「釜石のことは好きじゃなかった。でも…」あの日、津波から避難した中学2年生は地元で“語り部”になった から続く
「地震があって2日後、(妹が帰ってこないので)『みんなで探しに行こう』と、家族で探しに行きました。幼稚園の近くに停めていた車の中で、お菓子を食べながら待っていたんです。妹が見つかったのですが、『亡くなった』という言葉と妹のことがうまくつながりませんでした。私は、そのとき、何かできたのかな?」
【写真】現在は20歳になった、春音ちゃんの姉・楓音さん
2011年3月11日、東日本大震災で宮城県石巻市の私立日和幼稚園(震災当時、園児103人)の園児5人が亡くなった。冒頭の言葉は、西城春音ちゃん(享年6歳)の姉、楓音さん(20)によるものだ。
春音ちゃんは津波そのものではなく、火災によって亡くなった。そのため、「火事で焦げていたため、家族だったけれども、怖かった」と話す。現在は、語り部として「あの日、何をしていたのか?」を伝えている。
春音ちゃんと楓音さんが一緒に写っている写真(23年3月4日撮影)
震災当時、楓音さんは小学校2年生。地震があった14時46分には家にいた。津波警報が鳴っていたため、祖父母とともに2階へ行くことにした。両親は仕事中でまだ帰宅していない。
「最初は机の下に隠れました。おじいちゃんがラジオを聴いていたからだと思いますが、津波警報が出たのがわかりました。小学校では津波想定の避難訓練はしていませんでした。ただ、津波のことはよくわかっていなかったのですが、海沿いではないし、近くの小学校へ避難しようとしました。
しかし、危ないと思ったのか、おじいちゃんが私を止めて、2階に避難することになりました。結局、玄関から黒い水が入ってきて、その後、階段のところまできました。川の洪水とか、雨の汚水かと思ったのですが、おじいちゃんやおばあちゃんが『津波だ』と言っていました。そのため、その日はずっと2階にいました」(楓音さん)
運転手は、バスと園児5人、添乗員を放置して… このとき、妹の春音ちゃんは市内の高台・日和山(61.3メートル)の中腹にある日和幼稚園にいた。 津波警報が出ていたものの、春音ちゃんたちを乗せた幼稚園バスは海岸方向に向けて出発した。途中で園児を引き取りにきた保護者もいた。そんな中、園側は津波から避難をするために「バスを上げろ」という園長からの指示を受けた幼稚園教諭2人が、日和山のそばにある門脇小学校近くで停車していたバスに伝えた。 しかし、バスは園児を乗せたまま動き出した。つまり、幼稚園教諭は園児たちと一緒に高台へ避難しなかった。しかも、津波が迫りくる中、運転手はバスを高台の幼稚園に向かわさせることなく、低地に放置。園児5人と添乗員をそのままにして、一人だけ高台の園に戻った。このとき、運転手と園長との間で、取り残された園児や添乗員について確認するやりやりは行われなかった。車内で焼けこげた春音ちゃんの遺体を発見 春音ちゃんの母・江津子さんは園に向かった。いどころを聞くと、バスの運転手は「あっちのほう」と言い、津波浸水エリアの方向を指さした。ただ、実際には運転手がバスや園児、添乗員を放置した場所とは違っていた。そのため、江津子さんは春音ちゃんたちを見つけることができないでいた。 当日の夜、「助けて!」と叫ぶ園児と思われる子どもの声が聞こえたという証言もある。門脇小学校では、津波火災が発生していた。 3月14日、父親の靖之さんと江津子さんは再び、園に向かっていた。「生きていると思っていた」と言う楓音さんは、車で一緒に探しに行った。火災が収まり、津波が引いて、バスを放置した付近を探せる状況になっていた。しかし、園側が捜索した形跡はない。「幼稚園」と書いてあるバスを見つけると、車内に焼けこげた春音ちゃんの遺体があった。重なるようにして大人の遺体も見つかったが、添乗員ということが18年になってわかった。夢に出てくる春音さんは成長しないまま 死因の詳細は不明だが、バスが放置されていた場所には津波が来ていないこと、火災が発生していたことを考えると、火災による焼死の可能性が高い。「遺体だけど、火事で焦げていたので、怖かったんです。夢にも出ました。階段のところに、まるこげの春ちゃんがいるんですが、何も話さないんです。この姿で夢に出てきたのはこのときだけでした。あとは、幼稚園服を着ている姿でした。