〈「ラーメンのダシの中に、殺害した相手の手首を入れていた」ヤクザの抗争で“バラバラ殺人事件”発生…世間を震撼させた“異色すぎるヤクザの会長”の素顔〉から続く
45年間にわたり、「ヤクザ」と呼ばれる人々を取材してきたフリーライターの山平重樹氏。そんな山平氏が、ヤクザたちの意外な素顔や、これまで世に知られていないエピソードを綴った著書『私が出会った究極のたち 泣いて笑ってヤクザ取材45年』(徳間書店)を上梓した。
【衝撃画像】「相手の股ぐらをドスで刺しちゃった」ヤクザの会長の“イカツすぎる素顔”を見る
ここでは、同書より一部を抜粋し、住吉会家根弥一家八代目で、「バービー」の愛称で知られた異色のヤクザ・金子幸市氏の素顔を紹介する。(全2回の2回目/1回目から続く)
写真はイメージ アフロ
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戦後間もなくして、住吉一家三代目・阿部重作の跡目候補とも目されていた“青鬼”こと向後平の一門に連なった“バービー”――金子幸市。向後の筆頭舎弟が、金子バービーの兄貴分で、後に親分に直る“バカ政”こと浜本政吉であった。
向後と浜本は少年時代から兄、舎弟の仲で名にし負う武闘派同士。バービーは向後の命令で浜本と一緒に相手の命を狙いに行ったことも何度かあったという。
「高橋浅太郎という中盆の名人と言われ、若死にした金筋博徒がいたんです。生きてりゃ、芝浦(住吉一家)の跡目をとったかもしれないと言われた実力者で、当時は芝浦本部の責任者でした。この人の身内と私が揉めて、相手の股ぐらをドスで刺しちゃったんですよ、死にはしなかったけど。
で、芝浦の本部に浜本と謝りに行ったんですが、向後の親分は喧嘩したくてしょうがないから、銀座で拳銃持って待ってるわけです。浜本も、『いいか、バービー、オレが目をつぶって合図したら、構わねえから浅公の襟首んで首っ玉に銃弾をぶちこむんだ』なんて言うわけですよ。しょうがねえな、やるしかない、と」
とは、バービーの弁だった。浜本政吉と高橋浅太郎は同じ住吉一家の大幹部、普段は「浅ちゃん」「政ちゃん」と呼びあうような間柄であった。バービーは浜本の言いつけを守り、2人の話し合いの間中、45口径の拳銃を懐に入れ、合図があり次第、いつでも抜けるように身構えていたという。

だが、浅太郎はその気配を察したのか、最初からフレンドリーで、謝罪するバービーに対し、
「いやあ、いいんだ、いいんだ、内輪なんだから」
咎める様子もなく、問題にもせず、あっさり水に流してくれたという。
浜本からのゴーサインも最後まで出ず、その気満々でいたバービーには拍子抜けだったものの、危うく懲役に行かずに済んだのも確かだった。当時、そんなことは日常茶飯事で、向後一統でも揉めごととなると、決まってその原因を作るのはバービーであったという。通算懲役22年8カ月という数字が何よりそれを物語っているわけで、向後や浜本にすれば、そんな問題児が可愛くてならなかったようだ。
だが、昭和31年3月6日、ヤクザ抗争史上に名高い浅草妙清寺事件で、同じ住吉一家の大日本興行・高橋輝男会長、同・桑原優幹部とともに相討つ形で銃弾に斃れ、向後は40年の波瀾の生涯を閉じている。次代の住吉一家を担うホープと目された2人の大物親分の死は衝撃的で、紛れもなく戦後の裏社会の歴史を大きく変える事件となった。
向後平の若者で浜本政吉の舎弟だった金子バービーが、浜本の直系若衆に直るのは事件から20年近く経ってのことで、浜本兄弟会の合議によるものだった。
浜本兄弟会というのは、浜本と縁の濃い舎弟たちから成る親睦会で、当初のメンバーは西口茂男、牧野國泰、亀井利明、広川進、小西保、清水幸一、中久喜源重、田中義治、五十嵐隆治、林勇太郎、中村利宣、稲葉一利、福中久雄、石井義雄、武田憲雄の15人。
錚々たる顔ぶれで、いずれも一家を成した親分衆ばかり、西口、牧野、石井に至っては、住吉会、松葉会、双愛会という関東の名門組織のトップにまで昇りつめた。

この若かりし頃は“バカ政”、後年は“赤坂の天皇”の異名をとった関東伝説のヤクザ・浜本政吉を、私が本格的に知ったのはロス強制送還事件で金子を初めて取材したことによる。
厳密に言えば、出会いはもっと早く、浜本政吉をモデルにした東映の「バカ政ホラ政トッパ政」を観たのが始まりだった。昭和51年10月、封切り時に高田馬場東映で観たのだが、当時の私は映画にモデルがあることやどんな人物なのかもほとんど意識していなかった。
菅原文太がバカ政、中山仁がホラ政、ケーシー高峰がトッパ政に扮し、倍賞美津子、伴淳三郎がゲスト出演、監督が中島貞夫、主題歌を歌っているのが美空ひばりという、今では考えられない豪華版だが、シリーズ化されなかったところを見ると、あまり当たらなかったのだろうか。
ラストはさながら浅草妙清寺事件を彷彿とさせるような、葬儀場に乗り込んだバカ政たち3人がハチの巣のように銃弾を浴びるシーンで終わっているのだが、もとより私がいまだ浅草妙清寺事件もバカ政も銀座警察も知らなかった頃だ。
まさかこの映画から8年後、モデルとなった親分の唯一の若い衆といわれる人と取材で出会って、大いに触発され、やがて自分がそのバカ政さんの物語を書くことになろうとは、夢にも思わなかったのだから、感慨深いものがある。
金子バービーは、最初の取材の時から、親分・浜本政吉の話題に触れて、冗舌であった。
「ロスから帰って浜本と会った時は、『てめえは銭なんかいっぱい持って行くからそういうことになるんだ。何がアメリカだ! 傲った心がいけないんだ』と、さんざん怒られました。30年、浜本に仕えてきて、私はズーッと怒られっ放しできたからね。
正直言って、うるさいジジイと初めは思っていたけど、私も負けず嫌いで、怒られないように直していって1年経った時、確実に私自身が変わっていることに気づいた。つくづく親のありがたさがわかりました。浜本系というのは何千人おって舎弟も大勢おりますが、私が唯一の若い衆。それに恥じないよう、親分に負けないような男になろうと思ってます」
浜本の通算懲役年数は金子より長い23年。獄中では禅書ばかり読んで、んだ極意が沢庵和尚の《心こそ心まよわす心なれ、心に心、心許すな》であったというから、やはりヤクザとしては大層変わっている。
「浜本の凄さは、土壇場での所作の見事さ。あれだけは他の誰にも真似できるもんじゃない。あの肚の据え方、そりゃシビれますよ」
とバービー氏に聴いた時から、私のバカ政さんへの興味は沸々と湧いてきたのだった。
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金子幸市氏が世間の注目を集めることになった“手首ラーメン事件”とは――。以下のリンクから続きをお読みいただけます。
(山平 重樹/Webオリジナル(外部転載))