警視庁公表の『令和3年における行方不明者の状況』によると、2021年に警察に行方不明者届が出されたのは、7万9,218人。前年比で2,196人増えている。年間、約8万人もの人たちが日本で行方不明になっていることになる。届けが出されていないケースも含めれば、さらにいるのだろう。
行方不明の「原因・動機別」というデータもあり、要因として最も多いのは「疾病関係」で、2万3,000人を越える。そのうち約1万7,000人が認知症に関連してのものと聞けば納得だろう。次に多いのが「家庭関係」で1万2,415人。「事業・職業関係」がこれに続く8,814人だった。
結果的には失踪者の大半が所在確認できているが、届けが出されてから2年以上も経って所在が明らかになった人数は2,041人にもなるという。
そんな行方不明者を待つ立場の人びとは、どのような気持ちで日々を過ごしているのだろうか。男女問題を30年近く取材し『不倫の恋で苦しむ男たち』などの著作があるライターの亀山早苗氏は、今回、とつぜん妻がいなくなった男性を取材した。
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「子どものころから“家族”という存在に複雑な感情を抱いていました。家族が仲良く生きていく家庭に大きな憧れがあるのに、そこに背を向けたのは自分だったのかもしれない。結婚後は妻にずっと人生を支配されているような気がしていたけど、もともとは自分が悪かったわけだし。人生の正解って何なんでしょうね」
なんともいえない苦しそうな表情でそう言うのは、住田淳也さん(44歳・仮名=以下同)だ。彼の人生は波乱に富んでいる。小説にしたら「嘘っぽい」と言われてしまうだろう。
「小学校に入ってすぐ母が亡くなりました。『おかあさんはちょっと具合が悪いから、明日から病院に入るの。でもすぐ戻ってくるからね』と言われ、学校に慣れたらお見舞いに行こうと父が言っていたのに、気づいたら病院で動かなくなった母と対面していた。最期、僕が手を握ったら母の目から涙がこぼれ落ちたのを覚えています。いや、もしかしたらこれは記憶ではなくて願望だったのかもしれないけど……」
3ヶ月後、突然、知らない女性が家にやってきた。父は「今日からこの人がおまえのお母さんだ」と言ったが、子どもだからそんなことは受け入れられない。母の死さえどう受け止めていいかわからない幼い子にとって、環境の激変はつらかっただろう。
「彼女は悪い人じゃなかったんでしょう、一生懸命、めんどうを見てくれたけど、僕はなつくことができなかった。母を思って仏壇の前で泣いてばかりいました。そうしたらいつの間にか仏壇がなくなっていたんです」
2度目の妻に懐かない息子に業を煮やして、父は仏壇を親戚にしばらく預けたらしいが、ずいぶん乱暴なことをするものだ。建築関係の仕事に従事していた父は出張も多かったため、なんとか息子をひとりにしないために早く再婚したという経緯もあるらしい。だが淳也さんは、「母がいるころからつきあっていた人だと思う」という見解を今も崩していない。
「僕も少しずつものがわかっていって、『波風立てない』ように、養母とは適度な距離をとりつつうまくやっていこうとしました。だけど中学3年生のころだったか、受験を前に神経質になっていた時期があって……」
模試の成績が悪く、このままだと希望校に入れないと教師に言われた淳也さんは、養母に当たり散らしていた。養母が「私は淳ちゃんを愛そうとがんばってきたのに」とはらはらと泣いたとき、淳也さんの心に獣が舞い降りたと彼自身が言う。
「とっさに彼女に抱きついて胸を触って……。寂しかったんでしょうね。彼女が抱き留めてくれたので、あとはなるようになってしまった」
それが彼の初体験だった。今思えば、途中、彼女に誘導されたような気もするというが、実際にどうだったのかはわからない。
それ以降、養母とはもちろん、父とも距離を置かなければならないと心に決めた。そのために急遽、志望校を変えて全寮制の高校に入学した。
「父が再婚したのは30代後半、養母は30代前半だったはず。養母にしてみれば、いきなり7歳の子の母親にならなければならないとがんばっていたんでしょう。悪いことをしたなと思います」