一緒に滑り台で遊んでいる夢も見ましたが、あたりは真っ暗でした。春ちゃんが三輪車を漕いでいる姿を、私が後ろから見ている夢も見ました」(同前) 夢に出てくる春音さんは、成長しないままだという。今でも、楓音さんの夢に、春音さんが現れる。「いつ夢を見ても、どれだけ時間が経っても、春ちゃんは小さいまま成長していないんです。最初は身長が同じくらいでしたが、最近は私の身長が伸びたため、目線が違っています。夢の中の春ちゃんは、亡くなっていることがわかっているようでした。去年の3月にも夢に出てきたんですが、翌日、大きな地震があり、びっくりしました。教えてくれたのかな」(同前)生きていれば今年の3月で高校を卒業した年代だった 夢にまで出る春音ちゃん。その姿は幼稚園の頃のまま。「春ちゃんと同年代の子を見るよりは、幼稚園バスを見たときの方が、思い出すことが多いですね。あの頃は私も小さかったということもあるし、絶対、何もできなかった。ただ、何もできなかったという無力感があります。その想いはずっとあります。それでも、春ちゃんが苦しんでいるときに、私は2階でご飯を食べていましたし、温かい布団で寝ていました。申し訳ない」(同前) そう言って楓音さんは涙ぐんだ。思い出も話してくれた。「春ちゃんが生きていれば、今年の3月で高校を卒業した年代でした。どんな部活に入ったのかな。いつも私についてきた。私は陸上競技をしていたので、きっと、陸上をしていたと思います。でも、正直、同じ競技をしてほしくなかった。だって、春ちゃんは足が速いので、私は抜かれていたと思います。一緒にお買い物をしたかったですね。下のきょうだいと一緒に買い物しても、『早く帰ろう』というので、ゆっくりできないですし」(同前)幼稚園との裁判は和解が成立 靖之さんや江津子さんらは「日和幼稚園遺族有志の会」に参加した。悲劇を繰り返さないためにと、日和幼稚園の経験を伝える活動をしている。「春音ちゃんが入学するはずだった小学校や中学校では、入学式に参加させてもらいました。小学校では卒業証書まで作ってくれましたし、中学では、ネームプレートを用意してくれました」(江津子さん) また、「安全配慮義務を怠った」として、亡くなった園児の4人の遺族が園側を訴えた。仙台地裁(斉木教朗裁判長)は13年9月、遺族側の勝訴の判決を下した。その後、園側が控訴した。仙台高裁(中西茂裁判長)では和解となった。「今後このような悲劇が二度と繰り返されることのないよう、被災園児らの犠牲が教訓として長く記憶にとどめられ、後世の防災対策に生かされるべきだと考える」などの前文がつく、異例の和解文となった。当日の動きを地図で示したパンフレットや動画を作成 19年3月には、亡くなった園児の名前を入れた詩が刻まれた慰霊碑が、園児たちの遺体が見つかった場所に建立された。現場は、復興工事が進み、被災当時のことを思い出せる光景はほぼない。そんな中で記念碑が建った。当時、江津子さんは「胸がいっぱいです。子どもたちのため、そして、私たちのためでもあります。今後も、園児たちのことを伝えていくことができ、うれしく思います。一人でも多くの人が見てほしい。ここで何があったのかを少しでも考えて帰ってほしいです」と話していた。 このほか、当日の動きを地図で示したパンフレットや、子どもたちに向けて漫画で伝えるパンフレットも作成した。紙芝居や動画も作った。「あの日の記憶は鮮明に覚えています。一緒に行った場所に行くと、春音のことを思い出します。旅行に行くときは、写真を持っていきます。震災後に生まれた子もいますが、春音の写真を持っていく担当になっています。誕生日(4月8日)は毎年、いちごのタルトのケーキを頼んでいます。震災の前の年に、私の誕生日に買ったケーキですが、春音はそれが好きでした」(同前)遺体を見つけた話の場面はいつも泣きながら話している 震災から12年が経つが、江津子さんも語り部を続けている。周囲の関心は続いているのだろうか。「語り部をすると、その場面に戻ってしまいます。遺体を見つけた話の場面では、いつも涙が出て、泣きながら話しています。聴いてくれる人も、(私のタイミングを)待ってくれています。 以前は、フェイスブックを経由して連絡があり、講演をしたり、現地で語り部をしたりしていました。最近では、コロナで延期になった語り部もありますが。年間で20回ほどは有志の会のホームページ経由で行っています。このほか、伝承館を介して講演をすることもあります。県外の場合が多いですが、修学旅行で聞きにきてくれる学生さんたちもいます」(同前)写真=渋井哲也(渋井 哲也)
