ギフテッド=天才児は誤解 大人の過度な期待がつぶす「子どもの才能」

最近何かと話題になる「ギフティッド/ギフテッド」。この言葉からは、大人でも分からない難しい問題を解いたり、一読するだけで本の内容を全て暗記してしまうような天才児をイメージするのではないだろうか。しかし、それは“誤解”だという。
【写真】真偽は不明だが…ネット上で「ギフテッド」との噂がある芸能人たち“普通の子ども”に見える 天才的な数学の才能を持つ少女を描いた映画「gifted/ギフテッド」(2017年)がヒットし、新宿ゴールデン街には“大人のギフテッド”向けの会員制バーまであるという。さらに、2021年には文科省が「特定分野に特異な才能のある児童生徒に対する学校における指導・支援の在り方等に関する有識者会議」を開いた。

ギフテッドかもしれないと思った時に陥りがちな間違いとは?(写真はイメージ) 様々な形でメディアに取り上げられるが、ギフテッド児に適した学習環境の研究などを行う上越教育大学大学院教授(発達心理学・教育心理学)は「偏ったイメージが広まっている」と指摘する。「メディアでは、ギフテッドをいわゆる天才のイメージで取り上げ、特異な才能を持つ面にばかり注目していると感じます。他の子どもと変わらない“普通”に見える子どもの中にもギフテッド児はいて、むしろそのような子どもの方が多数派であるという理解が重要です。子どもであるがゆえに、持っている才能がまだ表には現れていないということが、往々にしてあるためです」 そもそも、ギフテッドと一口で言ってもそのレベルは様々だ。IQ(知能指数)によって4段階に分けることもでき、たとえば4歳で相対性理論を理解したり、12歳で大学に入るようなIQ145以上の「ハイリーギフテッド」やさらにそれ以上の「エクセプショナリーギフテッド」、「プロファウンドリーギフテッド」もいれば、IQ120~130前後のギフテッドもいる(『ギフティッド その誤診と重複診断――心理・医療・教育の現場から』(北大路出版)より)。後者の割合は人口の3~10%、つまり1クラスに1人程度の割合でいることになる。発達障害を疑われることも ギフテッドだと判明するのは、小学校入学以降が多いという。「幼稚園や保育所と違い、小学校は授業の時間が大半を占めるため、周囲との違いが顕在化しやすいです。知的好奇心の強いギフテッドの子どもは、勉強出来ることを楽しみに、期待を持って小学校に入学します。ところが、授業の内容は簡単すぎて面白くない。それをじれったく感じると授業中に椅子にじっと座っていることが苦痛になり、歩き回ってしまうこともある。そんな様子から、教師にADHDなど発達障害の可能性を指摘される場合があります」 今日の日本では子どもがギフテッドかどうか分かるのも、障害の可能性が見られる場合に検査を受け、その過程で判明するパターンが多いそうだ。「発達障害などを疑いWISCという検査を受けた場合、IQが高ければ、大抵は『問題ない』となってしまいます。でも、小さい頃から『他の子どもと何かが違う』『育てにくい』と感じていた保護者は、何かあるはずだと考えます。ネットなどで色々調べた結果、ギフテッドである可能性に気づき、学校に理解を求めにいくという流れが多いのだろうと思います」「学校に居場所がない」と感じる ギフテッドには正義感が強く、理想主義で理にかなわないことを嫌うというといった特性も見られることがあると角谷教授は指摘する。故に、小学校では苦労することも少なくない。「子どもとしては授業の話に関連して興味を持ったことを教師に質問したのに『それは授業に関係ないから』などと無下に扱われたり、集団生活のルールを理不尽に感じたりすると大きな苦痛を感じます。また繊細な感受性を持つため、自分だけでなく、クラスメイトが理不尽な目に遭っているのを目撃するだけで辛い気持ちになってしまうということもあり、このような経験が重なるうちに『学校に居場所がない』という思いを強くします。さらに、エネルギーが高く激しい感情を持つ場合も多いため、周りからは『扱いにくく変わった子ども』といった風に見られたりもします」 学校現場では、ギフテッドと比べると発達障害への理解の方が進んでいる場合が多く、教師がまず発達障害の可能性を考えるのも無理はないだろう。「そもそもギフテッドであるかどうかは、自己診断出来ません。有資格者のもとで、知能検査を含め判定を受けるというプロセスが必要になります。