高校に進学はしたものの、鬱屈した日々を過ごした淳也さん。勉強もスポーツも、夢中になれるものは何もなかった。将来に希望も持てなかった。ただ、寮で隣の部屋にいた同級生とは仲良くなった。彼もまた家庭に問題を抱えていたという。
「入学した年の夏休みだったか、彼が『家に帰りたくないなあ』と言い出して。僕も帰りたくなかったから、じゃあ、ふたりでどこかに行こうかと自転車で旅をしたんですよ。楽しかった。でもさすがに彼は『ちょっとだけ家に顔を出すから一緒に来てくれない?』と言うのでお邪魔したんです。ご両親は明るくていい人たちだった。彼はものすごく愛されていたんですよ。それがうとましかったらしい。でも僕は羨ましかった。彼のお父さんとなぜか気が合って、そんな話もしました。お父さんは黙って聞いてくれた。何かあったらいつでもおいでと言ってくれたとき、思わず涙が出ました」
淳也さんは高校を1年で退学、その友人の父親が経営する内装関係の会社に入社した。弟子入りのようなものだったと淳也さんは言う。
「友人には、おまえが社長になったらオレをそのまま使ってくれよと言ったら笑っていました。友人はなぜか突然、勉強に目覚めて医師になりました。すごいですよね」
淳也さんは友人の父親にかわいがられ、仕事をぐいぐい覚えていった。体で覚えるタイプなんでしょうねと笑うが、その後は必死に仕事関係の勉強もしたようだ。そして友人の妹である咲紀子さんと結婚したのが28歳のときだった。
「師匠の娘さんと結婚するなんて畏れ多いから断っていたんです。咲紀子はいい子だったけど、若いときから一緒にいるから恋愛感情はもっていなくて。だけどある日、師匠が急に頭が痛いと言って倒れて、そのまま帰らぬ人になってしまった。咲紀子のお母さんも、兄である友人も『この家を継いでほしい』と。師匠には恩返しをしたかったから、引き受けました。そして結婚もしたんです」
結婚したことを、父親にだけは知らせた。父は電話越しに「そうか」とつぶやいただけだった。おめでとうの一言もないんだね、と言ったら電話が切れた。そのころ父は妻から、淳也さんとの関係をほのめかされていたらしい。
実家との関係に見切りをつけた淳也さんは、婚家のためにがんばろうと決意した。ところが、まだまだ波乱は続いた。
30歳で長男、32歳で長女が生まれた。会社も師匠である義父が社長だったころと同じくらいの業績を上げていた。社員の福利厚生にも気を配ったため、社内の雰囲気もよくなったと咲紀子さんにも褒められた。
そんなとき義母が倒れた。病院に行くとすでに末期だと宣告され、入院して2ヶ月もたたずに亡くなった。
「怖くなりました。僕が来たら両親が亡くなったなんて、咲紀子に申し訳なくてたまらなかった。咲紀子は『あなたのせいじゃないわよ』と言ったけど……。あげくの果てに、長男が4歳のときに義兄である友人が自ら命を絶ちました。医師としてがんばっていたのに。患者のためにと働きすぎて、過労から鬱を発症したようです。『うち、呪われた家系なのかもね』と咲紀子がつぶやいたのを覚えています」
咲紀子さんの様子が少しおかしくなった。淳也さんは心配だったが、仕事をしないわけにもいかない。彼女はときどき従姉妹の優子さんを呼んで手伝ってもらうようになった。
「家に帰っても咲紀子は暗い表情のことが多くなりました。もちろん、妻の気持ちを考えれば当然なんですが、子どもがいる以上、もうちょっと前を向いてほしかった。1年たっても妻はぼんやりしている時間が長かった。もちろん医者にも診せましたが、咲紀子は白衣を見ると感情が乱れるんです。兄を思い出すんでしょう。僕もがんばったけど、ふっと気分を変えたくなることもありました」
会社と自宅は徒歩で15分ほどだ。彼は深夜、会社でひとり飲むことがあった。そこへ優子さんが訪ねてきたことがある。咲紀子さんに何かがあったかと思わずたちあがると、「咲紀ちゃんが、うちの人は仕事ばかりしているって愚痴るから迎えに来たのよ」と微笑んでいた。そして「淳也さんも大変だと思う」と近づいてきてハグしてくれた。優子さんは父親の仕事の関係で中学高校時代をアメリカで過ごしていたため、日常的にハグをするのだ。