このとき、妹の春音ちゃんは市内の高台・日和山(61.3メートル)の中腹にある日和幼稚園にいた。
津波警報が出ていたものの、春音ちゃんたちを乗せた幼稚園バスは海岸方向に向けて出発した。途中で園児を引き取りにきた保護者もいた。そんな中、園側は津波から避難をするために「バスを上げろ」という園長からの指示を受けた幼稚園教諭2人が、日和山のそばにある門脇小学校近くで停車していたバスに伝えた。
しかし、バスは園児を乗せたまま動き出した。つまり、幼稚園教諭は園児たちと一緒に高台へ避難しなかった。しかも、津波が迫りくる中、運転手はバスを高台の幼稚園に向かわさせることなく、低地に放置。園児5人と添乗員をそのままにして、一人だけ高台の園に戻った。このとき、運転手と園長との間で、取り残された園児や添乗員について確認するやりやりは行われなかった。
車内で焼けこげた春音ちゃんの遺体を発見 春音ちゃんの母・江津子さんは園に向かった。いどころを聞くと、バスの運転手は「あっちのほう」と言い、津波浸水エリアの方向を指さした。ただ、実際には運転手がバスや園児、添乗員を放置した場所とは違っていた。そのため、江津子さんは春音ちゃんたちを見つけることができないでいた。 当日の夜、「助けて!」と叫ぶ園児と思われる子どもの声が聞こえたという証言もある。門脇小学校では、津波火災が発生していた。 3月14日、父親の靖之さんと江津子さんは再び、園に向かっていた。「生きていると思っていた」と言う楓音さんは、車で一緒に探しに行った。火災が収まり、津波が引いて、バスを放置した付近を探せる状況になっていた。しかし、園側が捜索した形跡はない。「幼稚園」と書いてあるバスを見つけると、車内に焼けこげた春音ちゃんの遺体があった。重なるようにして大人の遺体も見つかったが、添乗員ということが18年になってわかった。夢に出てくる春音さんは成長しないまま 死因の詳細は不明だが、バスが放置されていた場所には津波が来ていないこと、火災が発生していたことを考えると、火災による焼死の可能性が高い。「遺体だけど、火事で焦げていたので、怖かったんです。夢にも出ました。階段のところに、まるこげの春ちゃんがいるんですが、何も話さないんです。この姿で夢に出てきたのはこのときだけでした。あとは、幼稚園服を着ている姿でした。一緒に滑り台で遊んでいる夢も見ましたが、あたりは真っ暗でした。春ちゃんが三輪車を漕いでいる姿を、私が後ろから見ている夢も見ました」(同前) 夢に出てくる春音さんは、成長しないままだという。今でも、楓音さんの夢に、春音さんが現れる。「いつ夢を見ても、どれだけ時間が経っても、春ちゃんは小さいまま成長していないんです。最初は身長が同じくらいでしたが、最近は私の身長が伸びたため、目線が違っています。夢の中の春ちゃんは、亡くなっていることがわかっているようでした。去年の3月にも夢に出てきたんですが、翌日、大きな地震があり、びっくりしました。教えてくれたのかな」(同前)生きていれば今年の3月で高校を卒業した年代だった 夢にまで出る春音ちゃん。その姿は幼稚園の頃のまま。「春ちゃんと同年代の子を見るよりは、幼稚園バスを見たときの方が、思い出すことが多いですね。あの頃は私も小さかったということもあるし、絶対、何もできなかった。ただ、何もできなかったという無力感があります。その想いはずっとあります。それでも、春ちゃんが苦しんでいるときに、私は2階でご飯を食べていましたし、温かい布団で寝ていました。申し訳ない」(同前) そう言って楓音さんは涙ぐんだ。思い出も話してくれた。「春ちゃんが生きていれば、今年の3月で高校を卒業した年代でした。どんな部活に入ったのかな。いつも私についてきた。私は陸上競技をしていたので、きっと、陸上をしていたと思います。でも、正直、同じ競技をしてほしくなかった。だって、春ちゃんは足が速いので、私は抜かれていたと思います。一緒にお買い物をしたかったですね。下のきょうだいと一緒に買い物しても、『早く帰ろう』というので、ゆっくりできないですし」(同前)幼稚園との裁判は和解が成立 靖之さんや江津子さんらは「日和幼稚園遺族有志の会」に参加した。