今年1月9日、大阪湾の淀川河口に迷い込んだマッコウクジラの「淀ちゃん」。4日後に死亡が確認された後、現場でその死骸の学術調査を行なったのが、国立科学博物館の研究員である田島木綿子さんだ。
【写真23枚】約15cmの厚さで巨大なヒレの横、ひび割れた「淀ちゃん」の表皮を触る田島木綿子研究員。他、国立科学博物館の解剖室で骨を洗う、深海でカニが群がる鯨骨、しんかい6500も 彼女の研究テーマは、鯨類の「ストランディング(漂着)調査」というもの。日本の沿岸には報告されるだけでも年間300体のクジラやイルカが打ち上げられる。彼女は20年間のキャリアの中で、2000体もの調査経験を持つ人だ。

そんな田島さんから見ても、体長約15メートルの巨大なクジラが淀川河口のような浅瀬に迷い込むのは「極めて稀なケース」という。「本来マッコウクジラは2000メートルの深海を泳ぎ、イカなどを好物にしている生き物です。子供のクジラが母親や餌を探して迷子になることはあっても、あのような大人のクジラが餌を追って浅い河口にまで迷い込むのはあり得ないことです」 田島さんのチームは現地からの連絡を受け、淀ちゃんの調査を行なった。年齢を調べるための歯の採取(推定40~50歳)、DNA解析のための表皮や筋肉の採取、さらには脂肪の厚さの計測や胃の内容物の確認──。だが、淀ちゃんは1月19日、紀伊水道沖の水深1000メートルの外洋に運ばれる予定となっていた。調査に与えられたのはわずか3時間。限られた時間では、なぜ淀ちゃんが迷い込み死亡したのかについては、分からなかったという。「ただ、海外の事例を参照すると、いくつかの仮説は立てられます。一つは大型船との衝突で怪我をしたこと。あるいは潜水艦を探査するための軍事ソナー音によって急浮上した結果、潜水病で浅瀬に迷い込んでしまった可能性などもあるでしょう」 もし標本の作製や多様な研究を行なうことができたら、「命とは何か、なぜ淀ちゃんは死んでしまったのか、という社会的なテーマを考えるきっかけになったかもしれない」と続ける。「海の環境や現状、彼らが置かれている『今』を知ることは、同じ哺乳類の仲間である人間にとっても重要です。クジラのストランディングには感染症などが関係することもあり、まさに彼らの存在は炭鉱のカナリアでもあるのですから。その意味で詳細な調査が行なえなかったことには、残念な思いもありますね」 では、外洋に投下された淀ちゃんの死骸は今後、どうなるのだろうか。「普段は栄養の少ない深海生態系にとって、15メートル級のクジラが沈んでくるのは2000年分の食糧が空から降ってくるようなものです」 そう解説するのは海洋研究開発機構で深海生物を研究する藤原義弘研究員だ。「よって、淀ちゃんの周りには様々な深海生物がどっと集まり、“大宴会”が今も続いているでしょう。深海は生物の数は少ないのですが、種類は非常に多様です。淀ちゃんを調査すれば数十種類の新種が発見されてもおかしくありません」 深海は柔らかい堆積物の広がる平らな場所だ。そこにクジラの骨のような「硬い基質」が現われると、それを足掛かりにしてイソギンチャクやウミユリの仲間なども定住するという。クジラの周囲に生まれるこの深海生物の集まりは「鯨骨生物群集」と呼ばれる。 死骸が骨になっていくプロセスは「腐肉食期」「骨侵食期」「化学合成期」などのタームがある。最初は深海性のサメやコンゴウアナゴなどが集まり、1年も経てば肉は全て食いつくされる。その後、ホネクイハナムシの大群が骨に群がり、骨から栄養素を摂取する……といった具合だ。 興味深いのは、そうして残ったクジラの骨や周辺の堆積物から発生する硫化水素が、深海生物が生息地を広げる鍵になっているという仮説があることである。「代表的な動物の一つにハオリムシ、チューブワームとも呼ばれる生物がいます。口も肛門も消化管も持たないハオリムシは、自ら作った細い筒から真っ赤なエラを出し、硫化水素や酸素を吸収して生きています」 ハオリムシは海底から300℃を超える熱水が噴き出す極端な環境に生息する。しかし、なぜそのような生物が深海の様々な場所に勢力を広げられたのか。「クジラの死骸が『ステッピング・ストーン』(飛び石)の役割を果たしてきたのではないか、という仮説があるんですね。熱水の近くにクジラが落ちれば、幼生の一部がたどり着ける。そして、また別のクジラの死骸へと勢力を広げていく、というように。また、熱水と硫化水素という極端な環境に適応する前段階として、クジラがそれらの生物の進化のきっかけになったとも考えられています」 深海に沈んだクジラは悠久の時の中で生態系の一部となり、新たな世界を海の底に作り出していくわけだ。取材・文/稲泉連※週刊ポスト2023年2月24日号
