンマン、さらには自動運転という方向性を示していますが、その分、ホーム上の安全確認の重要性が増していくのは間違いありません」(佐藤さん)
押し屋は永久に不滅のようだ。
〈「女性専用車にわざと乗ろうとする男性客も…」令和の“押し屋”バイト(20代)が語る“現場で一番困っていること”〉へ続く
(目黒 龍)