悲劇を繰り返さないためにと、日和幼稚園の経験を伝える活動をしている。「春音ちゃんが入学するはずだった小学校や中学校では、入学式に参加させてもらいました。小学校では卒業証書まで作ってくれましたし、中学では、ネームプレートを用意してくれました」(江津子さん) また、「安全配慮義務を怠った」として、亡くなった園児の4人の遺族が園側を訴えた。仙台地裁(斉木教朗裁判長)は13年9月、遺族側の勝訴の判決を下した。その後、園側が控訴した。仙台高裁(中西茂裁判長)では和解となった。「今後このような悲劇が二度と繰り返されることのないよう、被災園児らの犠牲が教訓として長く記憶にとどめられ、後世の防災対策に生かされるべきだと考える」などの前文がつく、異例の和解文となった。当日の動きを地図で示したパンフレットや動画を作成 19年3月には、亡くなった園児の名前を入れた詩が刻まれた慰霊碑が、園児たちの遺体が見つかった場所に建立された。現場は、復興工事が進み、被災当時のことを思い出せる光景はほぼない。そんな中で記念碑が建った。当時、江津子さんは「胸がいっぱいです。子どもたちのため、そして、私たちのためでもあります。今後も、園児たちのことを伝えていくことができ、うれしく思います。一人でも多くの人が見てほしい。ここで何があったのかを少しでも考えて帰ってほしいです」と話していた。 このほか、当日の動きを地図で示したパンフレットや、子どもたちに向けて漫画で伝えるパンフレットも作成した。紙芝居や動画も作った。「あの日の記憶は鮮明に覚えています。一緒に行った場所に行くと、春音のことを思い出します。旅行に行くときは、写真を持っていきます。震災後に生まれた子もいますが、春音の写真を持っていく担当になっています。誕生日(4月8日)は毎年、いちごのタルトのケーキを頼んでいます。震災の前の年に、私の誕生日に買ったケーキですが、春音はそれが好きでした」(同前)遺体を見つけた話の場面はいつも泣きながら話している 震災から12年が経つが、江津子さんも語り部を続けている。周囲の関心は続いているのだろうか。「語り部をすると、その場面に戻ってしまいます。遺体を見つけた話の場面では、いつも涙が出て、泣きながら話しています。聴いてくれる人も、(私のタイミングを)待ってくれています。 以前は、フェイスブックを経由して連絡があり、講演をしたり、現地で語り部をしたりしていました。最近では、コロナで延期になった語り部もありますが。年間で20回ほどは有志の会のホームページ経由で行っています。このほか、伝承館を介して講演をすることもあります。県外の場合が多いですが、修学旅行で聞きにきてくれる学生さんたちもいます」(同前)写真=渋井哲也(渋井 哲也)
春音ちゃんの母・江津子さんは園に向かった。いどころを聞くと、バスの運転手は「あっちのほう」と言い、津波浸水エリアの方向を指さした。ただ、実際には運転手がバスや園児、添乗員を放置した場所とは違っていた。そのため、江津子さんは春音ちゃんたちを見つけることができないでいた。
当日の夜、「助けて!」と叫ぶ園児と思われる子どもの声が聞こえたという証言もある。門脇小学校では、津波火災が発生していた。
3月14日、父親の靖之さんと江津子さんは再び、園に向かっていた。「生きていると思っていた」と言う楓音さんは、車で一緒に探しに行った。火災が収まり、津波が引いて、バスを放置した付近を探せる状況になっていた。しかし、園側が捜索した形跡はない。「幼稚園」と書いてあるバスを見つけると、車内に焼けこげた春音ちゃんの遺体があった。重なるようにして大人の遺体も見つかったが、添乗員ということが18年になってわかった。