彼女の研究テーマは、鯨類の「ストランディング(漂着)調査」というもの。日本の沿岸には報告されるだけでも年間300体のクジラやイルカが打ち上げられる。彼女は20年間のキャリアの中で、2000体もの調査経験を持つ人だ。
そんな田島さんから見ても、体長約15メートルの巨大なクジラが淀川河口のような浅瀬に迷い込むのは「極めて稀なケース」という。
「本来マッコウクジラは2000メートルの深海を泳ぎ、イカなどを好物にしている生き物です。子供のクジラが母親や餌を探して迷子になることはあっても、あのような大人のクジラが餌を追って浅い河口にまで迷い込むのはあり得ないことです」
田島さんのチームは現地からの連絡を受け、淀ちゃんの調査を行なった。年齢を調べるための歯の採取(推定40~50歳)、DNA解析のための表皮や筋肉の採取、さらには脂肪の厚さの計測や胃の内容物の確認──。だが、淀ちゃんは1月19日、紀伊水道沖の水深1000メートルの外洋に運ばれる予定となっていた。調査に与えられたのはわずか3時間。限られた時間では、なぜ淀ちゃんが迷い込み死亡したのかについては、分からなかったという。
「ただ、海外の事例を参照すると、いくつかの仮説は立てられます。一つは大型船との衝突で怪我をしたこと。あるいは潜水艦を探査するための軍事ソナー音によって急浮上した結果、潜水病で浅瀬に迷い込んでしまった可能性などもあるでしょう」
もし標本の作製や多様な研究を行なうことができたら、「命とは何か、なぜ淀ちゃんは死んでしまったのか、という社会的なテーマを考えるきっかけになったかもしれない」と続ける。
「海の環境や現状、彼らが置かれている『今』を知ることは、同じ哺乳類の仲間である人間にとっても重要です。クジラのストランディングには感染症などが関係することもあり、まさに彼らの存在は炭鉱のカナリアでもあるのですから。その意味で詳細な調査が行なえなかったことには、残念な思いもありますね」
では、外洋に投下された淀ちゃんの死骸は今後、どうなるのだろうか。
「普段は栄養の少ない深海生態系にとって、15メートル級のクジラが沈んでくるのは2000年分の食糧が空から降ってくるようなものです」
そう解説するのは海洋研究開発機構で深海生物を研究する藤原義弘研究員だ。
「よって、淀ちゃんの周りには様々な深海生物がどっと集まり、“大宴会”が今も続いているでしょう。深海は生物の数は少ないのですが、種類は非常に多様です。淀ちゃんを調査すれば数十種類の新種が発見されてもおかしくありません」
深海は柔らかい堆積物の広がる平らな場所だ。そこにクジラの骨のような「硬い基質」が現われると、それを足掛かりにしてイソギンチャクやウミユリの仲間なども定住するという。クジラの周囲に生まれるこの深海生物の集まりは「鯨骨生物群集」と呼ばれる。
死骸が骨になっていくプロセスは「腐肉食期」「骨侵食期」「化学合成期」などのタームがある。最初は深海性のサメやコンゴウアナゴなどが集まり、1年も経てば肉は全て食いつくされる。その後、ホネクイハナムシの大群が骨に群がり、骨から栄養素を摂取する……といった具合だ。
興味深いのは、そうして残ったクジラの骨や周辺の堆積物から発生する硫化水素が、深海生物が生息地を広げる鍵になっているという仮説があることである。
「代表的な動物の一つにハオリムシ、チューブワームとも呼ばれる生物がいます。口も肛門も消化管も持たないハオリムシは、自ら作った細い筒から真っ赤なエラを出し、硫化水素や酸素を吸収して生きています」
ハオリムシは海底から300℃を超える熱水が噴き出す極端な環境に生息する。しかし、なぜそのような生物が深海の様々な場所に勢力を広げられたのか。
「クジラの死骸が『ステッピング・ストーン』(飛び石)の役割を果たしてきたのではないか、という仮説があるんですね。熱水の近くにクジラが落ちれば、幼生の一部がたどり着ける。そして、また別のクジラの死骸へと勢力を広げていく、というように。また、熱水と硫化水素という極端な環境に適応する前段階として、クジラがそれらの生物の進化のきっかけになったとも考えられています」
深海に沈んだクジラは悠久の時の中で生態系の一部となり、新たな世界を海の底に作り出していくわけだ。
取材・文/稲泉連
※週刊ポスト2023年2月24日号