葬儀は、本来、故人を静かに見送り、その生涯を偲ぶ厳粛な儀式。しかし、参列者や親族が感情的になり、その場が思わぬ修羅場と化してしまうケースも珍しくありません。生前の確執、相続問題、あるいは介護の負担を巡る認識のズレなどが引き金となることも。故人が亡くなったことで抑えられていた不満や誤解が一気に表面化し、故人を悼むはずの場で激しい口論や非難の応酬が始まってしまうのです。
芳賀良子さん(62歳・仮名)は、先日、夫の健介さん(享年75歳・仮名)を長年の闘病の末に見送りました。享年75歳、平均寿命から見れば早い旅立ちでしたが、健介さんは生前、複数の持病を抱え、ここ数年は入退院を繰り返す日々だったといいます。
葬儀は近親者のみでしめやかに執り行われました。喪主として挨拶に立つ良子さんは、少しやつれた様子ながらも、どこか張り詰めたものが切れたような、安堵した表情にも見えました。参列者の多くは「長年の介護、お疲れ様でした」と良子さんをねぎらいます。
「夫はもともと頑固で亭主関白な人でした。病気になってからは、さらに気難しくなって。身の回りの世話はすべて私。夜中も何度も起こされ、正直、体力的にも精神的にもしんどかった」
良子さんは介護生活を振り返ります。一方で健介さんからは感謝の言葉よりも、些細なことでの叱責が多かったといいます。それでも「一生を添い遂げると約束した夫だから」と耐え忍んできた良子さん。葬儀が無事に進んでいくなかで、「やっと終わった……」という思いが表情に滲み出てしまったのでしょう。その表情が、ある参列者の怒りを買うことになります。出棺が近づき、親族が最後のお別れをしていたその時でした。
「良子さん、あなた、兄が死んで清々したって顔ね!」
声を荒らげたのは、健介さんの妹・田中小百合さん(72歳・仮名)でした。式場は一瞬にして静まり返り、すべての視線が2人に集まります。
「兄からいつも言っていた。『良子が冷たい』『ろくに世話もしてくれない』『財産ばかり当てにしやがって』って。本当は、兄が死んで嬉しくて仕方がないんでしょ!」
良子さんは、一瞬何を言われたか分からないという顔をしましたが、すぐにカッと顔が赤らみました。
「なにを……何も知らないくせに、勝手なことを言わないでください! お金? 健介さんの治療費と入院費で全部消えましたよ! 誰が毎日、下の世話までしていたと思ってるんですか!」
「なんだと!」と掴みかからんばかりの小百合さんを、他の親族が慌てて止めに入ります。良子さんがほくそ笑んでいるように見えたのは、長年の介護の重圧から解放された一瞬の安堵に過ぎませんでした。しかし、生前に健介さんが妹にこぼしていた「妻への愚痴」が、小百合さんの目には良子さんを「冷酷な財産目当ての妻」と映らせていたようです。
故人を偲ぶはずの葬儀の場は、介護の実態を知らない親族と、すべてを一身に背負ってきた妻との、認識のズレが引き起こした修羅場と化したといいます。
在宅介護の現場では、介護の負担が特定の家族、特に配偶者に集中しがち。厚生労働省『2022(令和4)年 国民生活基礎調査』によると、主な介護者が要介護者等と「同居」している割合は45.9%。さらに、そのうち、介護する側とされる側の両方が65歳以上である、いわゆる「老老介護」の割合は63.5%と高水準を記録し、介護者の高齢化も深刻です。
良子さんのように、介護を一身に背負う配偶者は、身体的な疲労だけでなく、社会からの孤立や精神的なストレスも抱え込みがち。問題なのは、健介さんのように、介護を受けている本人が、介護者(良子さん)のいない場所で、親族や友人に不満や愚痴をこぼすケースです。介護の日常を知らない周囲の人間は、その言葉を鵜呑みにしやすく、介護者に対して「故人はあんなに苦しんでいたのに」といった誤解や偏見を抱いてしまうことも珍しくないでしょう。その蓄積された誤解が、故人が亡くなった後の葬儀や相続の場で一気に噴出し、今回のような修羅場に発展するのは、葬儀においてよくあることです。
介護は家庭内だけで解決しようとせず、早い段階から介護サービスを利用したり、ケアマネジャーに相談したりすることも重要です。また、親族間でも、介護の状況や金銭的な負担について、生前から情報を共有し、一人に負担が集中しすぎないよう理解を深めておくことが、こうしたすれ違いを防ぐ鍵となります。
[参考資料]
厚生労働省『2022(令和4)年 国民生活基礎調査』