夢に出てくる春音さんは成長しないまま 死因の詳細は不明だが、バスが放置されていた場所には津波が来ていないこと、火災が発生していたことを考えると、火災による焼死の可能性が高い。「遺体だけど、火事で焦げていたので、怖かったんです。夢にも出ました。階段のところに、まるこげの春ちゃんがいるんですが、何も話さないんです。この姿で夢に出てきたのはこのときだけでした。あとは、幼稚園服を着ている姿でした。一緒に滑り台で遊んでいる夢も見ましたが、あたりは真っ暗でした。春ちゃんが三輪車を漕いでいる姿を、私が後ろから見ている夢も見ました」(同前) 夢に出てくる春音さんは、成長しないままだという。今でも、楓音さんの夢に、春音さんが現れる。「いつ夢を見ても、どれだけ時間が経っても、春ちゃんは小さいまま成長していないんです。最初は身長が同じくらいでしたが、最近は私の身長が伸びたため、目線が違っています。夢の中の春ちゃんは、亡くなっていることがわかっているようでした。去年の3月にも夢に出てきたんですが、翌日、大きな地震があり、びっくりしました。教えてくれたのかな」(同前)生きていれば今年の3月で高校を卒業した年代だった 夢にまで出る春音ちゃん。その姿は幼稚園の頃のまま。「春ちゃんと同年代の子を見るよりは、幼稚園バスを見たときの方が、思い出すことが多いですね。あの頃は私も小さかったということもあるし、絶対、何もできなかった。ただ、何もできなかったという無力感があります。その想いはずっとあります。それでも、春ちゃんが苦しんでいるときに、私は2階でご飯を食べていましたし、温かい布団で寝ていました。申し訳ない」(同前) そう言って楓音さんは涙ぐんだ。思い出も話してくれた。「春ちゃんが生きていれば、今年の3月で高校を卒業した年代でした。どんな部活に入ったのかな。いつも私についてきた。私は陸上競技をしていたので、きっと、陸上をしていたと思います。でも、正直、同じ競技をしてほしくなかった。だって、春ちゃんは足が速いので、私は抜かれていたと思います。一緒にお買い物をしたかったですね。下のきょうだいと一緒に買い物しても、『早く帰ろう』というので、ゆっくりできないですし」(同前)幼稚園との裁判は和解が成立 靖之さんや江津子さんらは「日和幼稚園遺族有志の会」に参加した。悲劇を繰り返さないためにと、日和幼稚園の経験を伝える活動をしている。「春音ちゃんが入学するはずだった小学校や中学校では、入学式に参加させてもらいました。小学校では卒業証書まで作ってくれましたし、中学では、ネームプレートを用意してくれました」(江津子さん) また、「安全配慮義務を怠った」として、亡くなった園児の4人の遺族が園側を訴えた。仙台地裁(斉木教朗裁判長)は13年9月、遺族側の勝訴の判決を下した。その後、園側が控訴した。仙台高裁(中西茂裁判長)では和解となった。「今後このような悲劇が二度と繰り返されることのないよう、被災園児らの犠牲が教訓として長く記憶にとどめられ、後世の防災対策に生かされるべきだと考える」などの前文がつく、異例の和解文となった。当日の動きを地図で示したパンフレットや動画を作成 19年3月には、亡くなった園児の名前を入れた詩が刻まれた慰霊碑が、園児たちの遺体が見つかった場所に建立された。現場は、復興工事が進み、被災当時のことを思い出せる光景はほぼない。そんな中で記念碑が建った。当時、江津子さんは「胸がいっぱいです。子どもたちのため、そして、私たちのためでもあります。今後も、園児たちのことを伝えていくことができ、うれしく思います。一人でも多くの人が見てほしい。ここで何があったのかを少しでも考えて帰ってほしいです」と話していた。 このほか、当日の動きを地図で示したパンフレットや、子どもたちに向けて漫画で伝えるパンフレットも作成した。紙芝居や動画も作った。「あの日の記憶は鮮明に覚えています。一緒に行った場所に行くと、春音のことを思い出します。旅行に行くときは、写真を持っていきます。震災後に生まれた子もいますが、春音の写真を持っていく担当になっています。誕生日(4月8日)は毎年、いちごのタルトのケーキを頼んでいます。震災の前の年に、私の誕生日に買ったケーキですが、春音はそれが好きでした」(同前)遺体を見つけた話の場面はいつも泣きながら話している 震災から12年が経つが、江津子さんも語り部を続けている。周囲の関心は続いているのだろうか。「語り部をすると、その場面に戻ってしまいます。遺体を見つけた話の場面では、いつも涙が出て、泣きながら話しています。聴いてくれる人も、(私のタイミングを)待ってくれています。 以前は、フェイスブックを経由して連絡があり、講演をしたり、現地で語り部をしたりしていました。最近では、コロナで延期になった語り部もありますが。年間で20回ほどは有志の会のホームページ経由で行っています。このほか、伝承館を介して講演をすることもあります。県外の場合が多いですが、修学旅行で聞きにきてくれる学生さんたちもいます」(同前)写真=渋井哲也(渋井 哲也)