その判定は難しく、ギフテッドであるだけなのに障害と誤診される場合があります。それと同時にギフテッドでありながら発達障害やその他の疾患を併せ持つ人もいて、二重にエクセプショナルな人(2E)と呼ばれます」 角谷教授はこうも強調する。「診断や判定が重要なのは、ラベル付けをするためではなく、その後どのようにケアし、対応するかを考えるためです。そしてその子の心理的な健康の改善に繋がっているかということが重要です」 ちなみに、先の文科省の有識者会議では〈特定分野に特異な才能のある児童生徒〉の定義を下記のように解説している。〈概ねの傾向として、IQ(知能指数)などによる一律の基準を設けるのではなく、大綱的な定義を置いていることが多い。(中略)また、どのように才能を見いだしていくのかについては、伝統的に知能検査や認知能力検査、学力テスト等が活用されているが、現在はそれだけでなく、教師や生徒本人の質問紙やチェックリストなどを包括的に活用する例もみられる。〉 その上で、〈才能教育に関しては、ややもすると「才能は全ての児童生徒が有しており、その優劣は測ることができない」あるいは「全ての児童生徒が無限に才能を伸ばす可能性を秘めている」といった議論に陥りがちであったが、有識者会議ではそれにとどまらず、明確な課題について具体的かつ現実的な議論を進めることに最大限留意して取り組んでいく〉と付言されている。ただの賢い子ども? さて、ギフテッドの定義を知ると「ただの賢い子どもと同じではないか」と思われるかもしれない。角谷教授が翻訳を担当した『わが子がギフティッドかもしれないと思ったら――問題解決と飛躍のための実践的ガイド』(春秋社)では以下のように説明している。〈秀才児とギフテッド児とのいちばんの違いとして強調されているのは、その深さと激しさだ。(中略) たとえば、秀才児は普通の子どもより好奇心がある。一方、ギフテッド児はもっとずっと好奇心が強く、どんどん情報を掘り下げていく。秀才児は読書が好きだ。一方、ギフテッド児はもっとずっと本に取りつかれたように夢中になってむさぼり読む。〉 角谷教授によると、子どもを小さい頃から見てきた保護者は、ギフテッドという言葉を知らずともその明確な違いを日々感じている場合が多いという。「ギフテッドの子どもを持つ親は『他の子と違う 』と感じている場合が多く、好奇心も含めた感情が激しすぎることや、同年代の子どもとは興味の対象が異なる様子を心配しています。しかし周りからは自慢だと思われてしまうので相談しづらく、孤独を感じているという傾向もあります。だから、わが子がギフテッドの特性に当てはまると思った親は、喜ぶというよりは安心するという感覚が近いと思います。『ああ、こういうことだったんだ』と合点がいくのです。ギフテッドの枠組みで子どもを見ることが、親子関係の改善に繋がるということもあります」 とはいえ、ギフテッドの可能性が分かった後も戸惑いは大きいという。「欧米では、特に父親は、わが子がギフテッドであることをなかなか受け入れられない傾向があると言われています。『普通でいてほしい』という願望ゆえでしょう。才能があることは喜ばしいことではあるけれども、そんなに飛びぬけたことをしなくてもよいので、社会に溶け込んでそれなりに幸せに暮らしてほしいという親の願いは、日本の親にも共通する考えだと思います。実際、才能が育つためには、大人に都合の良い枠組みを打ち破るような言動を、『親だけは受け入れる』というほどの覚悟が必要な時があります」“ギフテッドブーム”の弊害“ギフテッドブーム”ともいえる最近、認知度が高まっていく中で「わが子はギフテッドかもしれない」と考える人も多いはず。そうなった時に親が陥りがちな間違いは何だろうか。「やはり親としては心のどこかで『せっかく貴重な才能があるのなら、それを伸ばしてあげないと』といった責任のようなものを感じてしまいがちです。それが『こんなことも出来ないの?』といった焦りに繋がると、子どもはそれを敏感に感じ取ります」“ブーム”の弊害があるとしたら、どんなことだろうか。「ギフテッドが広く知られること自体はいいことだと思います。しかし、周りの大人が才能を見つけることに必死になりすぎると、子どもが楽しそうにしていることの裏に見え隠れしている才能の芽に気づけなくなってしまう。ギフテッドであってもなくても、子どもに過度の期待を押し付けるということは子どもを息苦しくさせ、時には潰してしまう可能性すらあります。大事なことは子どもの興味を尊重することです。特別な教育をと考えるよりも、子どもが安心して力を発揮できる学習環境を作ってあげることが重要です」 子どもを型にはめて可能性の芽を潰さないようにする――わが子がギフテッドか否かにかかわらず、親は肝に銘じておきたい金言である。デイリー新潮編集部