「そのときも、いつものハグだった。でも僕も弱っていたんでしょうね、彼女に抱きついてしまったんですよ。養母との関係が急によみがえってきて、僕は父に嫉妬していた、本当は養母が大好きだったんだと急に自分の気持ちが理解できた。優子さんは養母にどこか似ていたから、急にパニックみたいになってしまって……」
あのときと同じだった。気づいたら優子さんと関係をもっていた。自分は何をしているんだろう、おかしくなりそうだ。そう思ったとき、優子さんが言った。「私、淳也さんのことが好き」と。今言うな、それだけは言わないでほしいと彼は泣いた。
突然、咲紀子さんがいなくなったのはそれから1週間後だ。土曜日の夜、家族4人で夕食をとろうとしたとき、急に「忘れ物した。先に食べてて」と言って、咲紀子さんは小銭入れだけ持って出て行った。
「近所で誰かと会って立ち話でもしているのかなと思いましたが、1時間たっても帰ってこない。優子さんに連絡して来てもらうことにし、僕は咲紀子を探しに出ました。結局、見つからずに2時間後には警察に連絡したんです」
咲紀子さんの行方はそれきりわからなかった。情報もない。夫婦とも携帯電話は所有していたが、彼女は置いて出ていた。携帯を調べても特に怪しい履歴もなかった。いまから9年前の出来事である。
その後は優子さんが妻代わりになって子どものめんどうを見てくれた。そんな優子さんの姿が養母と重なり、彼はいつも息苦しくなるような気持ちになった。
「咲紀子からはまったく連絡がなかった。警察からも情報はなくて。失踪当時、優子さんは当時30歳。彼女は日本の大学に入ってから単身でまた渡米、帰国後、東京の外資系企業でバリバリ働いていたんですが、数年で人間関係に疲れたと実家に戻ってきたんです。それで咲紀子を手伝うようになった。元気になったらまた仕事をしたいと言っていたのに、咲紀子がいなくなってからはずっと家に泊まり込んでくれていました。ひとつ屋根の下にいると、どうしても……」
夫婦同然の暮らしとなった。近所や親戚からはさまざまな噂や苦言があったが、ふたりにとって別れという選択肢はなかった。ただ、表向きは「妻の帰宅を待つ夫と、妻の代わりに家事育児を手伝う従姉妹」を貫いた。同情と好奇な目、周りの人たちの感情が手に取るようにわかったと淳也さんは言う。
「それでも仕事を辞めるわけにはいかない。社員にだけは信じてほしいと言い続けました。まあ、嘘をついていたことにはなるんですが、どうしても社員の気持ちを乱したくなかった。優子さんも協力してくれました。僕たちがひとつになるのは、子どもたちが寝静まった深夜に少しの時間だけ。本当は僕がひとりで子育てもするべきだという気持ちがあったから、そこか彼女には遠慮がありました。外でも家でも、僕は『優子さん』と呼んでいました。彼女はときどき、どうしたらいいかわからないと言っていました」
いっそ妻との離婚を成立させたほうがいいかもしれない。行方不明から3年以上連絡もとれず、まったく居場所がわからなければ、法的に離婚することは可能だ。淳也さんはそうしようと考えた。ところが優子さんがそれには反対だった。万が一、咲紀子さんが帰ってきたら合わせる顔がないというのだ。
「連絡ひとつ寄越さない咲紀子に対して腹が立ちましたが、一方で、僕自身も咲紀子をあきらめきれないところがあった。優柔不断ですよね。それに大人の事情はともかく、子どもたちの精神状態がいちばん心配でした。優子さんと再婚したらどうなるのか。幼いときの自分の気持ちを思い出すと決心できなかった」
7年たてば失踪宣告を出すことができる。そうすれば「死別」として扱われる。それまで待つしかないのかもしれないと淳也さんは思った。だが、待ってほしいと優子さんには言えなかった。
咲紀子さんの失踪から5年後、優子さんから「アメリカに戻る」と告げられた。何も言わずにそばにいてくれた優子さんだが、やはりこのまま自分の人生を淳也さんに捧げるようなことはできないと思ったのだろう。彼は止めることができなかった。
「代わりに優子さんのお母さんが昼間、手伝ってくれることになりました。社員の奥さんが来てくれることもあって手は足りる。でも子どもたちの心情を思うとせつなかったですね」