死因の詳細は不明だが、バスが放置されていた場所には津波が来ていないこと、火災が発生していたことを考えると、火災による焼死の可能性が高い。
「遺体だけど、火事で焦げていたので、怖かったんです。夢にも出ました。階段のところに、まるこげの春ちゃんがいるんですが、何も話さないんです。この姿で夢に出てきたのはこのときだけでした。あとは、幼稚園服を着ている姿でした。一緒に滑り台で遊んでいる夢も見ましたが、あたりは真っ暗でした。春ちゃんが三輪車を漕いでいる姿を、私が後ろから見ている夢も見ました」(同前)
夢に出てくる春音さんは、成長しないままだという。今でも、楓音さんの夢に、春音さんが現れる。
「いつ夢を見ても、どれだけ時間が経っても、春ちゃんは小さいまま成長していないんです。最初は身長が同じくらいでしたが、最近は私の身長が伸びたため、目線が違っています。夢の中の春ちゃんは、亡くなっていることがわかっているようでした。去年の3月にも夢に出てきたんですが、翌日、大きな地震があり、びっくりしました。教えてくれたのかな」(同前)
夢にまで出る春音ちゃん。その姿は幼稚園の頃のまま。
「春ちゃんと同年代の子を見るよりは、幼稚園バスを見たときの方が、思い出すことが多いですね。あの頃は私も小さかったということもあるし、絶対、何もできなかった。ただ、何もできなかったという無力感があります。その想いはずっとあります。それでも、春ちゃんが苦しんでいるときに、私は2階でご飯を食べていましたし、温かい布団で寝ていました。申し訳ない」(同前)
そう言って楓音さんは涙ぐんだ。思い出も話してくれた。「春ちゃんが生きていれば、今年の3月で高校を卒業した年代でした。どんな部活に入ったのかな。いつも私についてきた。私は陸上競技をしていたので、きっと、陸上をしていたと思います。でも、正直、同じ競技をしてほしくなかった。だって、春ちゃんは足が速いので、私は抜かれていたと思います。一緒にお買い物をしたかったですね。下のきょうだいと一緒に買い物しても、『早く帰ろう』というので、ゆっくりできないですし」(同前)幼稚園との裁判は和解が成立 靖之さんや江津子さんらは「日和幼稚園遺族有志の会」に参加した。悲劇を繰り返さないためにと、日和幼稚園の経験を伝える活動をしている。「春音ちゃんが入学するはずだった小学校や中学校では、入学式に参加させてもらいました。小学校では卒業証書まで作ってくれましたし、中学では、ネームプレートを用意してくれました」(江津子さん) また、「安全配慮義務を怠った」として、亡くなった園児の4人の遺族が園側を訴えた。仙台地裁(斉木教朗裁判長)は13年9月、遺族側の勝訴の判決を下した。その後、園側が控訴した。仙台高裁(中西茂裁判長)では和解となった。「今後このような悲劇が二度と繰り返されることのないよう、被災園児らの犠牲が教訓として長く記憶にとどめられ、後世の防災対策に生かされるべきだと考える」などの前文がつく、異例の和解文となった。当日の動きを地図で示したパンフレットや動画を作成 19年3月には、亡くなった園児の名前を入れた詩が刻まれた慰霊碑が、園児たちの遺体が見つかった場所に建立された。現場は、復興工事が進み、被災当時のことを思い出せる光景はほぼない。そんな中で記念碑が建った。当時、江津子さんは「胸がいっぱいです。子どもたちのため、そして、私たちのためでもあります。今後も、園児たちのことを伝えていくことができ、うれしく思います。一人でも多くの人が見てほしい。ここで何があったのかを少しでも考えて帰ってほしいです」と話していた。 このほか、当日の動きを地図で示したパンフレットや、子どもたちに向けて漫画で伝えるパンフレットも作成した。紙芝居や動画も作った。「あの日の記憶は鮮明に覚えています。一緒に行った場所に行くと、春音のことを思い出します。旅行に行くときは、写真を持っていきます。震災後に生まれた子もいますが、春音の写真を持っていく担当になっています。誕生日(4月8日)は毎年、いちごのタルトのケーキを頼んでいます。