天才的な数学の才能を持つ少女を描いた映画「gifted/ギフテッド」(2017年)がヒットし、新宿ゴールデン街には“大人のギフテッド”向けの会員制バーまであるという。さらに、2021年には文科省が「特定分野に特異な才能のある児童生徒に対する学校における指導・支援の在り方等に関する有識者会議」を開いた。
様々な形でメディアに取り上げられるが、ギフテッド児に適した学習環境の研究などを行う上越教育大学大学院教授(発達心理学・教育心理学)は「偏ったイメージが広まっている」と指摘する。
「メディアでは、ギフテッドをいわゆる天才のイメージで取り上げ、特異な才能を持つ面にばかり注目していると感じます。他の子どもと変わらない“普通”に見える子どもの中にもギフテッド児はいて、むしろそのような子どもの方が多数派であるという理解が重要です。子どもであるがゆえに、持っている才能がまだ表には現れていないということが、往々にしてあるためです」
そもそも、ギフテッドと一口で言ってもそのレベルは様々だ。IQ(知能指数)によって4段階に分けることもでき、たとえば4歳で相対性理論を理解したり、12歳で大学に入るようなIQ145以上の「ハイリーギフテッド」やさらにそれ以上の「エクセプショナリーギフテッド」、「プロファウンドリーギフテッド」もいれば、IQ120~130前後のギフテッドもいる(『ギフティッド その誤診と重複診断――心理・医療・教育の現場から』(北大路出版)より)。後者の割合は人口の3~10%、つまり1クラスに1人程度の割合でいることになる。
ギフテッドだと判明するのは、小学校入学以降が多いという。
「幼稚園や保育所と違い、小学校は授業の時間が大半を占めるため、周囲との違いが顕在化しやすいです。知的好奇心の強いギフテッドの子どもは、勉強出来ることを楽しみに、期待を持って小学校に入学します。ところが、授業の内容は簡単すぎて面白くない。それをじれったく感じると授業中に椅子にじっと座っていることが苦痛になり、歩き回ってしまうこともある。そんな様子から、教師にADHDなど発達障害の可能性を指摘される場合があります」
今日の日本では子どもがギフテッドかどうか分かるのも、障害の可能性が見られる場合に検査を受け、その過程で判明するパターンが多いそうだ。
「発達障害などを疑いWISCという検査を受けた場合、IQが高ければ、大抵は『問題ない』となってしまいます。でも、小さい頃から『他の子どもと何かが違う』『育てにくい』と感じていた保護者は、何かあるはずだと考えます。ネットなどで色々調べた結果、ギフテッドである可能性に気づき、学校に理解を求めにいくという流れが多いのだろうと思います」
ギフテッドには正義感が強く、理想主義で理にかなわないことを嫌うというといった特性も見られることがあると角谷教授は指摘する。故に、小学校では苦労することも少なくない。
「子どもとしては授業の話に関連して興味を持ったことを教師に質問したのに『それは授業に関係ないから』などと無下に扱われたり、集団生活のルールを理不尽に感じたりすると大きな苦痛を感じます。また繊細な感受性を持つため、自分だけでなく、クラスメイトが理不尽な目に遭っているのを目撃するだけで辛い気持ちになってしまうということもあり、このような経験が重なるうちに『学校に居場所がない』という思いを強くします。さらに、エネルギーが高く激しい感情を持つ場合も多いため、周りからは『扱いにくく変わった子ども』といった風に見られたりもします」
学校現場では、ギフテッドと比べると発達障害への理解の方が進んでいる場合が多く、教師がまず発達障害の可能性を考えるのも無理はないだろう。
「そもそもギフテッドであるかどうかは、自己診断出来ません。有資格者のもとで、知能検査を含め判定を受けるというプロセスが必要になります。その判定は難しく、ギフテッドであるだけなのに障害と誤診される場合があります。それと同時にギフテッドでありながら発達障害やその他の疾患を併せ持つ人もいて、二重にエクセプショナルな人(2E)と呼ばれます」
角谷教授はこうも強調する。