大人たちは誰も誰かを幸せにはできなかった。淳也さんは子どもたちの心だけを守ろうとしたが、それもできているのかどうかわからないと自分を責めた。
「そもそも咲紀子がいなくなったのは、僕と優子さんのことを知ったからかもしれないんですよね。僕、実はなかなかそこに思いが至らなかった。立て続けに身内が亡くなったら、そりゃ鬱状態にもなるよと考えていたんです。でも直接の原因は僕と優子さんのことかもしれない」
いろいろなことが起こりすぎて、彼自身、すべてを整理して考えることができないまま年月だけが過ぎていったのだろう。
そして失踪宣告が出せるようになった今から2年前、咲紀子さんから連絡があったと優子さんの母から聞かされた。
「僕は咲紀子が生きていると思えなかったから、本当なのかと何度も尋ねました。でも優子さんのお母さんが嘘をつく理由がない。その数日後、咲紀子から会社に電話がかかってきたんです。『ごめんね』と泣いていました。生きていてくれてよかった、と僕は言いました。それ以外、言いようがなかった」
戻って来いと言うことが咲紀子さんにどう受け取られるかわからず、次の言葉に迷っているうちに電話は切れた。
以来、咲紀子さんからは連絡がない。家族を捨て、子どもたちを忘れてどうやって暮らしているのかを彼は知りたくてたまらないという。責めるつもりはない。もう一度、姿を見せてほしいと彼は願っている。
「咲紀子とまた暮らしたいとは正直言って思えない。ちゃんと会って話して、この長い時間を埋められれば気持ちが変わるかもしれませんが。もっと本音を言えば、僕、もう人の何倍も生きてきたような気がする。疲れました」
疲れても、子どものためにはがんばるしかない。それが自分を認めて育ててくれた、咲紀子さんの父親へのせめてもの恩返しだと思うからと彼は言った。
「僕の父と養母は数年前に離婚したそうです。家族には恵まれない人生だったなあとつくづく思います」
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咲紀子さんはいつか戻ってくるかもしれない。“家族”の重さや価値は人それぞれ違うだろう。家族を拒否するような生き方も、家族は心の支えだとする生き方も、それは個人の選択だ。淳也さんのように家族に振り回される人もいる。“運命”だと諦めて自分の環境を受け入れるのか、抗って闘うのか。それもまた選択と決断を繰り返していくしかないのだろう。
今年5月には、1977年に行方がわからなくなっていた男性の所在が45年ぶりに確認されたというニュースがあった。行方がわからなくなった当時は26歳で、「発見」時は71歳。その間何をしていたかなどの詳細は明らかにされていないが、北朝鮮の拉致の可能性も指摘されていた人物だった。
この男性は自分が行方不明者になっていることを知らなかったそうだが、咲紀子さんは、なぜ行方をくらませたのか。本当のところは彼女にしか分からないが、やはり淳也さんと優子さんの関係を知ったことがきっかけなのではないかと察せられる。咲紀子さんからしてみれば、夫と関係をもった親類が、そのまま自宅に入り込み、子供の親代わりをしているわけである。もしかすると、失踪中にもその様子を知る機会があったかもしれない。
淳也さんは、妻がいなくなったあと、あっさりと優子さんを家に迎え入れている。そしてまた、自身と優子さんとの関係に失踪の原因があると思い至るまでに、年月を要している。また優子さんが止めなければ、行方不明から3年以上が経過しての離婚手続きも行おうとしていた。咲紀子さんが帰りやすい環境を作ろうとはしていない。そこにはもしかすると、幼少時代の経験からの家族像、家庭像が影響しているのかもしれない。
淳也さんは唯一、亡き義父のことを思って、子供のために生活を続けている。彼の人生に本当の意味で「家族」といえる人がいるのならば、それは義父だったのだろう。
淳也さんはいま44歳で、咲紀子さんはさらに若い。これからも続く人生を、誰と、どう過ごすことになるのだろうか。
亀山早苗(かめやま・さなえ)フリーライター。男女関係、特に不倫について20年以上取材を続け、『不倫の恋で苦しむ男たち』『夫の不倫で苦しむ妻たち』『人はなぜ不倫をするのか』『復讐手帖─愛が狂気に変わるとき─』など著書多数。
デイリー新潮編集部