震災の前の年に、私の誕生日に買ったケーキですが、春音はそれが好きでした」(同前)遺体を見つけた話の場面はいつも泣きながら話している 震災から12年が経つが、江津子さんも語り部を続けている。周囲の関心は続いているのだろうか。「語り部をすると、その場面に戻ってしまいます。遺体を見つけた話の場面では、いつも涙が出て、泣きながら話しています。聴いてくれる人も、(私のタイミングを)待ってくれています。 以前は、フェイスブックを経由して連絡があり、講演をしたり、現地で語り部をしたりしていました。最近では、コロナで延期になった語り部もありますが。年間で20回ほどは有志の会のホームページ経由で行っています。このほか、伝承館を介して講演をすることもあります。県外の場合が多いですが、修学旅行で聞きにきてくれる学生さんたちもいます」(同前)写真=渋井哲也(渋井 哲也)
そう言って楓音さんは涙ぐんだ。思い出も話してくれた。
「春ちゃんが生きていれば、今年の3月で高校を卒業した年代でした。どんな部活に入ったのかな。いつも私についてきた。私は陸上競技をしていたので、きっと、陸上をしていたと思います。でも、正直、同じ競技をしてほしくなかった。だって、春ちゃんは足が速いので、私は抜かれていたと思います。一緒にお買い物をしたかったですね。下のきょうだいと一緒に買い物しても、『早く帰ろう』というので、ゆっくりできないですし」(同前)
靖之さんや江津子さんらは「日和幼稚園遺族有志の会」に参加した。悲劇を繰り返さないためにと、日和幼稚園の経験を伝える活動をしている。
「春音ちゃんが入学するはずだった小学校や中学校では、入学式に参加させてもらいました。小学校では卒業証書まで作ってくれましたし、中学では、ネームプレートを用意してくれました」(江津子さん)
また、「安全配慮義務を怠った」として、亡くなった園児の4人の遺族が園側を訴えた。仙台地裁(斉木教朗裁判長)は13年9月、遺族側の勝訴の判決を下した。その後、園側が控訴した。仙台高裁(中西茂裁判長)では和解となった。「今後このような悲劇が二度と繰り返されることのないよう、被災園児らの犠牲が教訓として長く記憶にとどめられ、後世の防災対策に生かされるべきだと考える」などの前文がつく、異例の和解文となった。当日の動きを地図で示したパンフレットや動画を作成 19年3月には、亡くなった園児の名前を入れた詩が刻まれた慰霊碑が、園児たちの遺体が見つかった場所に建立された。現場は、復興工事が進み、被災当時のことを思い出せる光景はほぼない。そんな中で記念碑が建った。当時、江津子さんは「胸がいっぱいです。子どもたちのため、そして、私たちのためでもあります。今後も、園児たちのことを伝えていくことができ、うれしく思います。一人でも多くの人が見てほしい。ここで何があったのかを少しでも考えて帰ってほしいです」と話していた。 このほか、当日の動きを地図で示したパンフレットや、子どもたちに向けて漫画で伝えるパンフレットも作成した。紙芝居や動画も作った。「あの日の記憶は鮮明に覚えています。一緒に行った場所に行くと、春音のことを思い出します。旅行に行くときは、写真を持っていきます。震災後に生まれた子もいますが、春音の写真を持っていく担当になっています。誕生日(4月8日)は毎年、いちごのタルトのケーキを頼んでいます。震災の前の年に、私の誕生日に買ったケーキですが、春音はそれが好きでした」(同前)遺体を見つけた話の場面はいつも泣きながら話している 震災から12年が経つが、江津子さんも語り部を続けている。周囲の関心は続いているのだろうか。「語り部をすると、その場面に戻ってしまいます。遺体を見つけた話の場面では、いつも涙が出て、泣きながら話しています。聴いてくれる人も、(私のタイミングを)待ってくれています。 以前は、フェイスブックを経由して連絡があり、講演をしたり、現地で語り部をしたりしていました。最近では、コロナで延期になった語り部もありますが。年間で20回ほどは有志の会のホームページ経由で行っています。このほか、伝承館を介して講演をすることもあります。県外の場合が多いですが、修学旅行で聞きにきてくれる学生さんたちもいます」(同前)写真=渋井哲也(渋井 哲也)