「診断や判定が重要なのは、ラベル付けをするためではなく、その後どのようにケアし、対応するかを考えるためです。そしてその子の心理的な健康の改善に繋がっているかということが重要です」
ちなみに、先の文科省の有識者会議では〈特定分野に特異な才能のある児童生徒〉の定義を下記のように解説している。
〈概ねの傾向として、IQ(知能指数)などによる一律の基準を設けるのではなく、大綱的な定義を置いていることが多い。(中略)また、どのように才能を見いだしていくのかについては、伝統的に知能検査や認知能力検査、学力テスト等が活用されているが、現在はそれだけでなく、教師や生徒本人の質問紙やチェックリストなどを包括的に活用する例もみられる。〉
その上で、〈才能教育に関しては、ややもすると「才能は全ての児童生徒が有しており、その優劣は測ることができない」あるいは「全ての児童生徒が無限に才能を伸ばす可能性を秘めている」といった議論に陥りがちであったが、有識者会議ではそれにとどまらず、明確な課題について具体的かつ現実的な議論を進めることに最大限留意して取り組んでいく〉と付言されている。
さて、ギフテッドの定義を知ると「ただの賢い子どもと同じではないか」と思われるかもしれない。角谷教授が翻訳を担当した『わが子がギフティッドかもしれないと思ったら――問題解決と飛躍のための実践的ガイド』(春秋社)では以下のように説明している。
〈秀才児とギフテッド児とのいちばんの違いとして強調されているのは、その深さと激しさだ。(中略) たとえば、秀才児は普通の子どもより好奇心がある。一方、ギフテッド児はもっとずっと好奇心が強く、どんどん情報を掘り下げていく。秀才児は読書が好きだ。一方、ギフテッド児はもっとずっと本に取りつかれたように夢中になってむさぼり読む。〉
角谷教授によると、子どもを小さい頃から見てきた保護者は、ギフテッドという言葉を知らずともその明確な違いを日々感じている場合が多いという。
「ギフテッドの子どもを持つ親は『他の子と違う 』と感じている場合が多く、好奇心も含めた感情が激しすぎることや、同年代の子どもとは興味の対象が異なる様子を心配しています。しかし周りからは自慢だと思われてしまうので相談しづらく、孤独を感じているという傾向もあります。だから、わが子がギフテッドの特性に当てはまると思った親は、喜ぶというよりは安心するという感覚が近いと思います。『ああ、こういうことだったんだ』と合点がいくのです。ギフテッドの枠組みで子どもを見ることが、親子関係の改善に繋がるということもあります」
とはいえ、ギフテッドの可能性が分かった後も戸惑いは大きいという。
「欧米では、特に父親は、わが子がギフテッドであることをなかなか受け入れられない傾向があると言われています。『普通でいてほしい』という願望ゆえでしょう。才能があることは喜ばしいことではあるけれども、そんなに飛びぬけたことをしなくてもよいので、社会に溶け込んでそれなりに幸せに暮らしてほしいという親の願いは、日本の親にも共通する考えだと思います。実際、才能が育つためには、大人に都合の良い枠組みを打ち破るような言動を、『親だけは受け入れる』というほどの覚悟が必要な時があります」
“ギフテッドブーム”ともいえる最近、認知度が高まっていく中で「わが子はギフテッドかもしれない」と考える人も多いはず。そうなった時に親が陥りがちな間違いは何だろうか。
「やはり親としては心のどこかで『せっかく貴重な才能があるのなら、それを伸ばしてあげないと』といった責任のようなものを感じてしまいがちです。それが『こんなことも出来ないの?』といった焦りに繋がると、子どもはそれを敏感に感じ取ります」
“ブーム”の弊害があるとしたら、どんなことだろうか。
「ギフテッドが広く知られること自体はいいことだと思います。しかし、周りの大人が才能を見つけることに必死になりすぎると、子どもが楽しそうにしていることの裏に見え隠れしている才能の芽に気づけなくなってしまう。ギフテッドであってもなくても、子どもに過度の期待を押し付けるということは子どもを息苦しくさせ、時には潰してしまう可能性すらあります。大事なことは子どもの興味を尊重することです。特別な教育をと考えるよりも、子どもが安心して力を発揮できる学習環境を作ってあげることが重要です」
子どもを型にはめて可能性の芽を潰さないようにする――わが子がギフテッドか否かにかかわらず、親は肝に銘じておきたい金言である。
デイリー新潮編集部