また、「安全配慮義務を怠った」として、亡くなった園児の4人の遺族が園側を訴えた。仙台地裁(斉木教朗裁判長)は13年9月、遺族側の勝訴の判決を下した。その後、園側が控訴した。仙台高裁(中西茂裁判長)では和解となった。「今後このような悲劇が二度と繰り返されることのないよう、被災園児らの犠牲が教訓として長く記憶にとどめられ、後世の防災対策に生かされるべきだと考える」などの前文がつく、異例の和解文となった。
19年3月には、亡くなった園児の名前を入れた詩が刻まれた慰霊碑が、園児たちの遺体が見つかった場所に建立された。現場は、復興工事が進み、被災当時のことを思い出せる光景はほぼない。そんな中で記念碑が建った。当時、江津子さんは「胸がいっぱいです。子どもたちのため、そして、私たちのためでもあります。今後も、園児たちのことを伝えていくことができ、うれしく思います。一人でも多くの人が見てほしい。ここで何があったのかを少しでも考えて帰ってほしいです」と話していた。
このほか、当日の動きを地図で示したパンフレットや、子どもたちに向けて漫画で伝えるパンフレットも作成した。紙芝居や動画も作った。「あの日の記憶は鮮明に覚えています。一緒に行った場所に行くと、春音のことを思い出します。旅行に行くときは、写真を持っていきます。震災後に生まれた子もいますが、春音の写真を持っていく担当になっています。誕生日(4月8日)は毎年、いちごのタルトのケーキを頼んでいます。震災の前の年に、私の誕生日に買ったケーキですが、春音はそれが好きでした」(同前)遺体を見つけた話の場面はいつも泣きながら話している 震災から12年が経つが、江津子さんも語り部を続けている。周囲の関心は続いているのだろうか。「語り部をすると、その場面に戻ってしまいます。遺体を見つけた話の場面では、いつも涙が出て、泣きながら話しています。聴いてくれる人も、(私のタイミングを)待ってくれています。 以前は、フェイスブックを経由して連絡があり、講演をしたり、現地で語り部をしたりしていました。最近では、コロナで延期になった語り部もありますが。年間で20回ほどは有志の会のホームページ経由で行っています。このほか、伝承館を介して講演をすることもあります。県外の場合が多いですが、修学旅行で聞きにきてくれる学生さんたちもいます」(同前)写真=渋井哲也(渋井 哲也)
このほか、当日の動きを地図で示したパンフレットや、子どもたちに向けて漫画で伝えるパンフレットも作成した。紙芝居や動画も作った。
「あの日の記憶は鮮明に覚えています。一緒に行った場所に行くと、春音のことを思い出します。旅行に行くときは、写真を持っていきます。震災後に生まれた子もいますが、春音の写真を持っていく担当になっています。誕生日(4月8日)は毎年、いちごのタルトのケーキを頼んでいます。震災の前の年に、私の誕生日に買ったケーキですが、春音はそれが好きでした」(同前)
遺体を見つけた話の場面はいつも泣きながら話している 震災から12年が経つが、江津子さんも語り部を続けている。周囲の関心は続いているのだろうか。「語り部をすると、その場面に戻ってしまいます。遺体を見つけた話の場面では、いつも涙が出て、泣きながら話しています。聴いてくれる人も、(私のタイミングを)待ってくれています。 以前は、フェイスブックを経由して連絡があり、講演をしたり、現地で語り部をしたりしていました。最近では、コロナで延期になった語り部もありますが。年間で20回ほどは有志の会のホームページ経由で行っています。このほか、伝承館を介して講演をすることもあります。県外の場合が多いですが、修学旅行で聞きにきてくれる学生さんたちもいます」(同前)写真=渋井哲也(渋井 哲也)
震災から12年が経つが、江津子さんも語り部を続けている。周囲の関心は続いているのだろうか。
「語り部をすると、その場面に戻ってしまいます。遺体を見つけた話の場面では、いつも涙が出て、泣きながら話しています。聴いてくれる人も、(私のタイミングを)待ってくれています。
以前は、フェイスブックを経由して連絡があり、講演をしたり、現地で語り部をしたりしていました。最近では、コロナで延期になった語り部もありますが。年間で20回ほどは有志の会のホームページ経由で行っています。このほか、伝承館を介して講演をすることもあります。県外の場合が多いですが、修学旅行で聞きにきてくれる学生さんたちもいます」(同前)
写真=渋井哲也(渋井 哲也)
(渋井 哲也)